氷上のデブ

思いついた、試した、いつまで続くか分からない。

虫かごの双子

 今日も雨が降っている。しっかりした粒の雨で、数日降っているから、山にもだいぶん水が溜まっているだろう。
 継国兄弟の住む家は山あいの村にある。代々家族で住んできた大きな家をたたんで移り住んだ古い農家だ。裏にかつてはこの家の畑であった土地があり、そこに道場を建て、双子は子どもたちに剣術を教えている。今日は稽古もなく、自主的に出てくる子もおらず、道場も雨に濡れたままじっと母屋を見つめているようだ。まもなく日も暮れて、道場も双子の住みかも雨だけでなく暗さにも包まれるだろう。
「ゲコゲコ……ゲコ」
 居間から縁側へ出て窓の前に立ち、縁壱が呟いた。居間でクロスワードパズルに取り組んでいた兄の巌勝は、顔は盤面に向けたまま目だけを動かして縁壱を見た。
「『今日も雨だった』かな」弟の「蛙語」でのひとり言を訳してみる。
「違います」縁壱はさっと居間へ戻り、巌勝の隣へ膝をついた。袴がしゅしゅっと音を立てる。「そのような軽いものではありません、もっと『ガチ』です、『ガチ』ですよ兄上」
「『ガチ』……か」表に出さないようにはしているが日頃から溺愛している弟が、かわいらしい事を言ってくるので、巌勝は笑いそうになっていた。二十を過ぎても全く衰える気配のないかわいさ。巌勝は弟の事を好きになりすぎて困っているのだ。
「『ガチ』の『ゲコ』です」縁壱は再び縁側へ行き、腕組みをして外を見る。薄暗い中、向かいの山をよく見るため、目を細める。「もう四日は降り続いています」
「仕方あるまい、自然の事だ」
「しかしこれでは洗濯物がまったく乾きません」
「それはあるな」巌勝はボールペンの尻を額に当てたまま軽く頷いた。もう盤面は見ず、弟の後ろ姿をじっと見ている。彼はいつも少し変わった柄の長着を着ており、今日のものも小さな「うさちゃん」があちこち飛び回っていた。
「長着はあきらめるとしても、肌着やタオルなどがどんどん溜まります」
 継国家の洗濯機は十年選手で、乾燥機は滅多に使わないのに昨日使ってみたら壊れていた。スイッチを入れると物凄く大きな音を立てながら作動したので、洗濯物が燃えるかもしれないと思った巌勝がスイッチを切った。洗濯はスムーズにできるので、金を出して乾燥モードの修理を頼むかどうか少し悩んでいる。家が広いため、乾燥機を使うより部屋干しをするのが常である継国兄弟は、乾燥機がなくともさほど困らないと思っているのだ。今も居間と隣の客間で繋がっている縁側にずらりと洗濯物を干している。
 しかしこの降り方では、いくら干す場所があるといっても着る物が無くなってしまう。
「ゲコ……」
「今のはなんだ」
「ため息です」
 ダメだ、萌え死ぬ。巌勝は堪える。
「そういえば」無理矢理縁壱から注意をそらせる。「この間も雨が降っただろう?」
「午後から突然降った時ですか?」少し身をかがめて鴨居をくぐり、縁壱は居間に入ってくる。巌勝の正面に座った。二人は、こたつ布団を取り去ったこたつをちゃぶ台代わりにしている。
「その時だ。Aさんの奥さん、屋根に布団をずらりと並べていてな。あれが全部濡れていた」
「それは……大変ですね。布団は大変です。奥さん……」縁壱は言葉を切って軽く顔をしかめた。「Aさんは奥さんに少し厳しい方でしたね」
