氷上のデブ

思いついた、試した、いつまで続くか分からない。

かれんなオトコマエ

 

厄介な夢

「おはようございます、お姫様」
 声を掛けられ、小芭内はぎょっとして振り向いた。
 にやにやしながら実弥が立っている。その横で義勇が深々と頭を下げ、
「おはようございます、お姫様」と実弥の言葉を繰り返した。
 お姫様とはなんだと言い返そうとするが、声が出ない。俺は男だぞ、何がお姫様だ! そう怒鳴りたい。
「ああ! お目覚めに遅れちゃった! 目覚める直前が一番かわいいのに、お姫様!」叫びながら走ってきたのは甘露寺蜜璃。小芭内は心底焦った。なぜ甘露寺までが「お姫様」などと言うのだ。「かわいい」とはなんだ! 今の世には「かわいい」と言われて喜ぶ男もいるらしいが、俺は違うぞ、それは一番言われたくない言葉――ふわりと体が浮いた。実弥と義勇が手を叩いている。小芭内は、蜜璃に「お姫様抱っこ」をされていた。
 やめろ! やめてくれ! なんだって俺を……ふわふわのドレスが目に入る。その裾から白いパンプスをはいた自分の足が突き出ている。
 なんだこれは! なぜ俺がドレスなど着ているんだ! っていうか下ろせ甘露寺!!
 もがこうとしても体が動かない。汗が滝のように流れてくる。
 だめだ、こんな汗、俺、今めちゃめちゃ臭い……。
「全く臭くないぞ伊黒」義勇が一歩進み出てきた。
「臭くないから俺と結婚してくれ」
「ちょっと待て!」実弥が叫び、義勇を押しのけた。
「伊黒と結婚するのは俺と決まってらァ! 俺は王子だからなァ!」
「決めるのは伊黒だ! さあ伊黒、俺とあたたかい家庭を築こう!」
「何言ってんだ小せェんだよォお姫様だぞ!」言って、指をポキポキ鳴らす実弥。「伊黒ォ、俺とォ……そうだ、でっかい城を築こう!」
「あら! 『築き』違いね、二人ともかわいいわ! キュンキュンしちゃう!」蜜璃が小芭内を抱いたまま笑ったが、すぐ真顔になり、
「あれっ? いやだホントに臭いわ伊黒さん」と言った。
 それなら下ろせ! 今すぐ俺を離せ!!
 叫ぼうとして、小芭内は目を覚ました。

