氷上のデブ

思いついた、試した、いつまで続くか分からない。

【本文サンプル】『コーヒーと牛乳』(3/27エアブー新刊書き下ろし短編)

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 伊黒小芭内はよくコーヒーや紅茶を淹れてくれる。
 今も厨房でコーヒーを淹れるべく、「継国部屋」のミニ冷蔵庫から出してきた缶のふたを開けている。缶には挽かれたコーヒー豆と計量匙が入っていた。
 巌勝は隣で小芭内に言われたとおりにペーパーフィルターの端を折っている。
 いつになく無口だな、小芭内。
 そう思った時、小芭内が巌勝を見上げた。一九〇センチ近い巌勝と一六〇センチ少しの小芭内だから、立っているといつも見上げる形になる。
「何か言ったかミチ」目をくりくりさせる。眼光が少し鋭いと巌勝は思った。
「何も言ってないけど俺はブラックでいいって言おうとしてた」
「ふん。分かっているぞ。よりちは牛乳たっぷり、俺はオーレ、お前と実弥はブラックだ」
「しょっちゅうだからな。いつもありがと」巌勝の手からペーパーフィルターを取り、ドリッパーにセットする小芭内を見る。「ていうか、なんかちょっと、不機嫌だよな?」
「俺がか」
「お前がだ」
「ふん! 言わせてもらうが、お前の方がよほど不機嫌だと思うぞ」
「えっ」
 顔に出さずにおこうとしたのに……。巌勝は半笑いになってしまう。
「俺が不機嫌なのはさっきも言ったが、マスクを盗まれたからだ」小芭内は、オーレは一対一であると、自分のカップに半分近く牛乳を入れて電子レンジで温める。「まとめて洗った六枚を全部やられた」
「六枚持ってるのがすごいな、まず」
「ふん」
「下着泥棒ならよく聞くけどマスクなんか盗んでどうするんだろうな」
「それよりお前のイライラだ」コーヒーケトルがないので小さめのやかんを使ってドリッパーの中のコーヒー豆に湯をくるりとたらす。
「俺のは……まぁ、マスクより些細だよ」鼻孔を満たすコーヒーの香りに思わず「どうでもいい」と言いそうになる。しかし、どうでもよくはない。小芭内が再びドリッパーに湯を注ぐと、コーヒー豆が細かい泡を含み、ドーム状に膨らんだ。
「こういう感じだよ」巌勝は流し台にもたれてドリッパーに顔を近付けた。「こういう感じに、またぶわって膨らんでんだよ」
「はぁ……」小芭内は少し口をつぐんで湯を注ぐ。「あれか。『俺の方がずっと好きだ』ってやつか」
 巌勝はため息をついた。
 彼はあまり人に自分の事を話さないが、小芭内は別で、よく双子の間で心の糸がもつれた時には話をする。巌勝が弟の縁壱に愛情を注ぎすぎて勝手にもがいているだけなのだが、小芭内は馬鹿にする事もなく聞いてくれる。
「毎度毎度と思われるだろうけど、俺ばっかりが縁壱を好きだって事に本当に嫌気がさした。縁壱は俺の事なんか全っ然好きじゃない」
「それはどうなんだろうな」小芭内はガスコンロにやかんを戻した。鍋つかみ代わりの乾いたふきんを流し台の上にぽいと置く。「お前、がりまるの事でやきもちを焼いているんだろう」
 巌勝は黙った。ぽとぽととコーヒーがサーバーへ落ちる音が止まる。
 がりまるというのは、二年の寮生だ。勿論、男子だ。がりまる・じろまるという二人組で、巌勝たち一年四人と二年生の冨岡義勇は「がりじろ」と呼んでいる。