「大丈夫だ、奥さんも旦那にめちゃくちゃ厳しいそうだから」
「よかった」縁壱は、少し伏せていた顔を上げて微笑んだ。
「しかしそんなによくもないぞ」巌勝は目を大きく開けてみせる。「あそこの夫婦のケンカは凄いんだ。布団を濡らしたなど関係なく、毎日のようにダイニングがリングと化すらしい」
「イカリングですか?」
「いや、そうじゃない」萌えのマグマに吐血しそうになりつつ巌勝はかぶりを振る。「ボクシングとか、プロレスとか」
 縁壱が「あっ」と言ってから顔を赤くした。「分かります、リングですね。すごい夫婦ゲンカだから。しかしそこまでとは、それはスポーツとしてやっているのでは?」
「そんな訳ないだろう縁壱。ケンカなど、やろうと思って『さぁこい』なんてできるものではない」
「そうだ!」
 言ってから縁壱が口を閉じ、巌勝は弟の顔を見た。縁壱は宙を見つめているが、その内無意識であろう、ぷーっと小鼻をふくらませる。左の額から頬にかけてある赤い痣の色が少し鮮やかになったようにみえた。
「兄上、私はとてもよい事を思いつきました」
 絶対「よい事」ではない自信が巌勝にはあった。
「ケンカをいたしましょう!」
 ほらな。
「待て、縁壱、なぜ私たちがケンカをするのだ」
 縁壱は前のめりになって巌勝の方へにじり寄ろうとするが、ちゃぶ台代わりのこたつに阻まれる。
「兄上、我々は滅多にケンカをしません。だから、今ケンカをするのです。派手にやって、驚かせるのです」
「何を」
「天を」
 巌勝は口を引き結び半眼になった。天井を指す縁壱の右手をつかんでぺろぺろ舐めてやろうかと思ったが、弟に変態認定されるのはつらいので堪えた。
「何のために天を驚かせるのだ縁壱」
「勿論、雨を止ませるためにですよ!」縁壱は微笑む。「たとえば、私は昔テストで少しよい点を取った時や体育のサッカーで点を取った時などに先生に『明日は雪が降るぞ』などと言われました。珍しい事をすれば天気が変わるのです!」
「ん……そ、そうか」巌勝の返事は殆どうめき声のようになっていた。「しかし、さっきも言ったが、ケンカなどやろうと思ってできるものではないぞ」
「我らならできます! 兄上! 継国兄弟なら!」
 巌勝は唸りながら腕組みをした。
 ケンカなど……どうするのだ。私は縁壱が大好きなのに……罵り合ったりそこからの殴り合いをしたりするのか? そんな事をしていたら私は泣いてしまうかもしれない。そんな情けない顔を縁壱に見せられないだろう。
 縁壱はどこかうれしそうな顔で巌勝をじっと見ている。
 しかし私が縁壱を好きすぎるという事はひとつの弱点だ。ケンカをするとその辺りの加減がうまく補正されるかもしれないな。
 遠くで雷の鳴る音が聞こえ始めた。

 それから五分ほど経ったが、継国兄弟は向かい合って座り、首を曲げて窓の外を見たまま一言も口をきいていない。
 日の暮れた外では稲妻が走る回数が増えてきている。
「兄上からどうぞ」ようやく縁壱が言った。巌勝はびくっと肩を震わせる。
「私から? 何を言うのだ」
「私を罵って下さい。ケンカを始められませんから」
「縁壱が口火を切ってもよいのではないか?」
 今度は縁壱が肩を震わせる。