「ゆ……夢……」
 荒い息をしながら、伊黒小芭内は起き上がった。夢の中では知らない場所にいたが、目覚めたのは自分の布団の中だ。イナバ物置にあるばらトリオの部屋、ロフトベッドの上。
 下を覗くと、ちゃぶ台の周りにいつもの三人と「お隣さん」の宇髄天元がおり、小芭内の方を見上げていた。鎹縁壱こと継国縁壱は、昨夜荷物を持って来てくれたままここに泊まったようだ。彼は部屋を持たず、本部や支部で寝る事もあるが、たいていはここに泊まる。彼個人の荷物もここにあるので、住んでいるようなものだと小芭内は思う。
 冨岡義勇は先日大けがをしたために傷が癒えるまで仕事を休む予定で、今日も部屋で過ごしている。まだ飛ぶこともできず、胡蝶しのぶの所へ診察を受けに行くには縁壱の背負子に乗せてもらう事になっている。縁壱だからできる事であって、鎹カナブンでは無理だ。他の妖精でも、飛べない大人の男性を背負って飛ぶなどなかなかつらいものがある。
「なんだ、めっちゃ、うなされてたな伊黒ォ」不死川実弥が小芭内を見上げたまま言う。小芭内が黙っていると、
「またあの夢かァ?」と訊いてくる。
「なんだ『あの夢』って」天元が興味を示した。手にチケットのようなものの束を持っている。
「それは何だ」小芭内はベッドから飛び降り、天元の手元を指した。
「あ、これ? 富くじ。冨岡が買ったんだとよ。それより、夢ってなんだよ、伊黒がそんなうなされるなんてどんな夢よ」
 話を逸らせる作戦は失敗に終わった。小芭内はため息をつく。
「大した事じゃない、夢なんだからどうでもいいんだ」
「こいつゥ、小学校の時の劇でお姫様役になっちまってよォ」あっさり暴露する実弥の言葉に小芭内は卒倒しそうになった。縁壱がそっと肩を支えてくれなければ義勇の上に倒れ込んでいたかもしれない。そのままちゃぶ台の前、義勇の横に座る。義勇は力を入れて体を起こしていると傷が痛むらしく、縁壱が手に入れてきた座椅子に座って背もたれに背中を預けている。今は小芭内も背もたれが欲しかった。
「にゃにそれ!」天元は思った通りの食いつきをみせた。飢えた鯉かお前は。小芭内は内心毒づいた。
「伊黒は姫役に立候補した訳じゃない」と義勇。
 当たり前だろうが! 誰が立候補するんだ、何のフォローだヴォケ岡! 小芭内は義勇の頭をはたいてやりたかったが、うっかり座椅子から突き落として傷口が開きでもしたら、自分が胡蝶しのぶに殴られかねない。我慢する。
「お姫様役には伊黒君がいいと思います」
 今も忘れる事ができない、小学六年生の時の実弥の声。小芭内はぎゅっと目を閉じた。
 小中高そろっての文化祭の出し物で、ばら組の所属するクラスでは劇をやる事になり、配役を決める話し合いが行われた時の事だった。実弥がヒロインの姫役に小芭内を推薦したのだ。彼曰く、悪気はなく、お姫様はクラスで一番かわいい子がやればよいと思い、一番かわいい小芭内を推薦しただけだと。
「冨岡もかわいかったんじゃないの?」天元が問うと、
「だけど伊黒より背が高かったんだよなァ」と実弥。
 あの頃、もう少し冨岡の背が低かったらと、小芭内は思う。
 その時は実弥の意見がすんなり通り、仕方なく姫を演じた小芭内だったが、しばらくその事でからかわれた。いじめに発展しそうな事もあったが、けんかの強い実弥が友達だったので未然に防げた。
 しかし、その一連の出来事は小芭内の心にトラウマを植え付けてしまったようで、数年経った高校生の頃から小芭内は、お姫様扱いされるだけの悪夢を時々見るようになった。
「でも伊黒は今は格好いい」義勇が珍しくまともなフォローをする。本人はフォローというよりは本当にそう思って言ったのだが、小芭内は黙ったままちゃぶ台の上に置かれた富くじの束を見つめるともなく見つめていた。
 格好いいものか。俺はいまだに背も低いし体も細い。時々実弥や義勇と一緒にいるのが嫌になるくらいだ。縁壱さんだってイケメンだし体も大きい。天元もそうだ。奴らの中にいれば俺なんかやっぱり今も「お姫様」なんだ。
 黙り込む小芭内を、不思議そうな顔で義勇が見ている。実弥と天元は「いらん事言うなよ」と義勇に視線を突き刺すが、義勇は気づいてなそうだ。彼が何か言おうと息を吸いながら口を開け、実弥が目をむき、天元が目を閉じた時、
「おはようございます。あら、みなさんおそろいで楽しそうですね」と胡蝶しのぶがやってきた。実弥と天元は「助かった」と、そろって大きく息を吐いた。
「おはようございます」縁壱が挨拶を返す。
「おゥ胡蝶ォ、また来たのかァ?」と実弥。
「『また』とはなんです? 『また』とは。昨日は本部で遅くなったので泊まったんですよ。帰り道ですから寄ったまでです。明日診察に来てもらうのもまた大変ですしね。ね、冨岡さん、縁壱さん」
 義勇と縁壱はそろって「ありがたい」と言った。
 先日義勇が大怪我をしてからしのぶが来るのは二度目で、縁壱の背負子の出番はまだない。
 胡蝶、ついでついでと言っているが、「ついで」がメインなんじゃないか? 小芭内はしのぶの顔を盗み見た。彼女はいつも通りの医者の顔でてきぱきと義勇の胸の傷の具合を診て、ガーゼの交換をしている。
 ガーゼ交換など助手の仕事じゃないか。助手を連れずに往診にくるのも珍しい……というより――
 義勇とばっちり目が合ってしまった。
「大丈夫だ伊黒。だいぶ痛まなくなった」義勇は言った。
 ああ、冨岡が「冨岡」でよかった。小芭内は思ったが、肩越しにしのぶがちらりと投げる視線に気づいてどきっとした。あわてて目を逸らす。
 俺は何も気づいてないぞ。だから俺の事にも構わないでくれ。
「そう言えば今朝フードコートで甘露寺さんに会ったんですけど」義勇の胸にさらしを巻き終え、今度は腕の方の包帯を解きながらしのぶが言う。小芭内は天井を見上げた。「可愛らしいリボンをつけてらして、多分……新しいのじゃないかしらと思ってそう申し上げたんですよ。そうしたら本当にうれしそうになさって、『もらったの』とおっしゃるんです」
 小芭内はしのぶに土下座して「ごめんなさい、私が悪うございました。もうやめて下さい」と言いたい衝動に駆られたが、肩の上の鏑丸の胴を両手でぎゅっと握りしめるに留めた。天元のにやついた視線が鬱陶しい。
「伊黒は本当に甘露寺の好きなものをよく分かってるんだな」義勇がにっこりと笑顔になって言った。
 誰も俺が贈ったなどと言ってないだろ。急に察しよくなるんじゃないタピ岡! 笑ってる場合か!
 握りしめすぎていると気づいて、小芭内は鏑丸からぱっと手を離した。義勇は鋭く刺すような小芭内の視線に、何かまずい事を言ったらしいと気付きはしたが、何が悪いのか分からずいつもの困惑顔になる。天元がまた富くじの束を手にしてぱらぱらめくりながら言った。
「別にそんなに照れなくてもいんじゃね? 付き合ってんならリボンの一つや五つ――」
「付き合ってなどいない」小芭内がきっぱり否定した。縁壱が目を見開く。小芭内と蜜璃は付き合っているとばかり思っていたようだ。実弥はうつむいて笑いを堪えているようだ。