 じろまるは小芭内に、がりまるは縁壱に恋をしているらしい。そして、わりと積極的なのだ。じろまるは小芭内自身が厳しい態度を取るため近づきがたく感じているらしく、そんなに気安く話しかけてくる事もないのだが、縁壱はとても気さくだ。気さくで優しい。そのため、がりまるはよく「継国君、継国君」と話しかけてくる。
 巌勝はそれが気に入らない。縁壱の優しさを殺すまいと、ずっと我慢してきたが、この頃どうにも我慢できない。スマートフォンでメッセージを送ってくるまでになった。その時には縁壱と少しケンカになって、縁壱が折れる形でやめさせる事ができた。
 縁壱には、俺の気持ちが分からない。
 縁壱は、逆に俺ががりまると仲良くメッセージのラリーをしていたって、気にならないんだろう。
「結局、縁壱は俺が縁壱を好きなほど、俺の事を好きじゃない」
 それぞれの割合で温めた牛乳を入れてあった二つのマグカップにコーヒーを注ぎ終えた小芭内は、先に淹れていたブラックの一つを巌勝に突き出した。「がりまるの一件を引きずっているようだな」
 巌勝は顔を歪めて、リビングの大窓の外に見える、実弥の姿を見た。木刀で素振りをしている。目をそらし、泣くまいと奥歯を噛み締めた。
「実弥のやつ、鬼に襲われてからこっち、やたら体鍛えてるな」小芭内がぼそっと言った。返事がないので、巌勝を見る。彼は、鼻の下あたりにカップの縁を近付け、コーヒーの香りをかいでいるような、いないような、息を殺して宙を睨み付けている。
 小芭内は、小さくため息をついてからカフェオレを飲んだ。
 少し距離を取ろう。巌勝は決意する。この決意をこれまで何度してきた事か。一番頻繁であったのは、中学の頃だった。家にいるのに下宿人のように過ごしていた縁壱。巌勝はいつも縁壱に親しい態度を取り、愛情を見せて接してきた。しかし縁壱から巌勝の方へ近づいてくる事はなかった。それが父のせいであるという事は分かっていたが、その頃の巌勝は、父の言いつけや態度をはねのけて自分の所へ飛び込んできて欲しいと思っていた。今思えば子どもじみている。
 しかし、形を変えただけで、同じような事を今も思っているのだ。しかも。
 俺は縁壱に恋愛感情を抱いているらしい。
 この事が巌勝の、縁壱との愛情のバランスに執着する大きな一因となっている。
「おーいィ! コーヒー入ってるじゃねェか!」
 実弥の声で、巌勝は我に返った。流しの上のマグカップに近付く実弥の服をつかんで止める。
「何で素振りの後コーヒーなんだ、何かあっちで買えよ! これはよ……」少し言いよどむ。「縁壱のコーヒーだ」
「よりちのかァ。牛乳ドバドバのコーヒーだな」
「てか、実弥、一体なぜそんなに鍛えているんだ」小芭内が訊く。
「それはァ……冨岡先輩と釣り合いてェからだよォ」
「ファ」巌勝は思わずおかしな声をあげてしまう。「釣り合うってなんだ」
「先輩とォ、同じ強さになりてェんだ」
「実弥十分強いじゃん」
「先輩と同じつってんだろォ! ミチ、お前、あの時の先輩見てねェからァ。俺は鬼狩り冨岡義勇と釣り合う強さになりてェんだ」
「ふん」小芭内が鼻から強く息を吐いた。「対等だというのが必ずしもよいバランスである訳ではないぞ実弥」
「うるせェ」言い捨てて、実弥はリビングの壁際にある自動販売機の方へ歩いていった。

