氷上のデブ

思いついた、試した、いつまで続くか分からない。

らせんしんどろーむ

 

ねじとねじで、ねじねじ

「ばあちゃんのチューリップは妖精に守られてんのやで」
 庭の隅にある花壇のそばに立ち、祖母がそう言ったのは三年前の事だった。彼女は、花壇だけでなくこの家の庭に植えられた全ての植物が妖精に守られているのだと言い、
「巌勝は妖精、見たことあるか?」
と、孫に訊いてきた。
 巌勝は小学五年生だった。巌勝と言うからには、彼は前世では継国巌勝であり、継国縁壱の双子の兄であり、鬼舞辻無惨の元へ走り鬼となった黒死牟であった。彼は鬼のまま数百年を生き、鬼殺隊と戦い鬼として死んだ。そして、今世では人として生まれ変わった。彼は生まれ変わるタイミングが縁壱やばらトリオとは、ずれている。ばらトリオのかつての仲間たちでもそういう者はいる。人間に生まれ変わった者ももちろんいる。
 祖母の問いに、巌勝はかぶりを振った。
「ほぉか、見たことないか。いつか見るかしらん、そん時のためにも草花大事にせなあかんで。妖精は庭の外でも助けてくれはるさかいな」
 迷信だと巌勝は思った。トイレに唾を吐いてはならぬとか、彼岸花を家に持ち帰れば火事になるとか、そういう話も祖母から聞いており、それに並ぶ話だと思ったのだ。しかし大好きな祖母の言う事なので、巌勝は素直に頷いた。

 巌勝が前世の事を思い出したのは、祖母から妖精の話を聞かされる少し前の事だ。その日以降、明るく快活だった巌勝の口数が減り、ぼんやりする事が増え、更に彼はそれまで話していた方言を使わなくなった。父は息子を心配してやたら声をかけてくるようになったが、母は「早めの中二」と言ってさほど気にしない様子だった。祖母は父と同じく心配しているようで、彼女の思う「心の栄養になりそうな」話をしばしば聞かせるようになった。妖精の話もその一つだったのかもしれない。
 今となっては確かめようもない。
 彼女は今年亡くなった。巌勝が中学二年生になる直前の冬だった。
 前世の記憶を取り戻して三年経ち、巌勝は前世から引き継いだ元々の性格もあって明るさを取り戻していたが、忙しい両親の代わりにいつもそばにいてくれた祖母の死にはショックを受けた。夜の廊下で倒れ、そのまま帰らぬ人となったので、心の準備など全く出来ていなかった。病院からかかってきた母の電話で祖母の死を聞かされ、巌勝は物心ついてから記憶にないほど泣いたが、共に病院へ向かっていたタクシーの中で自分の隣で泣いている祖父を見、我にかえってしまった。静かに涙を流しているだけなのに、祖父の強烈な悲しみが皮膚から自分の心に染み込んでくるような感じがした。
 祖母とよく口げんかしていた祖父。巌勝は「おばあちゃん子」だったのでいつも祖母の味方をし、彼女に加勢した。しかし、祖父も巌勝と同じように、いや、もしかすると巌勝以上に祖母を愛していたのかと、その気付きそのものに彼は軽く衝撃を受けた。

 巌勝の祖母が死んでから三ヶ月経った。
 彼の生まれ育った北川家にも日常が戻ってきたが、祖父はぼんやりして、一日大音量のテレビばかり見るようになっていた。春だというのに田んぼにも出ない。
 巌勝は祖母の死からしばらくは、家族の死に恐怖を抱いて悪夢を見たりもしていたが、ここのところはそれも収まってきた。祖父の体調が気がかりではあるが、それと共に、前世の記憶が戻って以来の心配事が再び顔を出してきている。
 縁壱といつかどこかで出くわすかもしれない。
 巌勝はこれが怖い。自分がここに生まれ変わっているなら縁壱もどこかで生まれ変わって生きている可能性はゼロではない。
 江戸時代とか、第二次世界大戦中とか、逆に未来とか、その辺にしてもらいたいと巌勝は熱望する。
 しかしながら人生というものに関しては、彼は以前とは違う感覚を持っている。
 人生はちょろい。
 前世の記憶があるとはいえ、やはり中学二年生である。
 整った顔にすらりと伸びた四肢。背も高い。明るく素直で文武両道。巌勝は老若男女に好かれた。幼少の頃から友人も多かったが、前世の記憶を取り戻した頃に周りと距離を置く時期があったので、今は親友と呼べるような友人はいない。「ボッチ」ではないと、巌勝は思っている。自分から友人を遠ざけていった結果なのだ。小学六年生になった頃から少し陰のあるキャラクターであると周りに思われ出したが、それは女の子たちには眩しく映るらしく、巌勝はモテにモテた。教師たちにもかわいがられた。そんな状況は、巌勝が明るさを取り戻した後も続いている。
 人生は、ちょろい。
 祖母の死も乗り越えた。祖父とは違う。
 しかし、その「ちょろい」人生の中でも縁壱の顔を思い出すと、巌勝はなんとも言えない気持ちになった。
 もし縁壱と出会ってしまったら?
 何がどうなるのか具体的な予想は何ひとつできないのに、じんわりとした恐怖感がある。前世で鬼になった巌勝を見て「いたわしい」と言い、涙を流した縁壱。自分でも前世の自分を思い出すとなんとなくいたわしい。しかし、次の「ちょろい」人生を生きる中でも未だに縁壱にねじれた感情を抱くのはなぜなのか。今、自分はこの家のひとりっ子で、比べられる兄弟はおらず、親戚にも自分より「できる」子供はいない。
 縁壱。
 会ってしまえば、胃の中でとぐろを巻いているような、名付けようのないこの感情は霧散するのだろうか。
 「だろうか」では心もとない。こんな状態で会ってはならない。ならないと言うより、会いたくないと言うのが正直な心境である。
 巌勝は自室の窓から外を見た。山が連なっている。あの山を越えれば有名な焼き物の里信楽である。軽く、しかし勢いよく息を吐き、窓を開けた。網戸を通して少しひんやりした空気が流れ込んでくる。五月に入って晴天続きで、南東に窓のある巌勝の部屋は、昼間とても気温が上がる。
「あ」なだれ込むように鼻孔に入ってきた松の香りに、巌勝は小さく声を上げた。切られた松の枝やおがくずが入った袋が、農作業小屋の前に置かれたままになっている。
 巌勝の祖父は、大事にしていた松を先日、娘婿である巌勝の父に切らせた。あちこちに重りをぶら下げられ、妙な形に傾いて枝を伸ばした松の姿を思い出す。その松は、祖父が祖母と結婚した年に植えられたものだと、巌勝は母から聞いた事がある。彼は一度首を傾げてから窓を離れ、勉強机の前に座った。祖父のテレビの音を消すべく、叔父からもらった古いヘッドホンをつけて音楽を聴いた。松も縁壱もどうでもいい。勉強だ。中間テストに備えなければならない。前世では髪を長く伸ばしていたが、「北川巌勝」は短髪だ。長めの前髪は鼻の頭辺りまであり、真ん中で分けて左右に散らせてある。うつむくと視界に入るので煩わしく、巌勝は前髪を上げてヘッドバンドに挟み込んだ。ヘッドホンから聞こえる歌の中で、こじらせた恋心を持て余した女の子が泣いている。巌勝はシャープペンシルの先を眺めながら芯を長く出し、直ぐまたそれをノートに押し付けて引っ込めた。
 どこででも、女子も男子も心の中のツイストドーナツをつつき回して食べあぐねている。生きるものすべてがいたわしいんじゃないかなと、巌勝は少し乱暴にため息をついた。

 