「ほほぅ。付き合って、など、いないと」天元は富くじの束を目の高さでばらばらと振り、それを小芭内の方に近づけた。小芭内は手でそれを振り払う。富くじはばさりと床に落ちた。
「おい、無くすなよ」義勇が富くじを拾い集めようと身を乗り出し、痛みに呻いた。さっと手を上げて義勇を止めた縁壱は、床の富くじを集め、束にしてからちゃぶ台の上でとんとんと揃えた。しのぶが「まだ急に動いちゃダメですよ」と囁くように義勇に言いながら、ガーゼの交換をする。
「付き合ってねェんならよォ、今日にでも付き合い始めろやァ。見ててじれったくてしゃあねェや」実弥が言った。小芭内は黙っている。
 自分の気持ちも、多分蜜璃の気持ちもどちらも彼にはよく分かっていた。二人とも前世の記憶がある。前世の約束を覚えている。それを果たす事を、小芭内は強く強く望んでいた。その望みは自分の一言で叶うはずだ。
 ただの仲良しなのだ――そんな、仲間は誰も信じないような言葉で自分をごまかし、何より蜜璃をはぐらかしている事は、小芭内自身もつらかった。しかしどうしても一歩踏み出せない。長いドレスの裾を意地悪な姉妹に踏まれているかのようだった。俺自身が俺をお姫様役に留めているのだ。その事も分かっていた。縁壱が小芭内をぼんやり見ている。縁壱さんは多分、俺じゃなくて踏まれてぴんと張った俺のドレスを見てるんだろう。小芭内は思った。
「トラウマ、ねぇ」天元がため息混じりに言った。「呪いみたいなもんよな。地味に気持ちを縛ってくる。でもよ、ちょっとした札でもぺっと貼りゃ嘘みたいに動けるようになんじゃねぇの?」腕組みをする。「例えばさ、お前らばら組だけど、バラを愛するのは何もバラの花がきれいだからってだけじゃねぇだろ? 甘露寺だって同じだろうよ」
 皆黙った。しのぶが義勇の腕に包帯を巻いている衣擦れの音だけが部屋の中に漂っている。
「まぁなァ」沈黙を振り払うように実弥が口を開いた。「トラウマってなァよォ、そう単純に割り切れるもんでもねェやなァ」
「夢に見るだけで別にトラウマではない」小芭内は言った。
「何度も見るなら十分トラウマですよね、冨岡さん」しのぶが小声で言う。義勇は驚いて目を丸くするが、何も言わずにいた。胡蝶は伊黒の悪夢を知っているのだろうか、本人か誰かから聞いたのだろうか。義勇は不思議に思った。しかし話の端だけ聞いて残りを予測する能力が皆無に近い義勇には、「とにかく胡蝶はお見通し」としか分からなくてもそれで納得がいくようだった。
「伊黒君は、同じ夢を見るのか? 毎日見るのか? 同じ夢を」唐突に縁壱が尋ねた。からかう感じではなく、単にどういう状況なのか訊きたいという風だ。
「いや、毎日じゃない。同じような夢だがな。時々だ」小芭内はぼそぼそ答えた。
「縁壱さんも悪夢に悩んでらっしゃるのかしら」医療の道具が入ったリュックの口を閉めながら、しのぶが訊く。縁壱はかぶりを振った。
「兄上君か?」と天元。前世で縁壱の双子の兄であった巌勝は今世ではまだ中学二年生だが、縁壱が常に「兄上」と呼び弟スタンスを崩さないので親しくなった妖精たちは皆「兄上君」と呼んでいる。
「幸い兄上ではなく、兄上のご友人の話なのだ」縁壱は、巌勝から聞いた話を皆に語った。
 巌勝の「友人」である魘夢民尾が、毎日同じ夢を見るために、気が狂いそうだと巌勝に相談してきたという。
「なんだ、あの機関車魘夢、中学生なのか、人間か」天元が言った。前世の記憶もまだ無いらしいと聞くと
「ただの中学生じゃん」とちゃぶ台の上の富くじの束を手にした。義勇が「ああっ」という顔になったので、しのぶが天元の手から束を取って義勇に渡してやる。彼は髪を束ねていたゴムを外して富くじの束に巻き、自分の寝床の方へぽんと放った。髪がばらける事より富くじが大事なようだ。しのぶは義勇の髪を見て、リュックのポケットに入れていたゴムを一つ出して束ねてやった。ゴムには小さなプラスティックの蝶がついている。見ていた実弥は思わずクククと笑った。冨岡には姉が二人いるらしい。
「魘夢が悪夢を見るとかもうジョークだな」と天元が言った。
「その夢だが、体を鍛えたくなるような内容らしい」縁壱は首を傾げながら言う。
「どんな夢だァ」実弥は目を細めて訝った。
「様々あるようだが、私が覚えているのは、えーと……あー……」縁壱は眉根を寄せてしばらく記憶を探る。「女が出てきて、体を鍛えて『バッキバキの肉体美』をえすえぬえすに載せれば『メッチャフォロワー増える』などと言ってくるらしいのだ」と説明した。
 縁壱の口から「バッキバキの肉体美」だの「メッチャ」だのが飛び出すとは思わず、皆一瞬ぽかんとした後、吹き出した。縁壱もつられて笑ったが、すぐ真顔になって「笑い事ではないぞ」と言った。「そのせいで、魘夢君は体を鍛えようと決意し、一人で続ける自信がないので兄上を執拗に誘うようになったのだ」
「鍛えんのはいい事ではあるけどな」と天元。
「私も始めはそう思ったのだが、兄上が気味悪がられてな。更に何かの企てやも知れぬと、鬼舞辻無惨が私の命を狙っているのではないのかと心配されているのだ」
「今の無惨はそんな手間のかかる事をする感じでもないがな」小芭内が腕組みをしながら目を細めた。
「でもこの間はオニヤンマに毒を盛って鬼舞辻ヤンマに仕立てて、冨岡さんのパンツを脱がせたじゃありませんか」しのぶが身を乗り出した。
「勘違いがすぎるぞ胡蝶」義勇が少し顔を赤くして言うと、縁壱が「かたじけない冨岡君、パンツを脱がせたのは私の兄上だ」と頭を下げた。
「俺はパンツを脱がされてない」
「冨岡がパンイチかフルチンかフリチンかとかどォでもいいわ」実弥が吐き捨てた。義勇は目を見開いて実弥を見る。
「とにかく、兄上が魘夢君をはぐらかし続けていると、彼は毎日同じような夢を見る事に疲れてのいろーぜ気味になってきているらしく、兄上も放っておけなくなってきたとおっしゃるのだ」
「それ完全に、なんやかやしている内に友達になってもうてん、ってパターンじゃね?」天元が微笑みながら言う。
「それにしてもですよ、毎日体を鍛えろと夢で言われるのもおかしな話ですね」しのぶが眉根を寄せた。その横で義勇が彼女の袖を軽く引っ張り、
「胡蝶、俺はパンツははいていただろう?」と小声で確認してくる。
「はいはい、ちゃんとはいていらっしゃいました、大丈夫です、さっきのは冗談ですよ冨岡さん」しのぶの言葉に義勇はようやく胸をなでおろした。縁壱がなぜか義勇の頭をぽんぽんと撫でるように叩いてから、
「私は兄上の学校へ行ってみようと思う。魘夢君の様子を実際この目で見て確かめて、必要なら話をしてみようかと」と言った。天元は「ふむーむ」と腕組みをする。
「縁壱さんの事だから大丈夫とは思うけど、手に負えないような事があったら、必ず俺たちに言ってくれよ」
「相分かった、ありがたい言葉だ。何かあればその時はよろしく頼む」縁壱は律儀に頭を下げた。
 そんな縁壱を見ていた小芭内が、ついと視線を移動させるとしのぶが目に入る。忙しい身のくせに、冨岡の隣には妙に長居するじゃないか。小さくため息をつく。相手に伝わってなそうではあるが、自分の気持ちに素直になれるのはいい事だと小芭内は思う。
 素直に……。
 二度目のため息は少し長くなった。