「とんでもない。そういう事は年上の者がした方が上手くいくのだと相場が決まっています。このケンカは雨が止むまで続けますよ」
 巌勝はぐっと眉根を寄せた。「年上」とは……。
 しかしここで押し問答していてもらちが明かない。
「バーカ」
 とにかく縁壱を怒らせようと様々な「悪口」を並べ始める巌勝。しかし、道場に通う年少の子どもたちのケンカをどうしても思い出してしまい、なかなか臨場感が出ない。しまいに縁壱が笑い出してしまった。
「兄上がそのような幼稚なものいいをなさるなんて、面白すぎます」
 巌勝は唸りながら腕組みをし、考えた。そして思いつく。
 本当に嫌いな人間を思い浮かべ、彼に向かって罵ればよいのではないか。罵るなどというのは巌勝にとって、日頃あまりしない事なのだが、縁壱に向かって言っているという事を忘れてしまって頑張ればなんとかなるかもしれない。
 彼はぎゅっと目を閉じた。
「私は貴様に言いたいことがある」巌勝の頭の中にはどうにも馬が合わないBさんという三十くらいの男性の顔が浮かんでいる。近所に住んでいる人だ。「貴様私のいないところで『ああだ、こうだ』と私の悪口を並べ立てているらしいな」
「き『貴様』は失礼なのではないかと思います」
 頑張って反撃してくる縁壱がかわいくて、巌勝の中に少しいたずらな気持ちがわいてきた。
「失礼もくそもないであろう、先にそちらが失礼なのだから! とにかく貴様は人の悪口を言う前に己の服装をどうにかするべきだ」
「ふ、服装っ?」
「昨日も着ていたあのウンコみたいな色の服はなんなのだ。あれで金色のつもりか。しかも白いズボンと合わせるなどチロルチョコレートに謝れ。レトロなチロルに謝罪しろ」
「あ、兄上?」
「私は貴様の兄ではない」
 縁壱は目を見開いた。ノリノリになってきた巌勝は目を開き、
「言いたいことがあるなら言い返せ、情けないぞ縁壱」
「わ、わ、わわ、わたわた私はチロルが大好きです!」
「更に貴様のヨメもなんだ、Cさんの奥さんに嫌がらせばかりしているが、そのような事をしているからどんどん服のセンスが悪くなっていくのだ」
「なんでまた服ですかっ? というか、私には妻はいませんからっ!」
「貴様は日頃の行いが悪いので肩に『妖怪奥さん』が乗っているのだ」
 縁壱は二、三度前後に揺れ、わなないた。
「日頃の行いを改めよ、馬鹿者」
 なぜか満足して鼻息をふんと吐いてから、巌勝はぎょっとした。
 縁壱の目にみるみる涙が溜まっていっているのだ。それはすぐにあふれて頬へ流れ出した。
「よ、縁壱」
「あ、あ、あにあにあにあに……」ひょひょひょと震えながら息を吸う。
 巌勝は、こんな風に小さな子どものように泣く大人を初めて見て驚いていた。が、それもつかの間、一瞬で胸を貫くような痛みが襲ってきた。
 縁壱が泣いている。私が泣かせたのだ。そして私は縁壱を罵る事に少し陶酔していた。
 激しく降る雨と雷鳴のために、縁壱の嗚咽は切れ切れに聞こえるが、閉じられた目から次々とこぼれてくる涙のしずくが、巌勝の胸をねじってねじって、仮想の肋骨を粉々に砕いた。
 ケンカしようと言い出したのは縁壱なのになぜそんなに泣くのか。
 私はやりすぎてしまったのか。
 そして……嫌われてしまったのか!