 植物ガーディアンズ産屋敷組のばらトリオがいる庭は、今日も光にあふれていた。バラの蕾はまだ少し固いが、宇髄天元担当のシャクヤクの開花が秒読み段階に入っている。
 ひと仕事終えた天元が、寄せ植えのポーチのそばを飛んで物置に戻ろうとしている伊黒小芭内に並んできた。
「よう、今日はばら組静かだと思ったら一人かよ」
「まぁな」
「あいつら揃って病欠か仮病欠か? 相変わらず仲いいな」しょっちゅうけんかをしている不死川実弥と冨岡義勇の事を、天元は「仲が良い」と断じている。
「仲いいものか」苦笑するが、小芭内も彼らは本当は仲が良いのだと思っている。でなければ自分がリーダーではばらトリオがまとまるはずがない。彼はそう思う。「しかしけんかはなぁ」小さなため息。
「けんかつったってアレだろ? 不死川が一方的にギャンギャン言ってるだけだろ?」
「手が出なければな」
 小芭内の言葉に天元は「あー、そだな」と呟いた。
 先に手を出すのはいつも実弥だが、口げんかでは押し黙る義勇も殴られるままではいられない。身を守ろうと出した手を「殴った」と判断されて更に殴られ、やめさせようと掴みかかると取っ組み合いに発展してしまう。周りに引き離されると義勇は困惑しきった顔をしているが、実弥にしてみればその顔にまた腹が立つらしい。
「冨岡の口下手は前世から分かってる事だし、不死川ももうちと忖度してやればいいと思うが……」ため息の小芭内である。
「それな。鬼殺やってる頃よっか全然喋るようになったし、派手に笑うようにもなったのにな」
「『派手に』笑うかどうかは知らんが、今世で会って俺は驚いたよ。顔のバリエーションとやらが抜群に増えた。まぁ、相変わらず言動が唐突だから苛々することはあるがな」小芭内の言葉に天元は頷いた。
「んでもアレじゃね? 不死川はさ、あーやって冨岡にじゃれついて腐女子の餌食になりてんじゃね?」
「何のために!!」
 小芭内が天元の厚い胸をどしっと拳で叩いたところで、二人は彼らの住むイナバ物置に着いた。この家の「母屋」の人間と妖精たちはコミュニケーションが上手く取れていて、ここの家人は妖精たちのために様々な便宜を図ってくれている。物置の妖精用の出入口もその一つで、これがあるとないとでは、仕事も生活も快適さに格段の差が生まれる。
 小芭内が自分たちの部屋に戻ると、出かける時には布団にもぐっていた実弥が起きてちゃぶ台の前に座っていた。寝間着にしているよれよれの上下セットのスエットを着たままだ。不機嫌そうな顔で産屋敷組の広報誌「があでぃあんず」の表紙を眺めている。「御館様」産屋敷耀哉とガーディアンズの一人、我妻善逸をキャンプ場の東屋で撮った写真が今月の表紙だ。実弥は顔を上げて小芭内を見、
「悪かった。仕事、サボるべきじゃなかった」と低い声で言った。小芭内は黙っている。仕事をサボった事に関しては許せない気持ちがある。
「冨岡はァ?」実弥が訊いた。出かける時には小芭内と一緒にいたはずだ。
「途中で本部へ出かけた」小芭内は自分のロフトベッドへ上がって座り、ポケットからスマートフォンを取り出した。仲良しの甘露寺蜜璃からメッセージが届いている。
 実弥は昨日、本部の「御館様」の所へ行っていたが、お叱りを受けたらしく、それ以降機嫌が悪い。小芭内が「鎹縁壱」から聞いた話では、実弥は弟の玄弥がいる庭へ行き、そこの「母屋」へ怒鳴り込んだという。縁壱も玄弥のカナブンとすれ違う時に少しホバリングして聞いただけなので詳しいいきさつは分からないと言う。
 蜜璃への返事を送信してから、小芭内はロフトベッドの手すりから顔を覗かせた。
「なぜ怒鳴り込んだ」
「ああ?」実弥は無意識に広報誌の我妻善逸の顔を指で弾き続けながら「おめーに関係ねェよ」と吐き捨てた。
「関係ないだと? 大ありだろ、ギスギスしていては仕事も捗らん。季節を考えろ。今日もチョッキリが来ていたぞ」小芭内の言う「チョッキリ」とはバラゾウムシの事である。
「分かってる、分かってらァ」言ってから、実弥は少し黙った。今度は善逸の顔の上に指をバラバラと打ち付けている。我妻善逸は、植物の「音」を聞く事のできる妖精だ。医者が聴診器で胸の音を聞くように植物の「音」を聞き、何かあれば胡蝶姉妹へ報告している。
「俺が悪ィんだ、分かってるんだ」呟くように実弥は言った。小芭内は黙って実弥を見ている。スマートフォンの着信音がメッセージの着信を告げたが、そのままにした。
「玄弥んとこの母屋のジジイがよォ、松を切りやがったんだァ」
「ゲートみたいになってた松か?」
「ああ、玄弥が大好きだった松だァ」
「相当デカい松だったな。しかしあれは元気だったろう?」
「だからショック受けてよォ。しかもだ、あのジジイ、玄弥が担当してた盆栽八つ全部捨てやがったんだ」
 小芭内は驚き、少し考えた。
「あの盆栽も全て元気だったろ?」
「ったりめェだろ、玄弥が守ってたんだぞ! あいつがめちゃくちゃ精魂込めて守ってたんだ、だから松もさつきもボケも梅も……とにかく苔も全部ピッカピカのバッシバシだったんだ!」実弥は拳でちゃぶ台を叩いた。「あいつ死ぬんじゃないかってくれェ落ち込みやがってよォ」
 不死川は弟の事となると心配しすぎる傾向にあるなと思いながら小芭内は「まさか母屋のジジイに何か言ったんじゃ――」
「言った! 言ってやったよ! バカみてェにデカい音量でテレビ見てやがってよォ、お笑いとか、笑わせんな!」
 小芭内は頭を抱えた。それは「御館様」に叱られても仕方のない行為だ。とにかくトリオをまとめねばならない立場の小芭内は、実弥にどういう行動をとったのか聞き出した。
 実弥は落ち込んでいる玄弥をそこの家の物置に残したまま母屋へ飛んで行き、ジジイの部屋の窓に何度も蹴りを入れたが大音量のテレビのために始めは気付いてもらえなかったらしい。怒りに任せて窓の外を飛び回っていると、ようやくジジイは実弥に気付いた。しかし初めて妖精を見た彼は自分が幻覚を見るほど耄碌したと思い込み、叫び出した。パニックになって叫ぶ老人に今度は実弥が驚いて物置に逃げ帰ってしまったのだが、それを見ていた花壇担当の妖精がカナブンを飛ばして産屋敷耀哉に報告したようだ。「言ってやった」と実弥は言ったが、実際のところは「言う」部分は未遂に終わったようだ。
「とにかく許せねェ! 百歩譲って松は許しても盆栽は許さねェ! なのになんで!」実弥は脛にちゃぶ台をぶつけながら立ち上がる。「なんで御館様は俺をォ……いや、俺は悪い! でも盆栽は!! 盆栽は何も悪くねェ!」
 小芭内は黙っていた。難しい問題だが、ガーディアンとしては乗り越えねばならない事だ。実弥は再び座った。
 そこへ冨岡義勇が帰ってきた。経木の包みを手にしている。
「元気出たのか不死川」義勇は言った。小芭内は「悪い予感しかしない」と思った。
「元気出るだとォ? 俺がいつ元気なくしたァ」実弥は義勇を睨む。
「大丈夫だ。本部のおはぎだ」義勇は経木の包みをちゃぶ台の上に置いた。
「待て、不死川、冨岡の言葉の裏に凄まじい数の言われざる言葉たちが――」小芭内がロフトベッドから飛び下りると同時に、実弥は経木の包みを義勇に投げつけていた。物凄い勢いで義勇の胸に激突した包みは裂け、中のおはぎが一つ、ぼとりと床に落ちた。その上に形の崩れた包みが落ちる。
「毎度毎度イラつかせやがって……俺は元気なくなんかねェ!!」叫ぶ実弥を、義勇は目を丸くして見ている。「俺はァ! 元気なくなんか、ねェ!!」繰り返す実弥。「勝手に決めつけんな! 何だァ、おはぎ食わせりゃじどーてきに元気ンなんのかよ俺はァ!」困惑している義勇を睨んだまま実弥は怒鳴り続ける。「俺はアホか! お前俺をアホだと思ってんだろォ! 俺はおはぎ星人かァ!」
 小芭内は目をむいた。「おはぎ星人は酷い……」と思いつつ、「まぁまぁ落ち着け、冨岡も不死川を元気づけようと――」
「元気なくねェ!!」小芭内の言葉をみなまで言わせず再び実弥は吠えた。義勇は黙ったまましゃがんでおはぎと包みを拾い、それを持って部屋を出て行った。
 突然訪れた沈黙の中、イナバ物置の妖精用出入口のフラップが立てる音が、カタンと小さく響いた。実弥は、小芭内のロフトベッドの下に足を突っ込む形で敷かれた自分用のマットレスに寝転がり、布団をかぶった。小芭内はベッドの上のスマートフォンを取り、帰った時に外したツールベルトをまた着けてポケットにスマートフォンを突っ込む。仕事でも私用でも、外出の時には身を守るための道具を入れたツールベルトを着ける事が義務付けられている。実弥が布団から目より上だけ出して小芭内を見ている。
「そんなに冨岡のおはぎが気に食わないなら、チュッパチャプスも好物だと教えてやれ」小芭内は言った。実弥は鼻を鳴らして布団を頭の上まで引き上げる。小芭内は、キャンプ場へ行ってくると言い残してイナバ物置を出て行った。

 

「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
 嬉しそうな声で半ば叫びながら、竈門禰豆子が庭から居間へ駆け込んで来た。ソファで眠り込んでいた彼女の兄炭治郎は何事かと身を起こして妹を見る。禰豆子は今日二度目の洗濯物を庭で干し始めたところだったはずだ。竈門兄妹も、植物ガーディアンズの前世と同じ鬼殺隊で鬼と戦った仲間の生まれ変わりである。人間として生まれ変わり、前世と同じ家族と一緒に暮らせている。これは幸運なケースである。
「見て、見て!」
 炭治郎の前に膝をつき、禰豆子は右手をお椀のような形にして差し出した。洗濯物を握ったままの左手もそっと添えている。
「義勇さん!」炭治郎は驚いて目を丸くした。禰豆子の手の上には義勇が載っていた。
「干してたらすーって目の前飛んでいくんだもん、捕まえちゃった」
「捕まっていない」義勇が反論する。妖精の声は小さいはずだが、心に響いてくるように炭治郎たちには聞こえる。
「うそ、捕まえたよ、ぱって」言って、禰豆子はうふふと笑った。小さな義勇がかわいくてたまらない様子だ。女の子なら無理もないと炭治郎は思うが、禰豆子ほどでないにしても、自分にとっても義勇たち妖精はとてもかわいい生き物に見える。
 竈門家の幼い兄弟たちが廊下を走る音が聞こえた。父と一緒に買い物に出かけていたのが帰って来たらしい。禰豆子が左手に持っていた洗濯物をぱっと義勇に被せた。小さな子供に見つかってはもみくちゃにされてしまうに違いない。
「それ、俺のパンツ……」
「洗ってあるから大丈夫」と言う禰豆子だが、炭治郎は、俺より義勇さんが大丈夫なのかどうかが問題なんだけど、と思った。しかしそのまま禰豆子と連れ立って二階へ移動する。
「遊びに来てくれたんですか? 義勇さん」
 炭治郎の部屋のベッドでマットレスの上に座った義勇に、炭治郎が尋ねる。義勇は暫く黙っていた。この間には、炭治郎は慣れている。黙って自分の膝の先辺りを見つめる義勇を見ていると、炭治郎はどうしても「萌え」てしまい、頭をなでようと人差し指をそっと出した。が、どちらもタイミングよく生まれ変わり、年齢的に前世と同じシチュエーションにある二人であるので、「なでなで」はどう考えても失礼だと、炭治郎は途中で指を止めた。いつもこうなってしまう。目を上げ、何か言おうと口を開いた義勇は炭治郎の中途半端に止まった指を見た。そしてそのまま動作を止めた。
「義勇さん、俺のこの指、『ステイ』だと思ってます?」炭治郎はにっこりして言い、指を二度ほど曲げ伸ばしした。
「違うのか?」義勇の言葉に炭治郎は床に倒れ込み、ゴロゴロ転がった。義勇は少しむっとした顔になる。そこへノックの返事も待たずにドアを開け、禰豆子が入って来た。プラスチックの工具箱を抱えている。
「何、何? 面白い事? 何やってたの?」
「俺が勝手に笑ってただけだよ」炭治郎は起き上がった。
「義勇さんの服、べたべたでしょ」禰豆子が言った。義勇の服には家を出る前に実弥に投げつけられたおはぎのあんこが付いたままだ。義勇が見ている間に禰豆子は工具箱を開け、その中の透明なプラスチックケースを取り出し、開けた。中に小さな服が詰まっている。
「すごい! 禰豆子作ったのか? 義勇さんの服だろ?」炭治郎が驚きの声を上げる。
「ううん、これはなかなか作れないよ。でもこの――」禰豆子は工具箱をぽんぽんと叩いて「『義勇さんお泊りセット』に絶対欲しかったから、服取り寄せてもらったの、縁壱さんに」
 義勇は目をむいた。「それは大丈夫なのか」
「大丈夫よ義勇さん。縁壱さんが大丈夫って言ったもの。三セットでいいって言ったけど五セットくれたのよ」
 禰豆子は嬉しそうだし、炭治郎もにこにこしているし、縁壱も「大丈夫」だろうが、本部に知れたら御館様に叱られるんじゃないだろうかと、義勇は思った。
「心配ないですよ義勇さん。竈門家に来る妖精さんは本部にチクったりするような人いないですからね!」炭治郎は明るく言い、続いて「義勇さん、遊びに来た訳じゃないんですよね?」と訊いた。
 禰豆子に引っ張られ、促され、義勇は服を脱ぎながら「相談が」と言った。そして服を着替えてから実弥の話をする。元気がない事、怒っている事、それをなんとかしたいと思っている事。
「伊黒は仕事がやりづらいと言うが、彼も俺と同じで、本当に不死川に元気になってほしいと思っているはずなんだ」
「でも、おはぎはもうだめなのかぁ」炭治郎は腕組みをした。禰豆子が人差し指で義勇の頭をなで、それから頬をなでている。「やめなさい」と、炭治郎は禰豆子の手を押さえた。自分は躊躇してしまうのに女の子は恐ろしい。「義勇さんお泊りセット」の中身も見えているが、服以外はすべて禰豆子お手製の布団や座布団が入っており、他にも百円均一の店で買ってきた容器を利用した湯舟や洗面器まで揃っている。本気で長居させる気だと、炭治郎はまた禰豆子の「女の子らしさ」に慄いた。
「さねみん……いや、不死川さんが落ち込んだ理由って、玄弥の落ち込みですよね」炭治郎の問いに、義勇は頷く。「で、玄弥の落ち込みの理由は、松と盆栽が殺された事ですよね」
「我妻は、松はまだかろうじて生きていると言っているが、母屋の人間は農繁期が終わったら根から掘り起こすつもりらしい」
「つらいなぁ」炭治郎は八の字眉になって言った。禰豆子は「お泊りセット」から座布団を出して義勇の隣に置き、彼の背中の辺りをひょいとつまんで持ち上げ、座布団に座らせた。
「禰豆子! お人形じゃないんだぞ!」炭治郎がたしなめる。
「かまわない」うろたえつつも、義勇は言った。
「何年か前に京都で買った盆栽あったじゃん」炭治郎の叱責をさらりと流して禰豆子が言う。
「あっ、それだ、それいい」炭治郎は手を打ち鳴らした。「義勇さん、三年くらい放置してるんですけど、さつきの盆栽があるんですよ。めちゃ小さいんですけど、それ、玄弥に持って行きましょうよ」義勇の顔が、光が差したように明るくなった。「放置してるんで、なんかこう、カットとかしなきゃかもですけど」
「その方が玄弥にはいいかもしれない」義勇は立ち上がった。
「すぐにも持って行きます?」炭治郎の言葉に、義勇は二度頷いた。
「えっと、玄弥の所は……」炭治郎は前に縁壱にもらった手書きの妖精用住宅地図を机の引き出しから出した。これを外に持って出る事は、縁壱から止められている。小さいので炭治郎は虫眼鏡を使う。「あった、玄弥は羽栗の北川さん宅。行きましょう、義勇さん。自転車出します」
 自分も行きたいとねだる禰豆子をなんとかなだめ、炭治郎は義勇と一緒に、みすぼらしくなってしまったさつきの小さな盆栽を持って家を出た。