 

 放課後の中学校、昇降口横の花壇の縁に腰をかけ、北川巌勝こと継国巌勝は運動場を眺めていた。サッカー部や野球部など、運動部の部員たちが練習をしている。野球部の掛け声がサイレンのこだまのように飛び交う。
 運動部に入るのはまた違うんだよなぁ。巌勝はカバンを抱きしめるようにみぞおちの辺りに押し付けた。
 魘夢民尾に「体を鍛えよう!」と誘われ続け、巌勝は根負けしそうになっていた。「夢で女がそう言うから」などという訳の分からぬ理由で誘われても困ると適当に聞き流し、話を逸らしてきたのだが、民尾の様子を見ているとどうにも邪気がないように思え、スルーし続ける事に多少罪悪感を感じたりもする。
 民尾は学校で朝から放課後まで授業中以外はずっと付きまとってくるのだが、それでさして害を被る訳でもないし、巌勝には元々友達と呼べる者もいなかったので、それなりに学校生活が楽しくなっていた。
 体を鍛える……か。呼吸とか使えるようになっちゃったら、俺どうなるんだろう。もしかすると、縁壱に勝てたりするんだろうか。
 いやいやと、巌勝はひとりでかぶりを振った。あの様子じゃ、あいつはもう呼吸使えてる。呼吸するように呼吸使ってる。巌勝は先日誤解から縁壱にハエ叩きでめった打ちにされた出来事を思い出していた。
「ごめんごめん~! 待たせちゃったね、みっくん!」民尾が昇降口から飛び出してきた。巌勝はさっと立ち上がる。
「『みっくん』はやめろつっただろ、誰なんだよ『みっくん』て!」
「え、みっくんはみっくんじゃん。苗字を呼ぶなって言ったのはみっくんじゃぁん」意味もなくうっとりした顔になる民尾。歩き出した巌勝に足速に追いつき、並んで歩く。
「何だったの呼び出し。やっぱ告られたの?」巌勝が尋ねた。民尾は首を横に振る。
「普通そう思うよね」
 民尾は放課後になってすぐ、同じ学年の女子に呼び出された。そのため巌勝は花壇で待っていたのだが、てっきり告白されるのだと思い込んでいた。
「じゃあ何だったの?」
「怒られた。ブチ怒られたぁ!」民尾は口を尖らせる。
「え、何で女子に怒られんの魘夢が。パンツでも撮ったの?」妖精の宇髄天元ならこんな風に言うかなと思って巌勝はパンツネタを披露する。
「パンツって! やだなみっくん!」民尾はケラケラと笑う。「俺そんな汚いものは撮らないよぉ」
 女のパンツ汚いのか……てか興味なしか……。巌勝は驚いた。
「なんかさ、あいつみっくんの事めっちゃ好きみたい」
「ゲッ」巌勝は顔をしかめる。
「そんでさ、俺がみっくんと仲良くしてるのが気に入らないんだって」
「なんだそれ。なんで俺の友達あいつが決めんの?」
「でしょお? 俺もそう言ってやった。でも、めっちゃケツ蹴られたんだよぉ」
「いやでもなんで? マジで」巌勝の言葉に民尾はまた口を尖らせた。
「なんかさぁ、あいつ、俺の事『ホモ野郎』とか言ってさ、俺がみっくんの事そーゆー意味で手に入れようとしてるとかそういう風に絡んできてさ、絶交しろとか言うんだぁ」
「それはダメだ!」巌勝は強く言い切る。「そんなおかしな理屈、それって所謂『イチャモン』てやつじゃん! 俺、そういうの嫌い。絶対負けるな魘夢」
「俺は負ける気ないけどぉ……みっくんが嫌じゃないかと思う事はある」民尾の声のトーンが少し落ちる。寂しそうだ。
「なんで俺が嫌なんだ」
「だってホモとか言われてるんだよぉ? 仲良くし続けるとみっくんもホモにされるよぉ」
「バカか魘夢。事実じゃないならどうでもいい。パンツの汚い女の事なんか相手にするな」
 民尾は立ち止まった。巌勝が振り向くと、民尾は目を丸くして巌勝の顔を見ている。
「なんだ」
「みっくん、カッコいい~。俺ゲイじゃないけど、カッコいいものはカッコいい~」
「アホか。それより魘夢」巌勝はまた歩き出す。田んぼの向こうにもう巌勝の家が見えてきている。
「あの女の兄貴知ってるか?」
「知ってるよぉ、三年の奴だろ。やたらデカくて威張ってる」
「難癖付けてくるかもしれないから、気をつけろ」
「分かった。でもみっくん心配性だよ」
 それは縁壱にも言われたけど……心配なものは心配なんだから仕方ない。杞憂に終わればそれはそれでいいのだから。

 