 巌勝の粉々の胴体が瞬間冷凍され、同時にひときわ明るい稲妻がひらめき、空が割れたかのような大きな雷鳴がとどろいた。
 そして、家じゅうの電灯が消えた。
「縁壱」真っ暗な中巌勝は、向かいに座る縁壱の方へ手を伸ばし、彼の両腕をつかんだ。しばらく二人、そのままでいる。
 それから縁壱が鼻水をすすり、
「懐中電灯を持ってきましょうか」と、鼻声で言った。
「いや、すぐ復旧するだろう。それより――」
 電気がついた。少しまぶしく、双子は一瞬目を細めた。
 巌勝は縁壱の顔を見てほっとした。もう泣いていないし、泣き出した時のような悲しそうな表情をしてもいない。しかし、だからこそ、悪かったという感情が心を急に熱くした。凍った心を取り出して湯舟に放り込んだかのようだった。この熱を縁壱へ伝えなければと、巌勝はつかんでいた弟の腕を数回ゆすってから離した。縁壱が巌勝の顔を見る。そして
「申し訳ありません、兄上」と言った。
「む……」先に謝られてしまった巌勝は眉根を寄せたが、それは気分を害したからではない。続いて自分も謝ろうと思ったのだが、今この流れで謝るというのは思ったより重い事だったのだ。
「私が無理を言ってケンカなどと……挙句泣いてしまいました」縁壱は少し頬を赤らめる。「しかも、雨はひどくなっているし、雷まで。停電もしましたし……失敗ですね」
 巌勝はちゃぶ台の角を回って縁壱の隣へ行き、腕を回してぎゅっと彼を抱きしめた。縁壱はおとなしくしている。
「先程『チロルチョコレート』だの『妖怪奥さん』だの言っていたのは、B夫妻の事だから、縁壱は気にしないように」
「兄上」縁壱はくすくす笑う。「B夫妻の事、そんなに嫌いなんですか」
「どうにも相性が悪い。隣の組でよかった」縁壱の髪をふわふわとなでてから体を離す。そして唐突に言った。「コインランドリー」
 兄のつぶやきに、縁壱は「あっ」と声をあげた。
「縁壱、私たちは今までなぜ気づかなかったのか、コインランドリー」
「使った事がありませんからね」
「かつていた家政婦さんは使っていたやもしれんな。しかし我らも今こそ使う時であろう」
 確かにコインランドリーを利用すれば、今の継国家の問題は解決するはずだ。
 縁壱が立ちあがり、巌勝も続いた。巌勝の右手を、縁壱が両手で握った。
「コインランドリーに行ったら、ついでに夕食もどこかでとってしまいましょう。今日は私がおごります」
「私はお前を泣かせてしまったぞ」巌勝の頬は熱くなっている。
「いえ、それはケンカの一環です。それに今日のケンカは泣いたら負けですから、私がおごります。でも、車の運転は兄上にお願いします」
 巌勝はうんうんとうなずいた。
 二人で協力して大きなエコバッグに洗濯物を入れていく。長着と袴はコインランドリーで乾燥させるのは危険だろうと、竿に吊るしたままにしてある。
「留守番、頼むぞ」縁壱が残された着物に声を掛けた。
 雨はまだざあざあ降っている。
 傘をさして母屋の軒を伝い、前後に並んで裏の車庫へ向かう時、
「Bさんは兄上の悪口を言ったりするのですか?」と後ろから縁壱が尋ねた。
「いや……まぁ……」
 巌勝の背中に垂れる結われた長い髪を見ながら、縁壱は少し怒った顔になる。
「もしそうなら、私はBさんを説得したい。兄上の悪口を言うなんて、彼は兄上の事を誤解しているに違いない。兄上を悪く思うなんておかしいです。私は――」
 巌勝は足を止めてくるりと振り向いた。二人の傘がぶつかり、互いに逆の方へ跳ねた。縁壱が落としそうになった傘をぎゅっと握って立て直してから兄を見ると、彼は笑っていた。
「全く大した事ではない、お前が怒るような事でもない」
「怒っている訳では――」
「もし本当に腹が立つのなら私が自分で奴に言うさ」車のキーをチャリッといわせながら縁壱の頭に手を置く。片手に傘、もう片方の手に洗濯物の入ったエコバッグを持っている縁壱は軽く目を閉じて子どものように頭をなでられる事に甘んじた。
「行くぞ」巌勝は再び歩き出す。「どこで何を食うか考えておけ」
「私のおごりですから兄上、兄上が考えて下さい」
 車庫に着くと、近所の農家から譲り受けた古い軽自動車に二人は乗り込んだ。街へ向かう。
 山を抜ける道はきれいに舗装されているが、水がだいぶあふれていた。控えめのスピードで慎重に運転する巌勝の横で、縁壱はまた「ゲコゲコ」言っている。それが聞こえる度巌勝は、頭の中で自分の都合のよいように縁壱の「蛙語」を訳すのだった。

【完】