 

 鬼妖精鬼舞辻組の本部は、自宅から北川家へ向かうために炭治郎たちが渡るであろう天神橋の裏にあった。時々鳩に襲われてしまうが、「立地条件」はいいと、組長の鬼舞辻無惨は思っている。
 無惨は産屋敷耀哉ほど上手く仲間を集められず、鬼妖精集団は、集団というほど大きな組織には育っていない。「少しずつ、少しずつ、地道に精鋭の組員を集めていくのだ」と無惨は思っている。
 今彼はコーヒーを飲みながら天神川の川面を眺め、目を細め微笑んでいる。鬼妖精は鬼ではなく妖精なので、なんでも食べたり飲んだりできる。
「そうか……こんな近くに黒死牟がいたのか。しかも人間とは」無惨は呟いた。かつて部下の中で一番上位にいた鬼、黒死牟を発見したという部下からの報告を、今朝彼は聞いた。黒死牟を手に入れられれば、鬼舞辻組は、産屋敷組を超える組に成長するはずだ。人間を部下にできれば、妖精などひとひねり、産屋敷の手下どもなど瞬殺だ。
「よし、こうなったら早速偵察だ」鋭く口笛を吹く。鬼妖精の毒で「鬼舞辻ヤンマ」と化したオニヤンマが飛んできた。無惨の指示を受け取ると、鬼舞辻ヤンマは北川家に向かって飛び立った。

ねじねじ交差点

「わぁっ! これ……すげぇ!」
 玄弥が歓声を上げ、義勇と炭治郎は顔を見合わせた。義勇が微笑むと、炭治郎はにっこり笑い「よかったですね」と言った。
「さつきはちょっと元気ないけど、これはすごい、清水焼だ、かっけぇ!」玄弥は盆栽の周りを歩きながら鉢を眺めた。炭治郎は意識したことがなかったが、汚れの下の鉢は白くつややかで、鳳凰の絵が描かれていた。折り返したような縁にも細かい柄がぐるりと描かれ、三つ付いた脚も美しく彩られている。もしかすると高価な鉢なのかもしれない。鉢を眺めた後、玄弥は盆栽の根元に立ち、歩き回りながら植物の具合を調べた。途中、密かに生えていたキノコを抜く。
「すまねぇな、キノコのあんちゃん」言いながら、玄弥は少し飛んで、しゃがんだ炭治郎の肩に乗っている義勇と顔を合わせた。
「ありがとうございます!」ぴょこりんと礼をする。
「いいんだ、元気がないと困るから、それだけだ」
「俺、こいつを元気にしてみせますよ」義勇と玄弥の「元気」の対象はずれているようだが二人ともそれには頓着せず、玄弥は続けた。「鉢に負けないカッコいいさつきに生まれ変わらせる! そしたら兄貴に写メ送ります。ジジイの盆栽なんかなくてもいいって。こいつを見にきてもらうんだ」
「……」それはかなり先になるなと義勇は戸惑った。それまで不死川はあのままなのか?
「義勇さん、大丈夫です。玄弥もうこんな元気んなってますから。元気な玄弥の写メ送りましょうよ」炭治郎は義勇にささやいた。ぱっと顔を輝かせた義勇は直ぐにスマートフォンで玄弥の写真を撮った。早速実弥にメールを送る。小さいので画面は見えないが、炭治郎が見ていた限りでは文章を添えた感じはしない。写真だけ? 文章無し? と驚いたが、義勇が「ムフフ顔」で送信ボタンをタップしたので、炭治郎は何も言わずにいた。そして盆栽再生計画に夢中になっている玄弥を載せたままの盆栽を持ち上げる。庭にある盆栽用の空っぽの台を横目に家の裏に回り、庭の端にある石の上に鉢を置いた。
「母屋の人たちに見つかったら、もしかしてまた捨てられるかもしれないからね」炭治郎は言った。「でも俺、機会うかがっておくから。今はまだ多分無理だと思うけど、少し経ったら盆栽、表に置いてもらえるかもしれないし。ここの誰かと話せるような機会作るよ」
「ありがとう炭治郎」玄弥は目を潤ませた。
「俺そろそろ帰らなきゃ」炭治郎は、北川家の庭へ不法侵入している事には頓着していないが、パン屋である家の手伝いは気になるらしい。三人は庭の門まで移動する。
「義勇さん、送りますよ」
 炭治郎の申し出に「俺はもう少し庭を見る」と、義勇は言った。ここの庭は広く立派だが、義勇はあまり来る機会が無いので散策したくなったらしい。
 カナブンよりの知らせで近くの庭へ行かなければならなくなった玄弥と帰宅する炭治郎を門の所で見送った後、義勇は庭へ戻った。ふさふさと生えているスギゴケの上をすれすれに飛び、少し上昇して、考えて植えられたマキやツバキの間を飛ぶ。美しい庭だ。人間は人間で本当にすごいなと思う。思うが、気分で木を切ってしまったり庭を捨ててしまったりする者がいるのは残念だとも思った。
 北川家は兼業農家で、住居と農作業小屋、トラクターや軽トラックを収納する納屋がある。庭は広く、塀の代わりになるように木が植えられている。門は広く門扉がなく、車で入って来られるようになっていた。
 庭の木々の間を三往復ほどしてから、義勇はトラクターの鎮座する納屋に差し掛かった。納屋には戸が無く、柱と左右の板壁、そして屋根があるだけだ。手作りの納屋だと思われる。古い蛍光灯がぶら下がっている。今の家ではもう見られないような笠だ。義勇はその笠の上に降り、座った。ツールベルトから水筒を取り出し、麦茶を少し飲む。スマートフォンで先ほどの玄弥の写真をもう一度見る。
 不死川はもう見ただろうか。
 スマートフォンを手にしたまま下を見ると、大きなトラクターの横にそれよりは小さいが十分に大きな田植え機がある。まだゴールデンウィークが始まったばかりで、北川家では田植えを始めていないようだ。
 やはり、人間はすごいなと思っていると、突然低く唸るような羽音が聞こえ、義勇はぱっと飛んで、蛍光灯の笠の内側に隠れようとした。
「あっ!」目視するよりも早く腕に痛みが走り、義勇は少し落下してトラクターの屋根に着地した。スマートフォンが地面に落ちる。
 オニヤンマだと思ったが、普通のオニヤンマなら羽音はしない。そのヤンマの黄色い部分や眼が赤味がかっている事からすぐに、それが鬼舞辻ヤンマであると義勇は見抜いた。普通のオニヤンマが飛ぶ季節でもない。
 右腕がしびれている。なぜここに鬼舞辻ヤンマがいるのかという疑問はさておき、とにかくこの場をしのがねばならない。腕を抑えると、破れたシャツの袖が濡れているのが分かった。鬼舞辻ヤンマは一旦納屋の外へ飛んでいったが、弧を描いて方向転換し、また義勇の方へ向かってきた。義勇は横に飛び、鬼舞辻ヤンマの顎をかわした。ヤンマの顎はそれ自体恐ろしい凶器だ。しかし右腕を負傷している上、今は対抗できる武器を持っていない。攻撃に使えるものはないかと目を動かして探してみる。しかし自分が持てるようなものは見つからなかった。妖精は羽を使って飛んでいないが、体力が落ちると飛ぶ力も失ってしまう。義勇が何とかせねばと知恵を絞っている内、鬼舞辻ヤンマの姿は急に見えなくなった。別のターゲットを見付けたか、燕が来たかと思っていると、逆側の入口からものすごいスピードでヤンマは飛んできた。かわそうとしたが、胸のあたりに衝撃を受け、義勇は飛ばされてしまう。かなりの衝撃であったが、今はアドレナリンのせいか、痛みを感じない。
 今なんとかせねば、負傷によって体力が失われ捕まってしまう。捕まれば絶対食われると、義勇は意を決した。鬼舞辻ヤンマが納屋の外でまた大きく弧を描いている。義勇はツールベルトから産屋敷印の解毒剤をセットしてあるペン型注入器を出し、針をセットしながら高く上昇した。鬼舞辻ヤンマより高く飛んだところで、方向転換したばかりのヤンマへ向かってまっしぐらに突っ込んでいった。驚いたか、鬼舞辻ヤンマはまた方向を変えようとする。そこへ義勇が突っ込み、ヤンマの腹につかまった。「心臓」を狙い、注入器を刺す。一番速く効く箇所だと胡蝶しのぶから聞いていた。そこで義勇は力尽き、落下し始めた。腹に注入器が刺さったまま、鬼舞辻ヤンマは二度旋回し、それからオニヤンマに戻った。そのまま飛び去るオニヤンマを見ながら、義勇はどんどん落ちていった。ふらつきながら飛ぶオニヤンマ、燕に取られてしまうかもしれないと義勇は思った。そのまま地面へ落ちていれば死んでいたかもしれないが、運よく田植え機のシートに落下した義勇は、一度跳ねて着地した。横たわった彼の右腕と胸の傷から染み出す血が、シートに落ちる。
 意識が薄れていく中で、義勇は実弥におはぎをぶつけられた事を思い出していた。微かな寂しさを感じながら、義勇は気を失った。