 巌勝の心配は杞憂で終わらなかった。
 二日後の放課後、巌勝と魘夢民尾は「パンツの汚い女」の兄に呼び出され、体育館とクラブハウスの間の通路にいた。その日は全部活動が休みの日で体育館は閉まっており、通路には人気が無い。女の兄とその仲間二人、そして巌勝と民尾だけが卓球部の部室前に立っていた。
「魘夢、お前一人で来い言うたやろ」兄がしゃがれた声で言った。
「そ、そうかもしれないけどそれでホントに一人で来る人っているかなぁ」民尾の声は震えている。しかし言っている事は大したものだと巌勝は思った。
「魘夢が一人で来ようとしたとて、俺が許さなかっただろう」思わず「兄上」口調になりながら巌勝ははっきりとパンツ女の兄に向かって言った。しかし、内心では巌勝も怯えていた。なにせ相手は三年生で、その中でも体が大きく、普段から素行の悪い生徒として知られている。他校の生徒ともけんかするような奴らなのだ。
「お前が北川巌勝か」
「いかにも」「兄上」口調をなんとかしたくともなぜかそうなって、巌勝の声は少し上ずってしまう。
「俺はお前もろともいてもうたってもかめへんねんけどな、妹から金もろたさけ、お前に用はないねん」パンツ女の兄は巌勝の胸をどんと突いた。あっと小さく声を上げ、巌勝は尻餅をつく。
「みっ……とと友達に何するんだ!」驚いた事に民尾はパンツ女の兄の股間に蹴りを入れようとした。蹴りは股間を外れ、腿に入る。尻餅をついたまま、巌勝はあんぐり口を開けた。民尾が女の兄の仲間たちに捕まり、腹に膝蹴りをくらっている。
「やめろよ!」巌勝は立ち上がって民尾を抱えて引き離そうとしたが、横からパンツ女の兄に蹴られて倒れ、卓球部の部室のドアでしこたま側頭部を打った。
「お前がやんねやったらこっちもやったるで!」女の兄が巌勝に叫ぶ。首を捻ってゴキゴキと不気味な音を立てながらドアの前に座り込んでいる巌勝の方へ進んできた。
 畜生……こんな事なら少しは鍛えておくんだった! パンツ女の兄から目を離せない巌勝だが、耳には民尾が殴られている音が入ってくる。怖かった。そして民尾を助けられない事がつらかった。
「なんや、イカしてんのは顔だけか!」女の兄はゲラゲラ笑い、巌勝の腹を蹴り飛ばした。巌勝は体を丸めて咳き込む。涙で視界がぼやけた。
 このままではヤバい、殺されると巌勝が思った時、瓜が床に打ち付けられるような音がした。目を上げると、パンツ女の兄が横ざまに倒れるのが見える。コントで気絶する演技をするお笑い芸人のような倒れ方だった。巌勝の目の前に軟式野球のボールが転がってきた。血と毛がついている。民尾を殴っていた奴ら二人も、いきなり倒れた仲間に驚き、手を止めて彼を見ている。民尾はその足元に転がって呻いているが、巌勝はボールから目を離せないでいた。この血と毛はパンツ女の兄のものだろう。
「申し訳ございません、兄上」
 声に顔を上げると、巌勝の目の前で妖精がホバリングしている。中学校へ偵察に来ていた継国縁壱だった。
「私がもう少し早く到着していればかような怪我はなさらずに済んだものを」縁壱は小さな手で巌勝の頬にぴたぴたと触れた。
「よ、縁壱……!」前世の巌勝であればここは怨毒のしどころであったろうが、今の彼はそれどころではない。巌勝の目からぼろぼろ涙がこぼれた。縁壱は羽織を脱いで巌勝の涙を拭いた。
「かような時に泣くものではありません。さあ、あれを持って」縁壱は野球部の部室の入口に立てかけてある金属バットを指さした。「私が奴らの隙を作りますので兄上は思い切り殴るだけでイケます」
「よ、縁壱、『イケる』ってなんだ」
 パンツ女の兄は完全に失神していたが、仲間の二人は巌勝の方を見ている。一番強いはずの仲間を一撃で倒したっぽいこいつ……と思っているようだ。少し顔が青ざめていた。民尾はもぞもぞと、巌勝の方へ這って近づいてきている。
 巌勝は立ち上がり、野球部の部室まで二歩歩いて金属バットを手にした。パンツ女の仲間たちは後ずさる。しばし膠着状態になった後、ボギャッという音と共に軟式ボールが仲間の一人の膝に命中した。嫌な音だった。渡り廊下に叫び声が響き渡る。巌勝は適当にフラフラと金属バットを振った。それを見た二人は何か喚き、人の字のように支え合いながらよろよろ去って行った。パンツ女の兄はまだ目覚めそうにない。
「帰りましょう、兄上。そして魘夢君」
 民尾は夢を見るような目をして縁壱を見上げていた。
「立てますか?」縁壱が訊くと、「立てますぅ」と潤んだ目を細めて答えた。巌勝は民尾が立つのに手を貸してやった。巌勝の頭や脇腹もかなり痛んだが、民尾はもっと酷く殴られていた。とりあえず、一番近い巌勝の家に行く事にして、三人は学校を出た。
「縁壱お前、あのボール、投げたのか?」民尾を支えて歩きながら巌勝は訊いた。
「いくら縁壱でもあんな大きなもの投げませんよ」縁壱は微笑む。「蹴っただけです」
 巌勝は少しぞっとした。自分の体より大きなボールを蹴った「だけ」であの威力か。足が折れてもおかしくないのに……。
「大丈夫です、あのボスザルは死んではおりません」
「当たり前だ、死んでたまるか。いや、死んでもいいけど別の誰かに殺されろ」
「みっくんに同意」民尾が言った。
 三人は巌勝の家族に見つからぬようそっと家に入り、巌勝の部屋に落ち着いた。家族と言っても夜までは巌勝の祖父一人しかいない。
 巌勝は家の救急箱を持ってきて、民尾の手当を始めた。
「この間は冨岡君の手当をして下さいましたね、兄上」
「して下さったっていうか、下さろうとしてお前たちに叩きのめされたんだけどな」
 それから巌勝ははっとした。民尾は縁壱を見て、驚いていない。
「魘夢、お前……妖精見た事あるの?」
「うん、小学校低学年の頃、一緒にヒマワリとか育てたの。俺、なんかボッチでさぁ、よく花壇とかで遊んでて、そしたら妖精に会って。花とか、守ってるんだって!」
 俺よりずっと前に妖精に出会っていたのか……。巌勝は感心した。
「魘夢君が出会ったのは悲鳴嶼さんやもしれませんね」縁壱は微笑んだ。
「俺、その頃親が離婚してさぁ、ママは働いてばかりで、家でもボッチだったけど、妖精のおかげで寂しくなかったんだぁ。今思うとその人は花だけじゃなくて俺の事も守ってくれたんだね。中一の時ママもいなくなったけど、今も寂しくないよ。色んな事妖精に教えてもらったからねぇ。親戚の家でもボッチだし、その家には妖精がいないけど」民尾はいつものうっとり顔で過去を懐かしむように語ったが、巌勝は胸が詰まるような思いをしていた。まさか魘夢民尾がそんなつらい過去を持っていたなんて。成り行きではあったが、友達になってよかったと思った。そんな寂しい奴、放ってはおけない。例えちょっとヘンな奴だとしても。
「魘夢、妖精はその人や縁壱以外にもたくさんいて、俺は結構友達になってもらったよ」巌勝は言った。民尾はすごいすごいと感心して手を叩いた。そして
「縁壱さんはなぜみっくんの事を『兄上』って呼ぶの?」と縁壱に尋ねた。巌勝はぎょっとする。縁壱はなに食わぬ顔で
「『兄上』というのは所謂にっくねぇむというやつです」と答えた。民尾はなるほどと納得していたが、巌勝は目をむいた。どんなニックネームなんだよ……。しかし、妖精たちの間では自分のニックネームが「兄上君」である事を思い出し、まぁそれでいいのかと、結局彼も納得してしまった。
「ところで魘夢君、君は夢に殺されそうになっていると兄上から聞いたのだが」
「あっ、知ってるのぉ、みっくんもちゃんと聞いてくれてたんだ俺の話。おかしな話だって聞き流されてると思ってたぁ」
「そんな訳ないだろ」巌勝は半分だけ嘘をついた。
「『夢に殺されそうになる』かぁ! なんて素敵な表現なんだろう」
 うっとりする民尾に、縁壱は小首を傾げる。巌勝は縁壱の方へ口を寄せ、
「縁壱、不思議はない、こいつはこれで平常運転だ」と囁いた。縁壱は頷く。
「かれこれ一週間以上見てると思う、同じような夢。全く同じでもないんだけど、パターンが一緒なの。とりあえず、体を鍛えたらいい事があるみたいなね? 本当かな?」民尾は巌勝に貼ってもらった腕の大判の絆創膏を、掌でそっと押さえる。少し痛かったようで、顔をしかめた。
「体を鍛えるのは良い事です。良き事ゆえ、続けていると幸運が訪れる事もあるやもしれません」縁壱は言った。「しかし魘夢君、夢で体を鍛えろと言われ続けるのは明らかに異常だと私は思います」
 民尾は
「そうだよねぇ……現に俺、気が狂いそうになってるんだもの。もう、寝るのが怖いんだ」少し悲しそうな表情になる。
「魘夢、俺、体を鍛えようと思ってるよ、今」唐突に巌勝が言った。民尾はぱっと顔を上げる。縁壱も巌勝の顔を見た。「だってさ、俺、パンツ女の兄貴たちを倒したことになってるかもしれないもん」
「なってますね」と縁壱。
「だったら、本当に強くなっておかないと後々困りそうだし、何より俺の気が済まない」
「さすが兄上」
「さすがみっくん」民尾は手を叩いた。
「夢のお告げ通りになさるのでなければ、縁壱も大賛成です」縁壱は微笑む。「それに、体を鍛え出したならば、魘夢君の悪夢も終わるやもしれませぬ」
「本当だったらいいなぁ」民尾は両掌で自分の頬を挟んだ。縁壱は腕組みをして、思案している。
 夢が終わったとしても、その夢が何であったのか、本当にただの夢なのか、それとも何者かの企みからくるものなのか、それははっきりさせねばならない。またばらトリオと宇髄君に相談せねばなるまい。縁壱は、民尾とトレーニングの計画を立てている巌勝の頭頂に立ち、ひとり頷いた。