 

 はぁ、無理だ。
 巌勝は顔を天井へ向け、目を閉じた。
 先発後発の二班に分かれての入浴、後発隊に入っていた縁壱が、ほかほかになって浴室から共有スペースのリビングへやってきた。小芭内や義勇も一緒だったが、巌勝の目には「ほかほか縁壱」しか目に入っていなかった。目を閉じてその残像を追い出そうにもなかなか追い出せない。
 ソファに座る巌勝は、隣に誰かがどすんと腰を下ろす衝撃を感じる。ため息で、それが縁壱だと知る。片目を薄く開けて縁壱を見た。
「どうした、ため息なんて」
「お風呂でマスクの話を聞いて。六枚も盗まれたなんて、いぐちーかわいそう。気持ち悪いし」
 巌勝は再び両目を閉じる。「そうだな、かわいそうだな」
「寮生なんかなァ」カップ麺をすする合間に実弥が言う。「寮生だったらすぐ捕まるんじゃねぇかァ?」
「寮生だろうが外部の者だろうが、これは必ず解決せねばならない問題だな」腕組みの義勇が言った。寮長であるから、彼にとっても大きな問題なのだ。
「ね、みんなで犯人を捜してちゃんと返すよう説得しよう」縁壱が言い、巌勝の組まれた腕に手をかけた。「兄上、犯人捜そう」
「うーん、俺はちょっと無理かな」
 巌勝が言い、縁壱は少し驚いたように身を引いた。いつもならすぐに「よし、一緒に捜そうか」となるところを。巌勝はそのまま立ち上がり、茶を飲んでいたカップを持って台所へぺたりぺたりと歩いて行った。シャワーサンダルの黒と靴下のミントグリーンのコントラストがまぶしい。縁壱の目は、部屋に入り込んだ羽虫を追うように、そのコントラストを追った。
 巌勝は背中で縁壱の視線を感じていた。双子だから分かる。縁壱がショックを受けたという事も。そして、兄に腹を立てるよりは、自分がどんな悪い事をして怒らせてしまったのだろうと思い悩むという事も。
 湯が出るはずだが、巌勝はレバーハンドルを水の方向へ回してカップを洗った。ナイフの刃先のようなするどい冷たさで、手が痛くなる。
「情けないな、最狂ブラコンの名が廃るぞ」
 いつの間にか真後ろに立っていた小芭内の声に、巌勝は飛び上がった。カップを取り落とす。カップはドゴンと音を立ててシンクに落ちた。
「お、お前は忍者か」巌勝は、カップが割れていないか点検する。
「お前の八つ当たりで傷付けられるなど、よりちがかわいそうでならん」
「うるさいな」タオルハンガーからふきんを取り、カップの水気を取る。「よりちよりちって、お前らいつも縁壱の事を甘やかして、お前らの弟じゃないし、縁壱は小学生じゃないぞ」
「申し訳ないが、俺はよりちの事ではなく、お前の事を心配しているんだ」
 巌勝は黙った。
「お前がそうやっていじけている間に、よりちはお前よりずっと頼りになる誰かを好きになってしまうぞ」
 巌勝はまだ黙っている。カップを拭く手も止まってしまった。そして、それらを調理台の上に置き、体ごとくるりと回転させて小芭内を見た。
「どういう、意味だ?」
「お前は自分のくだらないいじけ魂のために、大好きなよりちを誰かにとられてもいいのかと、そう言っているんだ」
 言ってから小芭内は、いつもの柄布のものでなく不織布のマスクの鼻先をつまんで少し引っ張ってから離した。柄布のマスクは六枚盗まれたので、後四枚しかないらしい。
「お前……お前、小芭内、いや、違うぞ」
「何が違うんだ」
「だから、俺がその――」
「貴様、よりちに恋愛感情を抱いているだろう」
 何かの宣告を受けたかのように、二人とも黙った。冷蔵庫のうなりが聞こえる。
「人間は皆弱い」小芭内が低く抑えた声で言う。「お前だけじゃないぞ。傷付いたら優しい人にもたれかかりたくなるものだ。それがお前じゃなかった場合、よりちが遠くへ連れ去られても、俺は知らんぞ」
 巌勝は黙って小芭内の琥珀色の右目を見ていた。
「これをがりまるに言ったらどうなるだろう。『お前はよりちの兄を相手に戦うんだぞ』と」
「小芭内――」
「がりまるは他の二年生にも言うだろうな。『継国君の兄貴はちょっとおかしいらしいぞ』と」
「おば――」
「よりち本人にも伝わるかも――」
「小芭内!」巌勝は両手で小芭内の肩をつかんだ。「俺は……俺はどうしたら――」
「よりちと一緒にマスク泥棒を捜せ」
 巌勝は言葉を遮られた時の開いた口のまま、小芭内を見る。
「ミチが俺の言うとおりにするなら、俺はお前の事を胸骨の後ろ側へしまっておいてやってもいい」