 

 いつの間にか眠り込んでいた実弥は、肌寒さに目を覚ました。布団をずり上げようとして、昼間に寝てしまった事を思い出し、起き上がって布団から出た。数時間寝ていたらしい。昨夜眠れなかったからなぁと思いながら、実弥はちゃぶ台からスマートフォンを取り、ロックを解除する。
「冨岡?」義勇からのメールが届いているという通知を見て、実弥はそれを開いた。「玄弥……なんだこれ、どォゆー事だァ?」頭をぼりぼりかく。
「そォか……ニコニコ顔になったか玄弥」実弥は半分ほど状況を理解し、微笑んだ。「冨岡のやつ、余計な世話焼きやがって……冨岡のくせに」実弥はにやりとした。玄弥の元気が戻ったなら問題ない。
「しっかし、なんか文句入れろよな。いつもこんなじゃねェかよ、おめーのメールはよ」ぶつぶつ言いながら時刻を確かめると、もう夜の七時になるところだ。部屋には誰もいない。
 実弥は外に出てみた。もう暗い。庭まで飛んでみるが、他の妖精たちはもう物置にいるらしく、誰にも会わない。実弥もまた部屋に戻った。
「伊黒は多分デートだろうからそんな早く帰っちゃ来ねェだろーが冨岡は……何やってんだあいつ。まだ玄弥んとこいンのかよォ」なんとなく心配になってくる。
 もしかして家出? 俺がおはぎ投げつけたから? 拗ねて家出? 大人が?
 実弥はまたスマートフォンのメールを開いて玄弥の写真を見た。そして閉じる。スマートフォンをちゃぶ台に置いて立ち上がり、部屋をうろうろし始めた。
 家出したんならもしかすると伊黒は探しにいってんじゃねェか? 縁壱さんも。
 いや、家出って、もしそうでも二十一歳が家出したところで探しに行くかァ?
 いや待て、こんな時間だ。暗いし……外ふらふらしてたらヨタカに食われるぞ。
「あああああ」実弥は頭をかきむしった。とりあえず小芭内に電話してみようと、ちゃぶ台からスマートフォンを取り、そして手を止めた。
 俺、心配しすぎじゃねェの? バカ見るんじゃねェの?
 座って、スマートフォンをちゃぶ台の上に乱暴に置いた。腕を組む。目を閉じると、子供の頃の義勇の顔が浮かんできた。
 実弥が義勇と出会ったのは十歳の頃か。姉の冨岡蔦子と一緒に産屋敷耀哉の所を訪ねてきたらしい。あの頃は耀哉もまだ子供といえる歳だっただろう。妖精は、産屋敷組や鬼舞辻組のような目的を持った組織に入る事が出来れば別だが、家族のような小さなコミュニティではまともに暮らしていく事がなかなか難しい。蔦子は義勇と上手く出会う事ができ、住んでいた場所も場所だったので運がよかった。
 義勇は、生まれた時から産屋敷組にいる実弥と小芭内と一緒に遊びながら仕事を覚えた。いつも三人一緒だった。蔦子は本部の衣食住センターでガーディアンズの食生活を支える仕事についており、実弥と義勇はよくおやつをねだりに行った。小食でおやつなど滅多に食べない小芭内も必ずついてきて、ジュースをもらったりしていた。義勇と小芭内は、玄弥の事も自分の弟のようにかわいがってくれた。
 前世の記憶を取り戻したのも、三人一緒、十三歳だった。「再会」を喜ぶ雰囲気になり、「変な感じ」と笑いながら泣いた。
 十五歳になって、今いる庭に三人一緒に派遣され、最初は寄せ植えの担当をしていた。
「ずっと一緒だったな」実弥は呟いた。思い返せば、今朝の事も特別な事件という訳でもない。「でもなァ、いくらぼーっとしてるつっても、冨岡だって十年ガミガミ言われれば『平常運転です』たって、キレる事もあるわな」呟いてから、実弥は首を傾げた。
「冨岡がキレたの見たことねェな」急に泣きそうになってきた。
「馬鹿々々しい! その内帰ってくらァ!」
 叫んだところで、小芭内が帰って来た。縁壱も一緒だ。
「あれ? お前一人なのか? 冨岡は? また追い出したのか?」と小芭内。
「追い出すって何だよ! てか、冨岡は?」実弥は目を丸くする。そして、細める。不安が襲ってきて黙り込む。
 縁壱は手に持っていた包みをちゃぶ台の上に置いた。小学校の物置にある弁当屋で受け取って来た夕食だ。四人分あった。
「私と伊黒君はずっと外にいた」縁壱が言った。彼は、「殿」付けは堅苦しすぎると宇髄天元に言われ、それから「君」付けで名前を呼ぶようになっている。
「まだ帰ってないのか?」小芭内の声にも心配がにじんでいる。
 実弥は、昼間は玄弥の所へ行っていたと思うと、スマートフォンで義勇が送って来た写真を見せた。小芭内と縁壱が実弥のスマートフォンをのぞき込む。
 そこへ宇髄天元がやってきた。
「おっ、何、頭突き合わせて。『ばらの呼吸拾ノ型文殊の知恵』か?」
 のんきなものである。実弥はぎろりと天元を睨んだ。天元は三人の妻が出かけている事を忘れて夕食を取ってきてしまい、おすそ分けしに来たのだが、ちゃぶ台の上に弁当が積みあがってしまった。彼は義勇が帰ってきていない事を聞いて驚いた。さすがの彼も
「そりゃ地味に心配だな」と呟く。そしてすぐに自分のスマートフォンで義勇のところへ電話をかけた。しばらく待つと応答メッセージが流れた。
「ダメだ。出ねぇ」
 実弥の顔が青ざめていく。小芭内は実弥の肩を叩き、「大丈夫だ、直ぐ見つかる。探しに行こう」と言った。
 実弥のスマートフォンを手に取って写真を見ていた縁壱は「一緒に写っている盆栽の鉢を見たことがある」と顔を上げる。「竈門家の裏にあった。高価な鉢が放置されていたから、気になって覚えている」
 四人は顔を見合わせた。炭治郎に問い合わせてみようと、天元が再びポケットからスマートフォンを出した。

 

「まったく、何だろ、あいつ将来絶対ヘンタイになるな」
 つぶやきながら、巌勝が家に帰って来た。裏の門から入ってくると、稲の苗が収められた小ぶりのビニールハウスの前に出る。
 巌勝は、友人ではないが、同じクラスの魘夢民尾に呼び出され、会いに行っていた。なんでも、田んぼに落ちたからその写真を撮ってほしいと言うのだ。くだらない頼みだが、近くだったし退屈でもあったので、勉強を放り出して行ってみた。前世の事もあり、放っておけない気持ちにもなる。
 魘夢民尾は、前世で鬼だった。巌勝の黒死牟よりもかなり下の位の鬼だったが、巌勝は魘夢の事を覚えている。しかし魘夢はどうか。前世で彼が黒死牟ではなく継国巌勝の顔を見たはずはないので今会っても巌勝が黒死牟であったとは分からないはずだ。前世の記憶の有無がはっきりせず、ついつい魘夢に話しかけられると相手をしてしまう。恐らく彼は巌勝の事を勝手に「友達認定」しているだろう。
 魘夢民尾は、バス停のちょうど向かいの田んぼにいると教えてきた。行ってみると、彼は自転車ごと田んぼに落ちていた。代かきを終えたばかりの田んぼだから、見事に泥にまみれていた。自分で撮ると近すぎて「イマイチな写真」になるからと、民尾は巌勝にカメラマンを頼んできたのだ。SNSに載せたいらしい。巌勝には「意味が分からない」趣味であったが、民尾は自分の写真を投稿するのが大好きらしい。
「こんなおいしい写真、載せない手はないでしょう?マジックアワーだしぃ」うっとりしながら民尾は言う。泥まみれでうっとりする民尾の写真を撮り、そのまま巌勝は帰った。後ろで「あれ? ここから出してはくれないんだね?」と言う民尾の言葉は捨て置いた。それでも後から民尾のSNSを見てみようと思いながら家と納屋の間を通るべく、納屋の前を通った。相変わらず祖父のテレビの音が、家の中から漏れてくる。部屋はだいぶ向こうなのになと巌勝は思った。今日は巌勝の両親は仲の良い友人の家へ行っている。夕食に招待されたのだ。こうなると、食事の後はただのどんちゃん騒ぎへとなだれ込み、帰るのは遅いだろう。
 納屋の後ろ、家の正面から見れば前になるが、庭の端に小さな池があり、水音がしている。祖父が買った鯉が泳いでいるが、猫に取られないように張られたネットのせいであまり風情は感じられない。納屋の前を通り過ぎようとした時、巌勝はテレビの音と水音の狭間に妙な音を聞いた。足を止める。砂地を踏む自分の足音が消えたところで、その音は空耳ではなく確かに聞こえる音となった。
 パタンパタンというような、ペチペチというような、微かな音だ。
 風で何かが何かに当たっている音か、虫かネズミか……首を傾げながら聞いていると、どうもリズムがあるようで、巌勝は納屋へ戻った。音が近づく。トラクターや田植え機を調べると、田植え機のシートの上に妖精を見付けた。一目見て妖精だと分かった。仰向けに寝ている。そして手でシートを叩いている。顔を近付けてみると、男であることが分かった。子供ではないが、若い妖精だ。
 巌勝は顔を近付けたまま「あんた、妖精?」と訊いた。妖精は叩くのをやめ、ぼんやりした目で巌勝を見た。

 