きらっきらのさなぎ

「モデル? って、何だ?」
 義勇はぼよーんとした表情の無い顔を客に向けた。朝ご飯を食べた後の事で、薬を飲み、ひと眠りしようとしていた所だ。巌勝と民尾が体を鍛える決意をした日から二日後の事である。
 客は本部からやって来た、産屋敷組の植物ガーディアンズ会誌『があでぃあんず』の編集部員素山夫妻であった。小芭内が自分のロフトベッドから、実弥がロフトベッドの下のデスクにもたれて、どちらも心配そうに見ている。
「『があでぃあんず』の別冊、『ガーディアンズ』がとても好評だったので、暮らしの情報誌として毎月発行する事にしたのですけど――」編集長である素山夫人、恋雪が説明する。「写真を多く入れるために専属モデルを募りまして……あの、冨岡さん、応募されましたよね?」
 義勇は黙っている。実弥は眉根を寄せ、小芭内は鏑丸と共にほぼ半身乗り出して義勇の顔を見る。
 モデルに応募だと? こいつ、自分の顔のよさにいつ気付いたんだ? てか、モデルってのがどういう仕事か分かって応募したのか?
「答えろ、義勇」一心にカメラバッグをいじっていた恋雪の夫狛治が手を止めて上目遣いに義勇を睨んだ。なぜか下の名前で呼んでくる。
「答える義理はない」義勇の答えに狛治、小芭内、実弥が同時に目をむいた。恋雪は面食らっている。
「でも、応募されたので、その、他の応募者さんたちの履歴書も……へ、編集部で話し合いを重ねて――」しどろもどろになる恋雪の手を、狛治がぎゅっと握っている。頑張れ、恋雪さん!「それで、皆の意見として、あの、一致をみまして、冨岡さんにモデルになって頂こうと――」
「俺は応募していない」
 出たー! 実弥と小芭内は天井を見上げた。
「義勇! お前いい加減な事を言うな! こっちには証拠があるんだぞ」
「怒鳴るなよ猗窩座――」
「その名はやめろ!」小芭内の言葉を遮って、猗窩……否、素山狛治は吠えた。素山夫妻は今世では産屋敷組で穏やかに暮らしている。
「おいおいおいィ、ボケが始まったか冨岡ァ」実弥がちゃぶ台の所まで進み出て、義勇の座椅子の隣にどっかと腰を下ろした。小芭内もロフトベッドから飛び降りて着席する。
「俺はボケてない」
「本気で言ってねえわボケェ」実弥は義勇の頭を軽くはたく。
「恋雪さん、その履歴書ってのを見せてもらえんかね」小芭内が言った。恋雪は書類カバンを開けてマニラフォルダを取り出し、その中の履歴書から一枚取って小芭内に渡した。実弥も横から覗き込む。二人ともしばらく無言になっていた。
「これは……蔦子さんの字だねぇ」目を閉じて小芭内が言った。
「言っただろう、俺は応募していないと」
「でも蔦子さんが応募して、それが通ってんだろがァ」と実弥。
「あのぉ、私どもとしましては、本当に、あの、適任だと満場一致でしたので、できれば……」恋雪は義勇に向かって手を合わせた。仕方なく狛治も手を合わせる。
「やらねば殺す」
「狛治さん、それはダメよ」
「ここで夫婦漫才すんなァ」
「どうするんだ冨岡、お前の姉だろう、姉のやった事の責任を取るのも弟の務めじゃないのかね」適当な事を言って、小芭内は義勇に強い視線を投げる。恋雪を見ているとなんとなく気の毒になってきてしまったのだ。
「嫌だ。もれるなんか絶対に嫌だ」
「噛みながら断るな!」と狛治。
「モデルなんか絶対に嫌だ」義勇は律義に言い直した。恋雪はがっくりと肩を落とす。
「どの履歴書よりも輝いているのに……」
「まぁ、物理的にもそんな感じはするね」小芭内は、冨岡蔦子が作成した履歴書を裏返して見て言った。履歴書はきれいな字で手書きされ、玉虫色の台紙に貼られている。
「写真も二十一枚入っていました」恋雪がフォルダから写真の入った封筒を出した。生まれた頃からの義勇の写真が入っている。
「姉さん!?」義勇は思わず叫んでいた。顔が真っ赤になっている。さすがの冨岡も恥ずかしそうだな……実弥と小芭内は義勇の事も少し気の毒になった。
「まぁまぁ、興奮するなァ、傷に障る」立ち上がりかけていた義勇の服の背中をつかんで、実弥が彼を座らせた。
「どっちも気の毒……かもしれない」小芭内は腕組みをした。
「『かも』じゃないだろ」と狛治。
「あの、どういう条件ならしていただけますか? 可能な限りのみます。こちらは本当に、あの輝く二十一枚が忘れられず――」
「今すぐ忘れろ!」
「落ち着けェ冨岡ァ」実弥が義勇の背中をさすった。
「条件だ」小芭内が言う。「どうすればお前は『もれるをやってやってもいいぞ』と相成るのか。落ち着いて考えろ。なるべくやってやれ、狛治はどうでもいいが恋雪さんがかわいそうだろう。それに御館様の命もあるはずだろうし」
 小芭内の言葉に、素山夫妻は二度頷いた。義勇は目を閉じ、ぎゅっと眉根を寄せる。一応、条件を考えるようだ。
「撮影のたんびに鮭大根かァ?」実弥が囁く。義勇はかぶりを振る。鮭大根はモデルをやらなくても食べようと思えば毎日食べられる。
「こんにちは。珍しいお客様が来られてますね」
 戸口の声に皆がそちらを見ると、荷物を持った縁壱が立っていた。
「分かった」唐突に義勇が言い、今度は皆彼を見た。縁壱は何の話かと、荷物を部屋の隅に置いてからちゃぶ台の方へやってくる。ちゃぶ台は満員なので、実弥の後ろ辺りに腰を下ろす。
「条件、ですね?」恋雪が目を輝かせる。狛治は不安そうだ。
「縁壱さんを見て思い付いた。あれは五年前の事だが……」
「はい、今にワープ」実弥が義勇の背中をどんと叩いた。
「俺一人ではもれるはやらない」義勇は言った。実弥は縁壱に事の顛末を手短に教える。縁壱は驚いて目を丸くしている。義勇は続ける。「ばら組四人なら、やってもいい」
 おっ……えぇぇえええええええ!? 小芭内はその場に倒れ込んだ。
「ばら組四人だァ? 縁壱さんも入ってるぞ!」実弥が振り返って縁壱を見た。反対してくれと懇願するような目になっている。しかし縁壱は
「私は別に構わない」とあっさり言った。
「ちょっと待て! 安請け合い縁壱禁止!」小芭内が飛び起きる。そもそもの始まりである義勇が星的のような目で小芭内を見た。
「伊黒、すごいバネだな」義勇が言うと、即座に実弥の手が飛んで彼の頭をはたいた。
「俺たちに『夫婦漫才』などと言っておいて、お前らはコントじゃないか」狛治が半眼になってばら組の面々を見る。そんな夫のテンションとは裏腹に
「すごいアイディアです冨岡さん!」と、恋雪が半ば叫ぶように言った。皆驚いて恋雪を見る。彼女の目は輝いていた。「グループ、しかも四人! 四人は基本です! いい、いいです!」恋雪は胸の前で両手を組み、頬を紅潮させている。
「だ、ダメだ、俺は無理だ、俺はやらない」小芭内が言った。
「俺だってイヤだァ。そもそも冨岡の話なのに巻き込まれてよォ」実弥は恋雪の顔をちらっと見る。彼女は期待と不安が混じり合い、不安が大きくなりつつある瞬間の顔をしていた。実弥は断るべきか受けるべきか決めかね、奥歯を噛みしめる。
「情に絆されるな不死川。人助けならお前一人でやれ。俺を巻き込むな」
 小芭内の言葉に「小芭内、お前そんな薄情な奴だったのか!」と、狛治が唸るように言った。
 その時、
「おいおいおーい、冨岡!」と歌うように言いながら宇髄天元が部屋に入ってきた。手にスマートフォンを持っている。「おや? 素山夫妻じゃありませぬか! どうされましたか?」
「お前がどうされたのだ天元」と狛治。
「あ、おぅ、そうだ冨岡」天元は座椅子の義勇とその横に座る実弥の間に大きな体をねじ込んで座り、スマートフォンを義勇の目の前に持ってきてそこに表示された画像を見せた。「これ、お前が買った富くじと同じモンじゃねぇの?」
「そうだが」
「うひぇー! やっぱり! なんと! やっぱり!」義勇は怪訝な顔つきになって天元を見る。「初夏のサマー富くじ」天元が画像の富くじに記された文字を読み上げる。「確かにこれか」
 義勇はのそのそと寝床へ行き、枕の下からゴムで束ねた富くじを出して確認した。
「確かにそうだ。『初夏のサマー富くじ』」
「ちょっとだけ日本語変ですね」と恋雪。「あっ、ケチを付けるつもりじゃないです」慌てて手を振る。
「いや、付けていいんだよ、ケチ。大いにケチが付いてんだ」言って、天元は振り向いて義勇を見た。
「それ――」義勇が手にする富くじを指す。「紙くずらしいよ」
 天元の言葉に、義勇の目は再び星的のようになった。
