優しい人って、ちょっと損してるくらいのバランスがちょうどいいってとこ、あると思う。それはなんかこう、優しさもあるし、自分の好みみたいなものもあると思う。人間関係の形に関する好み。バランスの好み。
でもな、例えば甘いものなんかでも、好みの甘さを越えるともうそれはまずいものってなって食べられなくなるってある。
そういう状態になると、優しい人の優しさがどんどん砕かれてバラバラになって砂になって、心の呼吸をする孔があったとしたら、そういう所から漏れていく。そんで、優しい人の心は干からびていく。
そんな風になる事もあるんじゃないなかぁと、思う事があるんだ。
優しい人の優しさを、栄養ドリンクみたいにぎゅっぎゅと飲む人々が、確かにいる。
そういう人たちは、何よりも誰よりも自分の事が好きだし、そうだから、周りの人に興味がない。誰かに対して「あなたの事、とっても好きよ、優しいから好きよ」って言ったとしても、その「あなた」は本当のところ「私の事をかわいがってほめて、話もいっぱい聞いてくれて嫌な事は言ってこない、私にとってもとても都合のよいあなた」って感じなのかもしれない。人に興味がないから勿論思いやりをもつという感覚もないだろう。
たいていの人はそう言う人に出くわすと黄色の回転灯がくるくると注意をうながして、近寄ってはならないよという判断にいきつく。
でも、一定数の呑気な人や優しい人は、そういう回転灯が壊れていたり、生まれつきなかったり、それから、回転灯の忠告を見なかったことにしたりする。
それで傷付く人たちをみると、私もなんだかとても悔しい気持ちになる。
優しい人同士が、なんらかの行き違いで傷つけあってしまったとか、そういうパターンなら、それはそれでそれなりのバランスなのよね。ごめんなさいねっていうのがまだ効く。
でも、優しい人が一方的にものすごく乱暴に傷つけられていたりすると本当にくやしいというか、もったいないというか、なんちゅうか本中華(?)。
なにを書きたいのやら、とりとめがなくなってしまうけど、ま、自分の事は本当に大事だけれども、それなら自分で自分をかわいがればいいのであって、人を使って自分をかわいがるのはよそう、大人ならっていう、そういう事もあるよね。
うむ。
人間は、ひとりぼっちじゃさみしい。だけど、集まっててひとりぼっちよりひどい状態になってしまうなんていうのはもったいない事だしバカな事だししょうもない事だ。
もっと、心と頭の翼を広げて、ちょっと高く飛んでからいろんな言動をするといいのかもねぇなんて、思った。