 ばらトリオのいる家は角地に建っており、ガレージの入口は四つ辻に面している。
 小芭内、実弥、縁壱、そして天元はガレージの門扉の上に立って炭治郎を待っていた。炭治郎から、昼間義勇と会い、北川家へ盆栽を持って行った事を、妖精たちは既に聞いている。
 急な坂道を自転車に乗った炭治郎が上がってきた。泣きそうな顔をしている。
 妖精たちは直ぐに自転車のかごに飛び乗った。実弥は炭治郎の顔を見られなかった。
「置いて帰らなきゃよかった」炭治郎は切れ切れに言った。猛スピードで自転車をこいでいる。
「仕方ねぇよ、そんなん分かるかよそん時に」天元が言う。
「でも、あんなにうれしそうにして――」
「めそめそ言うなァ、泣いても何も変わらねェだろォが」前を向いたまま実弥が言う。「余計な世話なんか焼くからだ」
「泣きながら言うなよ」と天元が実弥の顔を覗き込んだ。
「泣いてねェわ」
 自転車は、車道から田んぼの中にある北川家まで続く未舗装の道に入った。

「鬼ではなく、人間に生まれたのか」
 妖精の言葉に、巌勝ははっとした。前世の俺を知っているのか。
「俺は、鬼殺隊にいた」義勇の声は弱々しいが、巌勝の耳には十分届いている。義勇は巌勝が昔の縁壱とそっくりな顔をしている事やオーラから、縁壱の双子の兄ではないかと思ったのだ。縁壱に兄がいる事を知ってから、ばらトリオは時々彼に兄について質問したりしていた。「耳飾りを付けた隊士を知っているだろう。俺はあれの兄弟子だった」
 巌勝は少し考えてから「あんた、継国縁壱を知っているか。そいつは同じ耳飾りを付けていると思うんだが」と訊いた。
 義勇は頷く。やはりそうか。
「俺の仕事仲間だ」
 巌勝は息をのんだ。
「妖精なのか? 縁壱も妖精なのか? あんたと同じ大きさなのか?」
「同じだ」巌勝の胸がざわついた。
 縁壱は妖精に生まれ変わったのだ。目の前の妖精と同じ大きさとは。
 やはり、人生はちょろい。
「仕事って――」言いかけて、巌勝ははっと目を見張った。妖精が気を失っている。薄暗いので、蛍光灯の紐を引いたが、古いものを放ってあるので点かない。代わりにスマートフォンの懐中電灯機能を使った。照らすと、妖精は怪我をしているらしく、血が出ている。体の下にも溜まっていた。
「これはまずいな」巌勝は呟いた。動揺して手が震えたが、服の肩の辺りをつまんで彼を少しずつ引きずって、田植え機のシートの端まで移動させる。妖精は痛みに呻いた。巌勝は驚いて引きずるのを少し止めたが、このままでは死んでしまうだけだと思い、シートの端から更に引きずり、自分の掌に妖精を載せた。
 軽い。巌勝は驚いた。縁壱もこんなに小さく軽いのか。
 思いながら巌勝は、自分の部屋へ向かった。

 北川家の外では、先に天元が飛ばした鎹カナブンと、連絡を受けた玄弥が門の所で待っていた。
 炭治郎は、門の外に自転車を止める。妖精たちがかごから飛び立つと、スタンドを使わずに庭を囲う大きな石に立てかけた。妖精たちと一緒に北川家の庭へ入る。
「俺、枝の中村さんちに手伝い行ってたんすよ」玄弥は夕方に帰ってきて、その時は義勇も帰った後だと思っていたと言う。北川家には、亡くなった祖母以外に妖精とコミュニケーションをとっている人間はいない。立派な庭があるのに残念な事だねと、産屋敷耀哉は言っていた。
「ここにいるかァ?」実弥が言うと、「待って」と炭治郎が手を少し上げた。鼻をひくつかせている。今世でも匂いに敏感な性質は健在のようだ。
「血の匂いがする」炭治郎の言葉に一同は凍り付いた。「血の匂い、古いのと……新しいの」炭治郎は庭を少しずつ移動する。「それから義勇さんの匂いだ」
 天元が実弥を見ると、彼は白目をむいていた。
「おい、なんだそれ血ぃ見て失神する奥様か!」

らせんしんどろーむ

「新しい血、もしかしたら義勇さんまだ血を流しているのかもしれない」炭治郎は移動を続けている。
「冨岡が死んだなんて信じない、信じない」小芭内が言う。
「誰が死んだって言ったよォ。オラ竈門早く探せェ」立ち直った実弥が炭治郎を急かす。
 炭治郎はトラクターのある納屋へやってきた。
 田植え機の上の血だまりを見付ける。皆、ざわめいた。
「ここにスマートフォンが落ちている」縁壱が地面のスマートフォンを目ざとく見つけた。
「一体何があったんだ……何かに襲われたって事は間違いないな」天元が言う。
「とにかく匂いをたどります、まだ続いてます」
 またそろそろ歩き出す炭治郎に、妖精たちは飛んでついていった。炭治郎は本日二度目の不法侵入をしている事は全く気にしていない。実弥は縁壱から義勇のスマートフォンを受け取る。ロックボタンを押して画面をスワイプするとすぐにホーム画面が開いた。
「認証無しかィ……」呟きながら写真のフォルダーを見てみる。玄弥の写真が最後に撮ったものになっていた。「だろうな」電話やメールの履歴も見てみるが、何も情報は得られなかった。スマートフォンに再びロックをかける。
 テレビの音がずっと聞こえているが、その部屋があると思しき位置を通り過ぎた。家の端の方の部屋に明かりが付いており、炭治郎はそこだと言って、足を速めた。
 みんなで窓から中を覗いてみる。
 机の前に少年が座っていた。勉強をしているのか、机の上に肘をついて眉間にしわを寄せている。
「あ……兄上!」
 突然縁壱が言った。一同びっくりして縁壱を見る。
「兄上?」と玄弥。「あれはここんちのぼん、巌勝君だけど……」
「巌勝は私の兄だ、双子の兄だ……前世では」縁壱はよく見ようと窓に顔をくっつける。「間違いない。痣はないが、私が間違うはずがない。兄上だ、継国巌勝だ」少し悲しそうな顔になって「鬼になったが。しかし、人間に生まれていたのか……」
 縁壱は部屋の中の巌勝を少し見つめていたが、はっとして「冨岡君はここに?」と言った。
 他の面々もしばし呆然としていたが、我に返って炭治郎を見る。炭治郎は「おそらく」と頷いた。その時、巌勝が手を上げて前髪をかき上げ、机の上にあったダッカールでとめた。彼が腕を上げたので、机の上のものが妖精たちと炭治郎に見えた。
 ハンカチの上に義勇が横たわっていた。
「冨岡ッ!」実弥が短く叫ぶ。
 義勇は裸にされていた。パンツしかはいていない。ひどい怪我をしているのも見えたが、一同はパンツ一丁にされている事にショックを受けた。
 巌勝は前髪をとめた後、傍らに置いていた、ハンカチを細く裂いて作った紐を取り上げた。
 窓を破ることができない妖精たちは窓の外を飛び回った。炭治郎の鼻息も荒い。
「縁壱さん! あんた、あんたの兄上はっ、あに兄上はッ! ヘンタイなのか!」小芭内が叫ぶ。
「前世で鬼になったお方ゆえ、ヘンタイになる可能性もないとは言い切れぬ」
「縁壱さん!」小芭内は縁壱の襟元をつかんだ。
「それより炭治郎君、窓のカギは開いているのだが」小芭内に揺すられながら縁壱は言った。炭治郎はびっくりして、早く言って下さいといいながら窓を引いて開けた。妖精たちがなだれ込む。炭治郎はさすがに乗り込む事はせず、窓から顔を覗かせて中を見ている。
 義勇に紐を巻き付けようとしていた巌勝はぎょっとして窓を見た。
 妖精が五人飛び込んでくる。実弥は直ぐに義勇の所へ飛んで行き、巌勝の指に噛み付いた。小さく声を上げ、巌勝は手を引っこめる。
「な、な、あ、ああ? ……縁壱!?」一番前に出てきた縁壱を見て巌勝が驚愕する。義勇から聞いてはいたが、本当に小さい。
「兄上……」縁壱の声は巌勝の腹にどすんと落ちた。紐を取り落とす。「せっかく人間としてこの世に生を受けられたというに、かような小さき生き物へ……緊縛プレイとは!」
「えっ」巌勝の顎ががくんと落ち、口がぽかんと開いた。両手がふるえている。
「中途半端にパンツを残し……いえ、そういう事ではありませぬ!!」
「何……言ってんだお前……」
「妖精を縛って舐め回そうなどと……鬼のいぬ世に鬼のような所業、鬼のようなヘンタイに成り下がっておられるとは……」縁壱の両眼から涙がこぼれた。「おいたわしや、兄上……」
 この言葉に、巌勝の頭の中でピィンと小さな歯車が飛んだ。
「おのれ縁壱……!!」箪笥の横のゴミ箱に立てかけてあったハエ叩きをつかむ。
「おっ! おい、キレたぞヘンタイが」天元が言い、妖精たちは臨戦態勢になった。

 実弥は義勇の横にしゃがみ、部屋の中の喧騒はそっちのけで彼の頬をぺちぺち叩いていた。
「ああ、なんて怪我だァ、冨岡、冨岡ァ、もうちと待ってろ、胡蝶を呼んだからなァ」実弥は先に玄弥のカナブンを飛ばしている。「チキショォ、目ェ覚ませよ、これしきの怪我で……」思わず涙がこぼれた。自分でも驚いた。驚いたが、着ていたスエットを脱いで義勇の腹の辺りにかけ、そのまま話し続ける。「なァ、あのおはぎだけどよォ、ホントは食いたかったんだァ。あん時ァ苛々しちまって……だけどあれ、本部のおはぎだったろォ? うまいんだよなァあそこの。蔦子さんが開発したんだもんなァ。……もしかしてお前がおはぎも置いてくれつったのかァ? もしかもしか、もしかして俺のためにかァ?」
「お前のためじゃない」突然義勇が返事をしたので実弥は飛び上がった。義勇は目を開けて実弥を見る。実弥は慌てて涙をふいた。
「おまっ、な、なんだァ! どっから聞いてたんだァ」
「顔を叩くから目が覚めた。ずっとうるさい」
「う……うるさいって……とと冨岡……うる……うるさ……」
「不死川」義勇はよい方の手を上げて実弥のズボンの膝の辺りをぎゅっとつかみ、
「痛い」と言った。
「う、そりゃそォだろよォ」
「……ありがとう」義勇は痛みに顔をゆがめながらも、口の端をぎゅっと上げた。