「おい、説明しろィ、どういう事だ」実弥が義勇の横まで這って行く。目玉がこぼれ落ちそうになっている義勇の膝をぽんぽんと叩き「大丈夫だ冨岡ァ、宇髄が担ごうとしてやがんだァ」と囁く。義勇は実弥と知り合って約十年、彼の緩急の付きすぎる態度に未だに慣れる事ができずにいる。特に大けがをして以降「緩」モードが増えた事を、「少し気味が悪い」と小芭内にこぼしている。しかし、今戸惑っているのはそれにではなかった。
 この富くじが紙くず?
「いやいやいや」と天元が少し身を乗り出す。「小学校の弁当屋で小耳にはさんだもんで、本部のイートインでも聞いて回ったんだけどさ、くじの販売員に騙されてこの偽富くじを買わされた奴が産屋敷組に結構いるらしいんだ」
「偽? 富くじが偽物なのか」と小芭内。天元は大仰に頷いてみせる。
「富くじも偽物なら販売員も偽物らしい。見た事もない妖精がフードコートなんかに入り込んでガーディアンたちに偽富くじを売りさばいてたんだとよ」
 ちゃぶ台の前に座る小芭内と恋雪の間から手を伸ばし、恋雪のマニラフォルダの上に義勇の履歴書と重ねて置いてあった『ガーディアンズ』専属モデル募集のチラシを手に取って読んでいた縁壱が顔を上げて、
「冨岡君もその販売員とやらに誘われて購入したのかな?」と訊いた。義勇は頷く。富くじの束を持つ手が震えている上、泣きそうな顔になっている。「緩」モードの実弥が義勇の背中をさすっている。
「冨岡、お前、一体いくらつぎ込んだんだ」聞きたくないと思いつつ小芭内は尋ねた。義勇は黙っている。
「いくらだ、冨岡ァ。誰も怒りゃしねェよ」実弥が囁くが、部屋にいる誰もが一番怒りそうなのは実弥だがと思っていた。「うん? いくら分買ったァ」
 宙を見つめていた義勇が実弥の方を向き、彼の目を見る。
「二十万円」
 縁壱以外の全員が息をのんだ。縁壱は口を半開きにして「ほう」と言っただけだったが、彼としてはかなり驚いている。
「にじゅうまん……えん……」恋雪がうわ言のようにつぶやいた。
「富くじに二十万って……お前アホか!!」実弥の「緩」モードは終わりを告げた。
「俺はアホじゃ――」
「アホだろう。正真正銘のアホだろう」小芭内が言い放った。この話を持ってきたものの、義勇の身に起こった事の悲惨さに天元は思わず膝を抱き、体育座りになっている。「なぜ二十万も買うのだ。リッチメンならまだしもお前のようなただのガーディアンが富くじごときに二十万円も使うなど、笑止千万とはこういう事を言うのだぞ」
 小芭内の叱責に、義勇は富くじの束を布団の上に落として「ちょろっと買っただけじゃ、そんなもの当たる訳がないと言ったんだ!」と、両の手を拳にして訴えた。
「『言った』って誰が?」狛治がカメラバッグのフラップを開けたり閉めたりしながら尋ねる。答えは分かり切っている。
「販売員が」
「だろうな」微かにばら組リーダーとしての責任を感じながら小芭内は腕組みをし、目を閉じる。「そもそも富くじの販売員がフードコートやカフェテリアをうろついてくじを売りさばいてるって事を奇妙だと思わないのかお前は」義勇はめまいがしてきた。そう言われれば、販売員が現れたのは今回が初めてで、今まで富くじは本部フードコートや売店のレジで売っていた。誰も勧誘してこないし、ましてや大量に買えなどと言ってくる店員はいなかった。「しかも二十万だと? アホかとしかもう言葉が出てこん、このアホ!」小芭内は目をかっと見開いて義勇を見て叫んだ。
「まーまーまァ、伊黒、落ち着け、冨岡もめちゃめちゃショックだろォしなァ」なんで俺がなだめ役なんだろうと思いながら実弥が小芭内の怒りからかばうように義勇の前に身を乗り出して言った。
「俺なんかかばわなくてもいい、不死川」義勇がけがの無い方の腕で実弥を押しのけた。実弥はぎょっとして義勇を見る。
 俺なんか、とは。
「俺がバカであるという事は日頃から重々承知している」えっ、自覚あるのか。実弥は驚く。自覚あってアレか。「だから富くじを当てて、いつも迷惑をかけている皆を温泉旅行にでも連れていければよいと思ったんだ」
 皆、黙った。感動より「それで二十万……」という思いが先に立つ。
「絶対に当てて皆に感謝を伝えるのだと、そう言ったら、あいつは二十万分買えと、中には五十万、百万買う人もいるのだと言ってきたんだ。五十はヤバいと思ったから二十万にしたんだ」いつになくたくさんの言葉を吐いた義勇は、肩で息をしている。
「あのな、冨岡ァ、二十万ありゃァ普通に温泉行けるぜ? 例えばばら組四人でだって、プラス宇髄でも五人だろ? 何も高級旅館に泊まるとかじゃねんだろォがよォ」実弥の言葉に、義勇ははっとなった。
「だけど、まさか俺たちに何か返そうって事で二十万とはな」天元がぼそっと言う。義勇は目を見開いて宙を見ている。二十万円をドブに捨ててしまった事を、彼は今実感していた。
 と、その時縁壱がすっと立った。
「私たちはなにも、やらねばならぬとわざわざ肝に銘じて冨岡君の世話を焼いているのではない。自然にしてしまっているだけだ。二十万円分の感謝をされるほどの事ではないのだ、冨岡君」縁壱の言葉に小芭内、実弥、天元は揃って頷いた。小芭内は少々怒りすぎてしまった事を反省し始めている。義勇はぼんやりした顔になり、縁壱を見た。「しかし、販売員は冨岡君の誠意を利用し、更に君がドジっ子である事を知りながら恐らく他の人々に勧めるよりもたくさん勧めたのであろう」そこで言葉を切った縁壱の、いつもどこか呑気そうな雰囲気を漂わせている顔がきゅっと引き締まった。
「私は許さない。その販売員を絶対に、許さない」
 縁壱さんが怒った。皆、義勇の二十万円よりそちらの方に心を震わされた。
「俺も同感だァ。いくらアホに出会ったからってソッコーそのアホさを利用して身ぐるみはがそうなんて、許せねェ」実弥はちゃぶ台を掌でバンと叩いた。珍しく狛治が頷いて同意している。
「しかし、彼奴を捕らえたとてその二十万円が戻ってくる保証はないと私は思う。だから私は――」言いながら縁壱は手に持っていたモデル募集チラシを胸の高さに上げ、皆に見せた。「冨岡君と一緒にもでるをやろうと思う。ここに毎月手当が出ると書いてある。それで補填してやりたい」
「ダメだ縁壱さん! 俺が勝手に騙されただけなのに!」義勇が叫ぶ。小芭内は、恋雪の顔がわずかに明るくなった事に気付いた。
 待て、なんだこの成り行き。
「いや、やらせてほしい。君がそれを気に病むなら補填するというのはやめてもいい。君がこの仕事を得て手当をもらえたらそれでも助かるだろう。でも、君はひとりではできないと言っているそうではないか」縁壱さんこいつは「できない」じゃなくて「やらない」と言っていたぞ! 小芭内は心の中で叫んだ。しかし縁壱は「皆、協力してやろう」と結んだ。
「あの、縁壱さん、本当は自分がモデルやりたいんじゃね?」天元が訊いた。縁壱は少し黙って考え、それから頷いた。
「私はやりたい。例えそれがどんな仕事なのか知らないとしても」知らないんだ! 恋雪は驚いて縁壱を見た。が、義勇をその気にさせてくれるなら知らなくてもいい。
 義勇が立ち上がり、そろそろと縁壱の方へ歩いて行く。
「縁壱さん」言って縁壱の胸に顔をうずめる。「熱い人だ……もう一生かかってもこの借りを返せない」
「君に貸しなどない」縁壱は義勇の背中をぽんぽんと優しく叩いた。「貸し借りなど、そんな風に考えるのはやめた方がいい。皆で新しい事をするのだ。浮き立つような気持ちにならないか?」ならない。心の中で小芭内は即答していた。しかしこの流れを縁壱が生んだとしたら、これはのまれるより仕方ないのではないかという嫌な予感が心をひたひたと満たしている。しかも隣で実弥が頬を紅潮させて、抱き合う縁壱と義勇を見ながら腰を浮かせている。そのまま彼らの所まで歩いて行き、小芭内の予想通り二人に腕を回してがっちり抱きしめた。
「縁壱さん、俺もだァ、俺も、冨岡一人につらい思いはさせねェ。俺には向いてねェかもしれねェがよォ、やってやらァ、専属もれるってやつをよォ」
「こいつら、派手に面白れぇ」天元が呟き、狛治が「マジでコントだ」と応じた。
「よし! 決まった!」天元がすっくと立ちあがった。それを見上げる小芭内の口内に生唾がこみ上げてくる。「お前ら、やれ」抱き合う三人と小芭内に向けて両手の人差し指を突き付ける。「ばら組、専属モデル決定。祭りの神が決めた。んで、その神がマネージャーをやってやる」神がマネージャー? 狛治は思ったが、自分たちの都合のいい方へ事が転がり始めているので何も言わない事にした。
 なんとなく「色々終わった」雰囲気になり、立っているものも着席し、恋雪が仕事について軽く説明した。そこで縁壱は「専属もでる」なるものがどういう仕事なのか知り、多少戸惑った。しかし武士に二言はないという事で、決意を覆す事はなかった。

