氷上のデブ

思いついた、試した、いつまで続くか分からない。

パイシート/まかろん

 

パイシート

 がりまるという二年生がいる。
 彼の事を考えると、巌勝は知らず知らず眉根を寄せてしまう。縁壱に言わせると「ノスリのような目をしている」らしい。
 ノスリとは。お前はなんだ、ぽやぽやした顔をして。
 巌勝は腕組みをして首を左右交互に傾けた。骨がポキポキ音を立てる。
 ぽやぽやしているからがりまるなんかに好かれてしまうのだ。
 そこまで考えて、頭蓋骨の内側にぶつかって跳ね返ってきた自分の勝手さに目を閉じる。
「何を悩んでいるのだ難しい顔をして」
 同室ではないのだが、継国兄弟の部屋に住み着いている小芭内が声をかけてきた。
「別に悩んでは……いないけど」
 小芭内は少し目を細めて巌勝を見る。
「がりまるがさ、スーパー行った土産にって縁壱にパイシート買ってきてさ」
「パイシート」
「パイシート」
 二人の間で「パイシート」は一往復半。
「はぁ、また出たなこじらせブラコン」小芭内は、「弟を好きすぎる巌勝」にはすっかり慣れてしまった。「今度はなんだ。パイシートの後があるのだろう」
「あいつ次のお茶会の菓子作り、縁壱の助手をかって出たらしい」
 小芭内は目をくりくりさせて「ふぅん」と言った。
「パイシートが何かも知らず、うまそうだとか言って土産に買って帰るアホが菓子作りの助手などおこがましすぎるだろ!」巌勝は宙に向かって炎のように言葉を吐き出した。
「パイシートが何なのか、ミチとて知らんだろう」と小芭内。
 巌勝は彼を見た。
「お前は知ってんのか小芭内」
「……パイのシート?」
 二人は黙り込んだ。彼らの間を、廊下を行き来する寮生たちの足音が通り抜けていった。二人とも急にスイッチが入ったように互いを見て、少し笑った。
 
 
「お前がやれよミチ、その菓子作りの助手とやらを」小芭内が手で口元を隠す。巌勝はにやにやしながら
「俺も今それを考えていた。がりまるはクビだ」ドアへ向かう。
 巌勝が出てゆき、音を立てて閉められたドアを、小芭内はしばらく見ていた。それから巌勝のベッドに上がって壁にもたれ、足を伸ばして座り、読書を始めた。継国兄弟と彼らに関わる人間たちのものに比べれば、小説の主人公の人生は平べったいパイシートのように思えた。

【完】

まかろん

「暑い、暑い、すっごくあったまった!」
 縁壱のひとり言は、声をはずませつつも、さほど音量は大きくない。
 冬であるから、高校の寮は共有スペースも暖房で暖かい。二班に分かれての入浴で、縁壱の兄、巌勝は先の班になり、一時間近く前に入浴を済ませているから、もう体は冬モードだ。
「暑いかもしれないけど、ちゃんと着ておかないと湯冷めするぞ」巌勝は弟を眺めながら言った。
「もうちょっと、大丈夫」うっすら笑い、縁壱は持っていたバスタオルで髪をこするように拭いた。
「おいで、部屋へ戻ろう。兄さんが髪を乾かしてやるから」巌勝は縁壱の二の腕を引っ張り、ソファから立たせた。「脱衣所のドライヤーで乾かせって毎日言ってるだろう」
「兄上と一緒じゃないと、早く出たくなって面倒だから」
 二人で廊下を進みながら縁壱が言った言葉に、巌勝はどんと胸を叩かれたような気がした。