 巌勝は愕然としていた。
 ハエ叩きを手にし、縁壱を叩き落そうとしたのだがかすりもせず、それどころか二、三度振り回したところで縁壱に手刀でもってハエ叩きを折られてしまった。それを見た時点で巌勝の膝は笑い出した。
 折れたハエ叩きの先を持った縁壱は、それを武器に巌勝をめった打ちにしてきた。鼻柱や耳の外側を打たれた時にはあまりの痛さに涙を流し、女のような悲鳴を上げてしまった。他の妖精たちも皮膚の柔らかい所を突いてくる。それぞれ小さな尖った棒を持っている。目を突かれたら失明してしまうと、巌勝は床に転がり、腕で顔を覆った。
 人生がちょろいだと? 確かに人間社会では俺の人生はちょろいかもしれない。しかし……縁壱が現れた今、俺の世界は人間社会中心ではなくなった……ような気がする。巌勝は床にはいつくばったまま動かずにいた。妖精たちの攻撃もやんだようで、少し顔を上げると机の下に押し込まれたカンフーバットが見えた。父に連れられて甲子園に行った時に買ったものだった。
 ワンチャンあるかも?
 巌勝は手を伸ばしてそれをつかんだ。
「うぉおお!? なかなか骨があるじゃねぇか!」天元が叫んだ。
 巌勝が小さなバットを両手に持ってよろよろと立ち上がった時、廊下で声がした。
「みーちーかァーつ!」
 巌勝の母だった。部屋に向かってくる。巌勝はハンガーにつるしてあった制服の学ランを取り、机の上にぱっと被せた。妖精たちはその中にもぐり込み、炭治郎は窓から顔を引っ込めて壁の向こうへ隠れた。
「巌勝!」母がドアを開けた。
「おかえり、早かったね」巌勝は足がふるえている事を悟られぬようにベッドに座った。
「せやねん。酔うたら車置いて帰らなあかんからな! お父さんだけ置いてきたわ」彼女はハハハと笑う。そして部屋を見回し、不自然に置かれた学ランに目をとめる。
「何か隠した?」と言ってから直ぐに「あー、ははーん、あははーん、そう、ごめん、何か言おうと思っててんけど忘れたわ。ま、ほどほどにな!」ハンハン笑いながら踵を返し、戸を閉めて去って行った。巌勝は訳が分からずぽかんとしていた。
 立ち上がってみると、足のふるえは止まっていた。机のところまで行き、学ランを取り去る。妖精たちは巌勝を見上げ、にやにやしていた。振り返ると、炭治郎が窓から顔を出し、苦笑いをしている。
「ま、まぁまぁ、それはいいとして」天元が言った。
「『それ』ってなんだ」
「だからそれはいいとして。どう始末つけるよ、ヘンタイさん」
「この人はヘンタイじゃない」義勇が言った。皆、義勇を見る。パンツ一丁にされた男が何を言うのか。「俺は鬼舞辻ヤンマに襲われて死にそうになった。この人は俺を助けてくれた」
「お前それ、一番に言えよ」小芭内が目を吊り上げた。
「気を失ってただろ」巌勝が義勇をかばう。
「しかし分からんぞ、怪我で動けないお前を手込めにしようとして助けたのかもしれん。素直に信じすぎだ冨岡」
「お前はどうにかして俺をヘンタイに仕立て上げたいようだなチビ。こんなに小さいヤツをどうしようっていうんだ」と巌勝。
「体格差フェチってやつじゃないのかね」
「体格差ありすぎでしょ伊黒さん」炭治郎がつっこんだ。
「この紐は止血に?」縁壱が例の紐を手に取る。「ヘンタイではなかったのですね、兄上」うれしそうな顔をする。
「だから冨岡さんもそう言ってるだろ!」
「なんだ、冨岡の命の恩人かよ兄上、面白くない、地味すぎる」言いながら上機嫌で天元が巌勝の周りを飛び回り、机の上に立っている玄弥がぺこりと頭を下げる。巌勝はため息をついた。
「もういい。俺も、マジで怒っている訳じゃないし、マジでお前たちを叩こうとした訳じゃない」巌勝は後半部分は少し事実を曲げて言った。「よく分からないが、あんたたちと会えてうれしいような気もする」
 この言葉に天元が「ほほう」とうれしそうな、からかうような顔をした。
「平和ボケとは言うが、前世のあの煮詰まって焦げた飴みたいな、どうしようもない気持ちを溶かしてくるんなら、ボケていてもいいと思う。こういう世界に生まれた事の意味を、俺は考え始めている。しかし――」巌勝は縁壱に人差し指を突き付けた。「縁壱、お前は許さない。ハエ叩きで俺を叩きまくった事を一生忘れない」
 これには縁壱以外の妖精たちは皆吹き出した。
 その時炭治郎が、胡蝶しのぶが来たと告げた。
「あらあら」しのぶは義勇のそばに膝をつき、それから巌勝をねめつけた。巌勝は怯む。「手当をしようとしてくれたと聞きましたが、脚には何も怪我がないのにパンイチにするとは、ヘンタイなんですか?」
「し、知らない、服が俺の指が服が大きすぎて小さすぎて切ったんだ、全部切れてしまったから全部切ったんだ!」
「兄上、日本語が崩壊しております」と縁壱。
 それからは皆、しのぶの治療を見守った。消毒を終えた傷は縫われ、薬を塗られガーゼで押さえられた。包帯を巻き終え、病院のパジャマを着せるとしのぶは、
「大変でしたね、冨岡さん」と言った。義勇はかぶりを振る。
「たいした事はない」
「麻酔が切れたらチビるほど痛みますよ」しのぶは微笑む。義勇は目を見開いた。口も半開きになっている。「痛み止めを置いておきますから、麻酔が切れてきて痛み出したら飲んでくださいね。ひどくなる前にですよ」背負ってきたリュックから痛み止めの入った小さな袋を出して横たわる義勇のそばに置く。それから、鬼舞辻ヤンマの事は必ず「御館様」に詳しく報告するように言い残してしのぶは帰っていった。忙しい妖精だ。
 来た時の興奮は完全に冷めた。
「元はと言えば俺が悪いんだ」玄弥が言い、今回の事をはじめから巌勝に話した。巌勝が、それなら「うちのジジイ」の無意味な殺生が発端だと言ったので、実弥は巌勝の祖父に言えなかった文句をここで吐き散らした。
「って言ってもなぁ」巌勝が腕組みをする。「おじいちゃんはめちゃめちゃ悲しかったんだと思う。寂しいんだと思う、おばあちゃん死んで。あんな毎日バカみたいにテレビばかり見て、なんかホントに色々どうでもよくなったのかも」
「燃え尽きたのかもしれないな、生きる事に」小芭内がぼそっと言った。
 ちょっとした沈黙が、巌勝の部屋に降りてきた。
「不死川、薬を飲みたい」義勇が言った。
「ああ!? もう飲むのか!?」
「伊黒、薬を飲みたい」義勇は能面のような無表情な顔を、今度は小芭内に向ける。実弥が「分かった、分かったよまったく」と言いながらツールベルトから水筒を出した。水を入れてくれと巌勝にふたを差し出す。あまりに小さなふたを見て、巌勝は水を持ってくると言って、部屋を出て行った。縁壱が巌勝の髪の中に隠れるようにつかまってついて行く。
「俺はもう逃げたり隠れたり、鬼になったりしないぞ縁壱」巌勝は言った。

 

 今夜は温かい。生ぬるい風に時折吹かれながら、妖精たちと炭治郎、そして巌勝は庭にいた。夜通し農作業をする時のためにあるライトをつけたので、庭は少し明るい。外へ移動するのに、実弥は義勇をおぶうと言い張ったが、炭治郎が自分の手に載せる方が安定するし、横にもなれると言い、少し言い争いになった。義勇が炭治郎の手の方がいいと言ったのでその件は決着が付いたが、実弥がふくれ面をしているので皆面白がった。巌勝は炭治郎の手の上に横になる義勇を少し見ていた。炭治郎はうふふと笑って口だけで「かわいいでしょ」と言った。巌勝は半笑いになりながら微かに頷いた。
 巌勝の母が縁側の雨戸を閉めるふりをして様子を見に来たが、離れているので彼女には妖精は見えない。巌勝は高校一年生の炭治郎を中学の先輩だと紹介した。母は、もう八時半を回っているよと心配したが、炭治郎が近くに住んでいるから自転車で直ぐに帰れる、もう少ししたら帰ると説明した。中学に入ってから息子が家に友達らしき子を連れてきた事がなかったので、巌勝の母は少しうれしそうだった。
 母が家の中に消えてから、巌勝は庭の端に置かれていたさつきの盆栽を、祖父が盆栽を育てていた台の上に移動させた。
「ジジイ……いや、おじいちゃんに捨てられないかな」玄弥は不安そうだ。
「大丈夫」巌勝は縁側へ行って、その下をごそごそと探し、園芸用のネームプレートを持ってきた。皆に少し待つように言い、部屋へ走って戻り、ペンを持ってくる。妖精たちは台に乗り、ネームプレートを取り囲む。義勇も見ようと炭治郎の指の先から身を乗り出そうとしたので、炭治郎はそっと台の上に手を乗せ、見えるようにしてやった。義勇は手から下り、ネームプレートのみんなのところまでそろそろ歩いて行った。
 巌勝は少し太めのペンで黒々と「みちかつのさつき!」とネームプレートに書き込んだ。「みちかつ」の部分に下線を引く。
「ホントは玄弥君のだけど、うちの人、分からないから」巌勝は言った。玄弥は目を潤ませて「ううん、いいんだ、これで大安心だ、ありがとう」と喜ぶ。
「玄弥ァ、これから人の手が要る作業あるだろ、この盆栽再生するにはよォ。そん時ァこの巌勝坊ちゃんに頼めばいいぞ」実弥が言う。
 巌勝は、黒死牟であった前世の最後で不死川兄弟とは壮絶な戦いを繰り広げた。それを思うと全くもって不思議な気持ちになる。星空をじっと見つめて、遠く遠く、遥か遠くの星に思いをはせる時の気分だ。脳みそだけ無重力空間にいるような。それは、縁壱との事を思っても感じられた。
 なんのために生まれてきたのだ。
 最期の叫びが胸の中によみがえる。確かな痛みを感じながらも、それは自分ではない誰かの叫びのように今は感じられた。
 おいたわしや、前世の俺。自分の悲しみをからかって和らげようとしながらライトに照らされた盆栽にネームプレートを刺した。
 ちょろい人生もつまらない。
「実弥さんの言う通りだよ」巌勝は玄弥に言う。「なんでも俺に言ってくれたらいい。盆栽以外の事も、えーと、そう、炭治郎君みたいに思ってくれたらうれしい」
 実弥は玄弥の肩をぽんぽん叩いてからぎゅっと抱いて、それから離した。
「そろそろ帰るかな」天元がのびをする。
「冨岡は返してもらう」小芭内が巌勝の顔の高さまで飛び、彼の目を見た。「緊縛プレイよりジジイの相手もしてやれ。老いぼれも話をしたいんじゃないのかね。テレビなんかじゃなく、死人以外の大好きな奴と向かい合っていたいのでは?」
 巌勝はゆっくり頷く。そして
「ずっと気になってたんだけど、そもそも『緊縛プレイ』ってなに? どういう遊び? ただ裸を縛るだけ?」と言いながら妖精たちと炭治郎の顔を見回した。炭治郎は笑いそうになっている。
「兄上」縁壱が言った。「前世の記憶があるくせに、かまととぶるのはやめて下さい」
「えっ」巌勝は戸惑った。
「まぁまぁまぁ、今夜ネットで調べろやァ」実弥が笑いながら言った。なぜか義勇と一緒に炭治郎の手の上に乗っている。
 帰る段になり、門の所で炭治郎は自転車のかごに巌勝からもらった菓子箱のふたを置き、そこにハンカチを敷いて義勇を載せた。縁壱は
「兄上、今日は大分に邪魔をしました。これからはもう致しませんので、平穏な生活を送ってください」と頭を下げた。皆ぽかんとした顔をする。
「ここまでかき乱しておいて何を今更、『もう来ません』か」巌勝は低い声で言った。
「また来てもいいんですか?」縁壱の顔がぱっと明るくなる。
「そんな事は言ってない」
「じゃあどういう意味です? 来てもいいのかいけないのかどっちです?」
「お前が今来ないと言ったんだろう」
「兄上、天邪鬼ですか?」
 炭治郎がたまらず吹き出す。
「なんだありゃ」実弥が言った。
「自分を見ているようだろう」小芭内がにやりと笑った。
「不死川は天邪鬼か……」義勇が頭の中のメモ帳に書き付けている。実弥は彼の頭をはたいた。
 炭治郎が自転車を押しながら進みだした。妖精たちは口々に「また来る」と言い、巌勝と玄弥は手をふった。未舗装の道を帰っていく皆の姿が十分に遠ざかったところで、その背中を見ながら巌勝が、
「時々、ちょくちょく、遊びに来ていいぞ縁壱」と言った。玄弥は目を丸くして巌勝を見た。

 未舗装の道を出ると、アスファルトの車道だ。田舎道ゆえ、街灯が乏しく、道は真っ暗と言っていい。道幅も狭いので、車が通るとなかなかに怖い。炭治郎は自転車をこいで道を渡り、滅多に車が通らない細い道に入った。脇道でも舗装はされている。
「乗り心地悪ィなァ、自転車のかごォ」実弥は義勇の隣でしきりに文句を言っている。箱にも、ハンカチにも、道にも、たまにしかない街灯にも、おぼろ月にも……。義勇はいちいち反論していたが、その内何も言わなくなった。眠ってしまったのだ。
「ちきしょォ、寝やがった」と実弥。なぜ「ちきしょー」なんだと小芭内が笑う。天元がかごのふちに立って、
「実弥ちゃんはな、好きな子にはいじわるしちゃう的な男子なんだよな」とからかった。小芭内が「小学生男子だな」と受ける。
「俺は小学生じゃない」義勇の口真似をして炭治郎が言ったので、実弥も吹き出してしまった。
「しばらく仕事休みだなぁ冨岡」実弥が呟いた。風に吹かれてふわふわ揺れる義勇のはねた髪を見ていると、ススキを思い出した。春なのにな。実弥は思った。
「ねぇ不死川さん」炭治郎がかごの実弥に向かって言う。「もう少し、後ちょっとでいいから、義勇さんに優しくしてあげてくれませんか?」実弥は不機嫌そうな顔になる。「義勇さんは何も、わざと不死川さんの嫌がる事をしてる訳じゃないんです。今日だって、仕事の事抜きでも不死川さんに元気になって欲しいって言ってました」
「うるせェ」そんな事分かってらァと、実弥は思う。「これ以上優しくして惚れられたらお前責任取れんのかよォ」
「不死川!?」小芭内がぎょっとして実弥を振り返った。炭治郎は蔑みの目を突き刺してくる。
「俺は真面目に言ってるのにくだらない冗談言うんですね、不死川さん。大人のくせに」
「ああ!?」
「マジくだらない事でまたもめるのはやめろ」小芭内が止めに入る。
「いいじゃん、お前ら結婚したら俺仲人やってやんぞ」天元がにやにやしていると、
「人間社会でも、場所によっては同性婚も認められていると聞いた。御館様なら全く問題にせず、許可して下さるだろう」縁壱も言った。小芭内が「何を言い出す」と縁壱を見ると、彼の顔は笑っていた。縁壱はおぼろ月を見上げ、
「なぜ心というものはよじれたがるのだろうな」と呟いた。
 少し沈黙が訪れる。
「すんなりいっても面白くないけど、よじれるのは切ないですね」炭治郎が言った。
 実弥は隣で眠っている義勇の顔を見る。炭治郎の頼みを思い出してまたむっとする。俺だって、分かってらァ。ただ冨岡が玄弥より更に下の弟みたいになっちまって、訳分かんねェってイラつくだけだァ。お前みたいなクソガキに言われたくねェわ。実弥はちらっと炭治郎を見る。炭治郎はおぼろ月を見上げていた。小芭内や天元、縁壱も月を見上げ、少し感傷的になっているようだった。実弥はこっそり義勇の頭をなでた。

 一同は天神川に架かる天神橋を渡る。車道と歩道に分かれている橋だ。
 この車道側の橋の裏の巣で、鬼妖精鬼舞辻無惨が部下の妖精鳴女から報告を受けていた。
「それはマジバナか」無惨は声を少し震わせて言った。
「マジバナです」
 「マジバナ」ってなんだ。
 鳴女は、体の大きさとは関係なく前世より小さく感じる鬼舞辻無惨に対して前世より小さい忠誠心しか持てていない。しかし、生きていくためには鬼舞辻組でのし上がるしかない。趣味の音楽を仕事の域に高めていくためには金が要るし、何より毎日毎日を生きて終えねばならない。
 鳴女は無惨が放った鬼舞辻ヤンマが帰ってこないので北川家へ様子を見に行き、そこで事の顛末を目撃したのだった。
「黒死牟……いえ、今は北川巌勝という名ですが、巌勝は完膚なきまでに叩きのめされました」
「縁壱一人にか」
「他の妖精たちもいましたが、いなくても同じだったと思われます」
「人間なのに……」
「ティンパニのように叩かれておりました」
 無惨は腕を組んで目を閉じる。また縁壱か……今世もまたバケモノ街道まっしぐらなのか……って事で夜露死苦ぅなのか……。無意識に歯ぎしりをしていた。
「アレは私の行く手を阻むために生きているのか」
 そんな暇ではないでしょう。鳴女は思ったが、ここは自分のために、無惨に知恵を貸してやらねばならない。北川家から帰る道々考えていた計画を話してやる事にした。
「無惨様」無惨が「様」付けで呼ばれる度ちょっと陶酔している風になるのが鳴女は気に入らないのだが、それも自分のために我慢する。「産屋敷耀哉を殺るならまずは縁壱でしょう。あいつを殺らねば産屋敷には近づけません」
「鳴女、お前は人間があやつに叩きのめされるところを見てきたばかりだろう。兄弟ゆえ手加減していたに違いない。あやつは絶対人間を殺せるほどの力がある」
「無惨様、巌勝は叩きのめされましたが、ただの子供です。のほほんと生きてきた、家が農家なのに米俵一つ持てぬような現代っ子です」無惨は「むむむ」と唸る。「もっと、鍛錬を積んだアスリートなどであれば、鉄のハエ叩きを持たせればワンチャンあります」
「畜生バケモノめ、余計な手間を取らせおって」無惨はまた歯ぎしりする。「あれに比べれば産屋敷耀哉などお色気ナースみたいなものだ」
 鳴女は厚く垂れ下がった前髪の裏で大きな一つ目を見開いた。
「どういう例えです? 女性蔑視ですか?」つい盾突いてしまう。それには構わず無惨は腕組みをして考え込んだ。忠誠心は小さいが、今の無惨様の方が親しみが持てる事はあると、鳴女は思った。
「黒死牟……いや、あの子供、巌勝を鍛えたい」
「そうこられると思っておりました」
「何か考えがあるか」無惨の問いに、鳴女は深く頷いた。
「魘夢を使ってはどうでしょうか」
「魘夢……機関車魘夢か」
「トーマスみたいにおっしゃいますね、その魘夢です。やつは今巌勝のクラスメイトです。」
「また子供じゃないか!」
「操るには子供の方がいい事もあります」無惨は「ほほう」と鳴女を見た。「魘夢に夢を見させて巌勝を運動部に誘うように仕向けるのです」
 無惨ははっとした。
「前世で魘夢がしていたような事を、逆にさせるのか!」
「左様でございます」
「イカす! 鳴女、お前は天才だな!」
 鳴女は何も言わなかったが、前髪の下の目は見えないので、無惨には表情がわからなかった。しかし頬を赤らめているのを見、褒められて喜んでいるのだろうと、彼もほくそ笑んだ。現代ではこういう上司が尊敬されるのだ。褒めることを知っている上司。
 しかし鳴女は全く別の事を考えていた。
 彼女の頭の中に居座って去らない映像がある。それは、パンツ一丁でハンカチの上に横たわる冨岡義勇の姿だった。巌勝を惑わす計画を進める中で、義勇に近付けないものだろうか。鳴女は期待していた。彼の傷が癒えたら、あの胸に頭を載せたい。そして琵琶の音色について語り合い……鳴女は「ひゃっ」と鋭く息を吸った。いきなり裸のお付き合い妄想など……! お色気ナース発言よりサイテーだ! 出会った時から裸とか温泉ハプニングエロ動画か!
 頭の周りで手を振り回す鳴女を見て、無惨は蚊取り線香の季節か……と思った。
 落ち着くために手を脇の下に挟んで固定し、鳴女は言った。
「天才などもったいないお言葉です。私はただの琵琶女。無惨様のために必死で知恵を絞るだけでございます」言いながら、鳴女は絞った知恵は冨岡義勇とお知り合いになるためにも使いたいと思っている。ダメだ、一旦冨岡氏の事は忘れるのだ、鳴女は自分に言い聞かせた。
 時折車のヘッドライトで周りが明るくなる。車が通りすぎると静けさが戻り、無惨には鳴女の鼻息がうるさいほど聞こえる。今世でこんなに忠実に自分に仕えてくれるのは今まで鳴女以外いなかったと、無惨は彼女に親しみを覚えた。

 