 自分たち兄弟と、同室の者がカップルになってしまって居心地が悪いと転がり込んで居候している同級生の三人で使っている部屋で、巌勝は縁壱の長い髪を乾かした。
 床にマットを敷き、その上で寝袋を使って寝ている同級生の小芭内が、
「お前ら、髪型とか痣とかで区別つくけど、そういうのが全部一緒だった場合には、やっぱり区別つかんのだろうな」と言った。
 ドライヤーの音で聞き逃した双子だったが、スイッチを切り、もう一度言ってもらった。
「うーん」巌勝は小さく唸った。縁壱は二人で座っていた巌勝のベッドをおり、自分のベッドへ行ってブラシを探している。「それはずっと言われてきたけど……」巌勝はずっと縁壱を眺めている。
 例えば。体格も同じだが、他人には分からない違いがある。巌勝は思った。
 髪型を同じにしても、少し、色が違う。
 瞳の中にも違いがある。
 縁壱の歯は、もし全て抜けて落ちたら、すべすべの廊下をころころ転がっていくだろう。俺の歯は多分、そうはいかない。
 巌勝は、少し微笑んだ。
 もし、縁壱の顔の痣がなければ……それでも額の丸さがわずかに違うから、俺が他人になって俺たちを見たなら見分けるだろう。
「兄上の跳ねてるのも直すよ」縁壱は自分の髪を放っておいて巌勝の後ろに膝をつき、巌勝の髪をブラシでとかしはじめた。
「馬鹿、俺のは短いからどうしようもないんだよ、美容院でセットしたって帰るころには跳ねているんだから」
 巌勝が言うと、縁壱は「ふふふ」とうれしそうに笑った。
「兄上」手を止めて、巌勝の隣に座り、ベッドから足を垂らす。小芭内は双子の観察をするのがわりと好きで、興味深げに見ている。
「兄上、さっきずっと俺を見ていたよ。いぐちー(縁壱の小芭内に対するニックネーム)が区別つかないなって言ってから。区別、ついた?」
「当たり前だろう」正面を向いたまま、巌勝は腕組みをする。「俺しか知らない俺たちの違いがいっぱいあるんだ。俺しか知らないんだから――」腕組みのまま体をねじって縁壱を見る。「お前だって知らないぞ。お前の知らない、俺の知ってる縁壱のアレコレがあるんだ」
「俺もだよ」縁壱は巌勝の顔を見てにっこり笑った。「俺も、兄上の知らない兄上のアレコレをすごくたくさん知ってるよ」
 巌勝の腕組みが、ぽろりと外れた。小芭内が寝返りを打って、双子に背を向けた。どうも、笑っているようだ。
「あ、そ、そうか、それは、そうかもしれないな」と巌勝。平静を装っている。縁壱はうんうんと、頷いた。
「で、縁壱、その、俺の知らない俺のアレコレっていうのはどういうアレコレだ?」
「うーん」今度は縁壱が正面を見る。壁のひび割れを川にしてマジックで空想の世界地図を描いたのは縁壱だ。「今言えって言われたら、急には思いつかないよ。でもいっぱい知ってるんだ。兄上をずっと見ている時なんかに、『あっ』って発見するからね」再び巌勝の顔を見る。
「また発見したりとか、それか前のやつを思い出したりしたら、すぐ兄上を呼ぶよ」
 にっこり笑った縁壱の顔を、巌勝はまともに見られず思わず目をそらした。まぶしかったのだ。
 目を細めたまま、架空の世界地図を見つめる。
 俺の知らない間に、縁壱にそんなに見られていたのか。それを思うと、鼓動が鋭く叩かれたティンパニのように高鳴る。
 どんな顔をして見ていたのだろう。
 いや、深く考えるな、落ち着け、俺。
「兄上? なんか、すっごく汗かいてる」
「あ、暑いよな、なんか、今日」巌勝は声に心の震えが伝わらぬよう、必死で胸に力をこめた。
「なんか飲むもの買いに行こう!」縁壱は巌勝の手を掴み、ぎゅっと握った。そして、立ち上がる。
「そ、そだな」よろよろと立ち上がりながら、巌勝は
「小芭内も何かいるか?」と言った。
「俺はいらない。自販機までの数十メートル、特別な時間を過ごしたまえ」言いながら、小芭内は枕元の鞄から本を取り出した。

 特別な時間……。縁壱と並んで廊下を歩きながら、いまだ静まる事のない胸の高鳴りをどう理解していいのか、巌勝は戸惑っていた。
 俺たちは、特別だ。双子だからっていう事もあるかもしれないけれど、多分、他の双子たちよりずっと特別だ。
 狭めの廊下で他の寮生とすれ違う時、巌勝は手を伸ばして縁壱を守るようにして前後に並ぶ。
 ずっとかわいい弟だった。宝物だった。ずっと、弟を守る兄であろうとしてきた。それは今も同じだけど……でも、縁壱は縁壱で、俺の知らない俺を宝箱にたくさんためこんでいるらしい。
 居室の並ぶ廊下が終わる頃には、ティンパニの合間にジャーンと鳴るシンバルが、縁壱にキスしたいという衝動であると気付いていた。しかし巌勝は、風呂上がりでぼさぼさの頭をしている縁壱を見て、
「ダメだ、お預けだ『兄上』。この子はシンバルで泣くタイプの繊細な天使だぞ」とひとりごちた。
 他の寮生たちの立てる声やテレビの音の中でも、耳のよい縁壱が「何?」と言って巌勝の顔を見たが、彼は「ジャーン」と言ったきり、にやりと笑ってすぐ先に見える自動販売機を顎で指した。

【完】

前作:はじめてのクリスマス

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