 翌日も晴天だった。光あふれる庭のバラ花壇で、小芭内と実弥は義勇の姉蔦子の前に立っていた。二人ともじっと地面を見つめている。
「なぜなの? なぜあんな事になったの?」いつも優しい蔦子の声は上ずっている。「ねぇ、実弥ちゃん! なぜ? 伊黒君!」
 なぜ俺だけ「実弥ちゃん」なんだと実弥は思った。昔から「実弥ちゃん」「伊黒君」と呼ばれている。蔦子としては単に「小芭内ちゃん」は長すぎるし、「伊黒ちゃん」だとおっさんの呼び名っぽくなるからそうしているだけだが。
 蔦子の目に涙があふれてきた。
「今見てきた、義勇。眠ってたわ」
「まだ痛み止めを飲んでいるので眠いみたいっすね」実弥は言った。
「そういう事言ってんじゃないのよ」蔦子の声が少し低くなる。「すみません」と実弥は肩をすくめた。
「なぜ義勇を鬼舞辻組の巣に置き去りにしたの? 義勇が何をしたって言うの?」
「あの――」
「言い訳は聞きたくありません」
「申し訳ありませんでした」小芭内と実弥は揃って頭を下げた。蔦子は一体誰からそんな情報を得たのか……。後で義勇から本当の話を聞かされる事だろう。そうすれば誤解した事に関しては悪く思っておはぎでも差し入れに来るに違いない。
「実弥ちゃん、もう少し、後ちょっとでいいから義勇に優しくしてあげて」蔦子が炭治郎と全く同じことを言ったので、小芭内は笑いを堪えるのに必死になった。
「私、義勇も男の子だからあなた達と一緒にいたずらしたり羽目外したり女の子のお尻を追っかけ回したり、色々大目に見てきたわ。でも今回ばかりはあの子の事も叱らなきゃと思ってる。チキンレースみたいな事をしたいのは分かるけど、鬼舞辻組でやるのはダメよ」
 ここまでくると、小芭内と実弥は蔦子の口から何が飛び出してくるのか楽しみになってきていた。女の尻を追い回す? チキンレース? 俺たちがいつやったそれを! 実弥が小芭内をちらっと見ると、彼はもう笑いを堪えられる限界にきているようだった。
「は!」突然蔦子は掌で胸元を叩いた。「もしかしたらもう目を覚ましてるかもしれないわね」
「えっ、つい今来てまだ寝てるって言ってなかった? 蔦子さん」
 実弥の言葉も殆ど耳に入らない様子で、蔦子はそそくさと物置の方へ戻っていった。ついに小芭内が笑い出す。つられて実弥も笑った。「あれも『よじれてる』内に入るのかァ?」
「あの様子じゃ、世話を焼きすぎて逆に冨岡を疲れさせるんじゃないのかね」
 小芭内の言葉に笑いを引っ込め、実弥は「ちょっと行ってくる」と蔦子の後を追った。
「また一人になったなばら組、大丈夫か? 見てるこっちは暇しねーからいーけど」とシャクヤクのところから天元が笑って声を掛けてきた。
「もはやこれが平常運転かな」小芭内はにやりと笑い返した。

 

 数日後、産屋敷組本部のあるキャンプ場の東屋に、北川巌勝こと継国巌勝がやって来た。乗って来た自転車を歩道に止め、草地を少し歩いて東屋のベンチに腰掛ける。ポケットからスマートフォンを少し出して、ロック画面で時刻を確かめた。約束の時間より少し早い。
 あれから巌勝は玄弥と一緒にホームセンターへ行き、盆栽を二つ買った。その内一つは祖父のものとし、盆栽についての様々な知識を彼から教わる事にしている。祖父は巌勝が盆栽を買ってきた事を喜び、テレビをやめて孫と話をするようになった。巌勝は、折りをみて彼に玄弥を紹介しようと思っている。
「お早いですね、学校はお休みですか兄上」
 突然背後から話しかけられ、巌勝は少し飛び上がった。
「縁壱……まだ連休中だ」
 そうですかと言いながら、縁壱は東屋の中へすっと飛んで入ってき、テーブルの上に降りた。
「他の妖精たちと違ってお前はいつも和服なのか?」巌勝が訊く。
「はい。御館様が髪型に合うからこの方がよいとおっしゃって」話す縁壱を巌勝はじっと見る。「もちろん、強いられた訳ではありません」
 小さい。
 なぜこんなに小さいのに、こんなに強いのだろう。巌勝は腕組みをしたが、すぐほどく。
 縁壱だから。それしかない。
「どうされました? ひとりでにやにやと」
「『にやにや』などしていない」巌勝の言葉に、縁壱は微笑んだ。
 かつては縁壱が笑うと気味が悪いと、巌勝は思ったものだ。
 今はどうだ。縁壱が笑うとほっとする自分がいる。気持ちをそのままアウトプットすることはできないが、自分たちの関係は確かに前世とは違うものになった。
 人間と妖精。それでバランスが取れたのかもしれない。例え人間より強い妖精であったとしても。
「相談事があると言っておられましたね。わざわざ玄弥君のカナブンを飛ばさずとも、私もスマートフォンを持っております」縁壱は帯に挟んだスマートフォンをさっと取り出して見せた。小さすぎて巌勝にはよく見えない。
「アドレスかアカウントを教えてくれ」巌勝が言うと、縁壱は固まった。
「まぁ、カナブンでも構いません」縁壱は出した時と同じくらい素早くさっとスマートフォンをしまった。
「おい待て縁壱、得意気に出しておいて。アドレスかアカウントを教えてくれれば写真も送れるし便利だろ」
「で、相談事とは?」
「縁壱、スマホの使い方が分からないなら教えてやる。ってか、ばらトリオとはやり取りしているだろう」
「来たものに返事をするのは簡単です」
「……ガラケー卒業したてのじいちゃんばあちゃんか」
 縁壱は少しむっとした顔をした。巌勝は彼のスマートフォンに自分の連絡先を入れてやりたかったが、妖精のスマートフォンは小さすぎて画面も見えないし操作もできない。
「玄弥君も知っているかもしれないから、訊いておく。俺からメッセージがきたら返信してくれよ」
 縁壱は顔をぱっと輝かせて承知した。
「で、俺の用事なんだけど」巌勝は本題に入る。「実はさ、クラスメイトに魘夢って奴がいて」今風の話し方と昔の話し方が混ざる巌勝を、縁壱は微笑ましく思う。自分たちは現代に生きてまた会えたんだなと「ムネアツ」だ。「そいつ、前世鬼だったのは知ってるんだけど、本人にその記憶があるかは定かじゃないんだ」縁壱はじっと聞いている。「なんかヘンな奴で、なんていうか……ヘンタイぽいって言うか……とにかくヘンで、いつもうっとりして写真とってSNSに載せるばっかやってるんだ」
「私にはヘンさがいまいち分かりませんが、兄上がヘンだとおっしゃるならそうなんでしょう」
「妖精界にはSNSはないのか? 人間とも通信できるなら、人間界のSNSを使うこともできるだろう?」
「さあ……どうでしょう」
「ていうか、お前SNSが何か知ってるのか?」
「知っています。ピースした自分の写真を誰彼送りつける何かでしょう」
 やはり縁壱は初めてスマホを持ったおじいちゃんレベルだと巌勝は思った。
「その魘夢というクラスメイトが何かしてくるのですか?」
「そう、そいつSNSくらいにしか興味ないみたいな奴なのに、突然体を鍛えようって俺を誘ってきたんだ」
「体を、鍛える」
「そう。なんか、筋トレのDVDとか買い込んで、後レッスンの動画チャンネル登録しまくって、それで一緒にやろうって誘ってくるんだ」
「兄上はエロ動画にしか興味がないというに」
「その認識そろそろ改めろ縁壱」
「それはいいとして、兄上はその魘夢とやらの行動のどこに怪しい点があるとお思いで?」
 巌勝は、うーんと唸って腕組みをした。目を細めてキャンプ場の横を流れる天神川の方を見る。流れはとても細く、用水路のようだが、砂地に葦の芽がたくさん出て、これが伸びればぼうぼうの河原になるのだろう。
「まず、唐突すぎる。鍛えるとか興味なさそうだったのに、妙に熱心に勧めてくる。誘ってくる。強引と言ってもいい」
「友達になりたいのでは? 兄上以外になれそうな子がいないのでしょう」
「『子』……」
「兄上は十四歳です。私から見れば子供ですよ」
「『兄上』なのに……」
「魘夢も子供でしょう、気にしすぎなのでは? 一人で筋トレとやらをやるのはなかなかモチベーションとやらが保てまい。仲間が欲しいのだと私は思います」
「でも、俺はもし魘夢に前世の記憶があったならと思うのだ。それなら、もしかすると鬼舞辻無惨と繋がっていて、何か企んでいるのではと心配なのだ」
 河原の葦の芽を数えるともなく目で追っていた縁壱は、ぱっと首をめぐらせ巌勝の顔を見た。巌勝は眉根を寄せていた。
「俺は……よく分からないが、俺に直接どうこうはないと思ってる。人間だからな。でも、無惨からすれば利用価値があるのかもしれない。俺を使った企みでお前を殺そうとしてるのかも」
 縁壱は少し目を見開いた。
「兄上、飛躍しすぎでは? 私はそうまでして殺すほど恐ろしいものでもない」俺をめった打ちにしておいて……。巌勝は思った。
 しかし、縁壱はあまりに呑気だ。かつて無惨がどれほど縁壱の事を恐れていたか。今世でまた会ったとしたら、亡き者にしたいと熱望し、黒い計画を企てる事は容易に想像がつく。
 しばらく巌勝の顔を見ていた縁壱がにっこり笑った。
「うれしいです、心配してくださるのはとても。笛を吹きたくなるほどです」
「縁壱、いちいち俺の黒歴史を持ち出すのはやめろ」
「私は大丈夫です。鬼妖精の企みごとき、産屋敷組の前には鼻くそみたいなものです」弟の「鼻くそ」発言に、巌勝は目をむいた。「もし何かあれば、兄上の所へ鎹……縁壱が飛んで参ります」
「お前に何かあってお前が飛んで来るのか」
「宇髄君のカナブンを借りてもいいです」
「スマホをマスターしろよ」
「重大な連絡事はスマートフォン禁止ゆえ……飛んでまいります」
 巌勝はまた腕組みをして「ふん」と考え込んだ。魘夢の事はもう少し様子をみよう。断り続けて別の奴を探すなら問題はないが、筋トレ以外のもので釣ってこようとすれば、これはまた相談案件だ。
 縁壱を見ると、空を見上げ、燕を目で追っている。巌勝の視線を感じたか、振り向いて「兄上、燕はあんなに速く飛びますが、私はあれよりもっと速く飛びます。心配なさらずとも大丈夫です」と微笑んだ。
「そうか……」
 巌勝は左の掌を上に向けてテーブルの上にそっと出し、それから縁壱の腰の辺りをつまんで持ち上げた。掌の上に載せる。縁壱はそのまま座り、首を傾げて巌勝の顔を見た。
「時々、ちょくちょく、玄弥君と俺のさつきを見に来い縁壱。梅とボケも仲間に加わったし、なかなか面白いぞ」
 縁壱はうれしそうな、弟らしい顔になって頷いた。
 川向こうの田んぼの上を、トンビが旋回している。上向きの空気に乗ってどんどん上昇していくその軌跡は、素直ならせんを描いていた。

 

前作:縁壱さん
次作:かれんなオトコマエ

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