 

 一度目はいつものお姫様扱い、二度目は偽物の姫だと世界中の姫たちに追いかけられる。小芭内は二夜連続で悪夢を見た。
 二夜連続は初めてだな……。彼はバラ花壇で風に揺られるバラの葉をぼんやりと見ていた。
 三株のバラは、始めに実弥担当のラ・フランス、次に小芭内担当のレディ・ヒリンドンが開花をはじめ、先の二株の最盛期が終わるころに義勇担当のレディ・エマ・ハミルトンが開花を始めた。フルーツのようなさわやかな香りが漂っている。小芭内は、先に咲いたものの花がらを切った個所に片足を乗せ、半分立って半分飛んでという状態でぼんやりしていた。ラ・フランスの頑丈そうな棘が、腰にひっかけた迷彩柄のヤッケに突き刺さっているが、彼は気づいていない。
 今は義勇が仕事を休んでいるので、シャクヤクが花期を終え少し手の空く宇髄天元がバラ花壇の方を手伝ってくれている。その天元と実弥は、カットされた花がらや傷んだ葉などを入れておく袋が満杯になったため、新しい袋の準備を要請しに母屋へ行っている。ここのところずっとぼんやりしがちである小芭内を残して行ったのは、彼らなりに気を使ったのかもしれない。
 こんな事で迷惑をかけてはいけないと顔を上げると、庭のフェンスを越えて鎹縁壱が飛んできた。
「縁壱さん」と声を掛けて小芭内が上昇すると、布が引き裂かれる音がした。振り向くと、ヤッケの一部がラ・フランスの棘にぶら下がっている。小芭内は舌打ちをした。
「これはいかんな、繕うか? それとも新調を?」縁壱は棘に引っかかったヤッケを外して手に取って見て「ああ、これは新調せねばなるまい」と言った。
「同じので、注文しておくよ」ため息混じりに言って、小芭内は花壇の縁石に降りて座った。縁壱も隣に座る。彼も小さくため息をついたので、小芭内は驚いてそちらを見た。
「珍しい」小芭内が言うと、縁壱ははっと小芭内を見て「うん?」と言った。
「いや、縁壱さんがため息をつくってのが珍しいと思って。悩みとか、あるのかなとか」
「悩みと言う程のものでもない」
「何だ、話せる事なら俺が聞いてやってもいいぞ」目下自分が悩んでいる時に人の悩みを聞きたがるとは、さして深刻な悩みでもないのかと、心の片隅で小芭内は感じたが、それは即座に打ち消した。俺の悩みは小さな悩みなどではない。
「昨日、えすえぬえすを見た」縁壱は庭の玉砂利を眺めている。
 縁壱の言うSNSとは、産屋敷組運営の写真投稿サイトの事であるが、そこに昨夜、『月刊ガーディアンズ』編集部のアカウントから専属モデルが決まったという告知がなされた。もちろん、四人の写真付きである。同時にばら組のアカウントも開設され、こちらはマネージャーを買って出た宇髄天元が運用している。そちらにも四人の写真が投稿されていた。
「あれな……」小芭内は苦々しい思いになる。ばら組の中の自分を写真で見るのはつらいものがあった。これがずっと続くのだ。
 と、小芭内ははっとして縁壱を見た。もしかして縁壱さんも? 縁壱はまだ玉砂利を眺めている。小芭内もつられてそちらを見た。小さな石の間から顔を出した雑草が風にふかれてぽよんぽよんと揺れている。小芭内には道化師のように見えた。
「兄上に見せたところ、私が『浮いている』とおっしゃるのだ」と縁壱が言い、驚いた小芭内はまた縁壱の顔を見る。
「浮いている!?」
「と、兄上がそうおっしゃる。私にはよく分からない。しかし、もし迷惑をかけているなら、私と宇髄君は役割を替わったほうが――」
「ノー! ノォォォオオ!」小芭内は両手を袈裟懸けにばさばさ振りながら叫んだ。縁壱は無表情になって小芭内を見る。この無表情は彼にとっての驚きの表情である。義勇も同じタイプだが、これを入れると彼らの表情のバリエーションは意外と多い。小芭内は座り直して、「あのな」スマートフォンを取り出し、例の写真を表示させる。「これを見てくれ縁壱さん。あんたから見て本当にあんたは浮いてると思うか?」
「私はそうは思わぬ」
 それも問題だ。小芭内は思ったが、この「ちぐはぐ」がこのグループの面白い所なのだと力説していた恋雪の意見には自分の事はさておき同意していたので、縁壱には何も言わずにおく。
「兄上君は、なんていうか、それ、マジレスじゃないんだと思う」
「まじれす……」
「真面目に言ってはいないという事だ。あんまりかわいらしくてからかったのだと俺は思うんだが」
「『かわいらしい』とは……。弟といっても、私は大人だ」少し不満げな顔をする縁壱。
「縁壱さん、あんたホントにかわいいな」小芭内は吹き出した。「恋雪さんが、この四人はミスマッチ感がイカしているし、絶対にウケると言っていた。その戦略に兄上君はいち早く反応したと言えるんじゃないかね」そこまで言ってはっとして、「いや、すまん、『かわいい』などと言ってしまって」小芭内は玉砂利に目を戻した。
 何を口走っているんだ俺は。「かわいい」とか言われて悪夢まで見る男が、縁壱さんみたいな正統派イケメンにそんな事言う権利あるものか。
「やぁやぁやぁ、『かわいい担当』がおそろいで!」天元が戻って来て、「なかなかよろしい絵だな」と、スマートフォンで小芭内たちの写真を撮る。
「何をしている!」小芭内がさっと飛び上がり、天元の所へ突進した。スマートフォンを奪おうとするが、素早くよけられる。
「職務だからね! 派手に! 毎日! スナップを上げる!」
「下らない写真はやめろ!」
「あれ、お前知らねぇの? ちゃんとコメとか見てる? いいねとか!」天元は降下して縁壱の隣に座り「『かわいい』担当めちゃ人気よ?」と言った。
「信じない。お前、いい加減な事言ってるだろう、信じない、信じない」
「宇髄君、私が『浮いている』事はもしかするとそれで正解なのだろうか」縁壱の言葉に天元はにっこり笑って「なんか知らんが大正解。『浮いてる』って? 気にしてんの? いやもしそうでもそれでいいのよ。てか、正解だからもはや『浮いてる』って言えねーし」と言った。
「よかった。兄上にも説明しておこう」縁壱もにっこりと笑う。
 これは単純というよりは素直というべきか……うらやましいな、縁壱さん。小芭内は思った。
 しかし小芭内の悩みはいざ知らずばら組は、容姿端麗であるがどこかふんわりした表情をしている義勇、やんちゃそうな匂いを濃厚に漂わせる実弥、ちっちゃくてかわいいのにいつも不機嫌そうな小芭内、大河ドラマから抜け出てきたような雰囲気ながら、おっとりした空気を醸し出す縁壱というジグザグで凸凹なメンバーが受け、それまで彼らを知っていた者、知らなかった者、どちらの心もわしづかみにしたのだった。
 世の中狂ってる。小芭内はまたため息をついた。
「それはそうと、機関車魘夢の夢について何か分かったか? 縁壱さん」天元が話題を変えた。
「ああ、それなんだが、魘夢君の悪夢はもう止まったらしい」
「やはりなぁ」天元はコクコクと頷く。「真実は夢の中……いや、闇の中か。原因が分からずじまいというのも地味に気持ち悪ぃな。偽くじ販売員の方もまだ手掛かりが少ねぇしなぁ。まだ聞き込みしねぇとな。シャクヤクが終わっててよかったぜ」前世では元忍びであった天元はそういう性であるのか、探偵仕事を自分の責務であると感じているようだ。
「そういえば不死川はどうした」小芭内が訊く。
「ああ、冨岡の見舞いに行ってから戻るってよ」
「見舞いって……同じ部屋に住んでるのに見舞いか」
「なんやかやゆってさ、あいつホント冨岡大好きだな!」
「本人に言ってやれ」
「そうすっとなぜか冨岡が殴られんだよな!」天元はカラカラと笑った。
 その時、小芭内のスマートフォンがメッセージの着信を告げた。見ると、甘露寺蜜璃からのランチの誘いだった。今までとは違い、少し複雑な気持ちになる。蜜璃もあのSNSは見たであろう。その後すぐにはメッセージが来なかった。ショックを受けたのかもしれないと、小芭内は思った。甘露寺は今まで俺の貧相さにあまり気付いていなかったかもしれないが、今回のこの写真で悟ったのだ。
 伊黒さん、思ったより小さかったのね! 小芭内は頭の中で、勝手に蜜璃の声でセリフを再生する。
「伊黒君、どうしました? 血管が収縮しています」と縁壱。
「普通に『顔色が悪い』でいいと思うぜ」天元が言い、「おい、大丈夫か伊黒」小芭内の肩を叩いた。
「あ、うん、いや、大丈夫だ。なんでもない」
 小芭内は短い返事を送信し、スマートフォンをツールベルトのポケットに突っ込んだ。
 やっぱり俺は専属モデルのばら組からは抜けよう。小芭内は唇をきゅっと結び、奥歯を噛み締めた。

 

「という訳で、産屋敷組では少々混乱が起こっております」
 橋の下の巣の中、鬼妖精鬼舞辻無惨の前で鳴女は報告を終えた。鬼舞辻組の中で無惨が信用できる部下は相変わらず鳴女しかおらず、組員を集める仕事は難航している。
「とはいえ、新しい事を始めたりなんだりと、呑気なものです。隙だらけなのではと……」鳴女は言葉を切った。「隙」に食いついてくるかと思った無惨は黙って考え込んでいる。目が少し虚ろだ。
 「産屋敷組の混乱」とは偽富くじ事件の事で、「新しい事」とは例の『月刊ガーディアンズ』の事なのだが、その二つの間に隙が生まれるのではという話は鳴女が適当に無惨の機嫌を損ねないように作ったものだった。産屋敷耀哉には全く隙などなく、全国、そして世界の植物ガーディアン組織とネットワークを構築したりなどし、むしろ組を強大に、強固に育てていっている。
「偽富くじと言ったな」無惨が口を開いた。鳴女は偽富くじについて少し詳しく報告する。「しかし産屋敷の妖精どもなど、女子供の集団みたいなものだ。数は多かろうがせいぜい一人三千円程度だろう」
「はぁ、まぁ、五千円、五万円の者もいるらしいですが、本部界隈だけでも三十人程騙されておりますし、冨岡義勇は二十万騙し取られたようです」鳴女は「冨岡義勇」と口にした時に胸が高鳴ってしまったのを上司に悟られぬよう、「天下の大馬鹿者です」とわざと虚仮にしておいた。
「『大馬鹿者』だと?」
「まさに大馬鹿者です」「馬鹿」と言っても義勇の事だと思えばときめいてしまう。無惨様の前だよ! 鳴女が自分の中の乙女を叱った時、無惨がちゃぶ台をひっくり返した。鳴女は驚き、飛び上がった。
 ちゃぶ台の上にあったレシートの束と畳んで置かれた新聞が吹き飛び、その下にあったと思しきものが紙吹雪のようにヒラヒラと舞った。
「あっ……無惨様……!」
 それは物凄い数の「初夏のサマー富くじ」であった。
 しばしの沈黙。
「む、無惨様……」鳴女は繰り返した。言葉が無かったのだ。そして無惨もまた無言である。震える手で背後の棚の上に置いてあった白いソフト帽を取った。鳴女は、出かけるのかしらと思った。しかし無惨は帽子をまた同じ所へそっと置いた。震えながら息を吸い、
「鳴女、あの販売員を探せ」と言った。
「は、承知しました」
「『承知した』だと? お前、販売員の顔を見たことがあるのか」
 鳴女はどきりとした。とにかくここは無惨の怒りを和らげ、販売員捜索の糸口をつかむ方法は後から考えようと思っていたのだ。
 無惨がにやりと笑う。笑っている場合でないのに笑っている。今世の無惨は「小さい」が、鳴女は背筋に冷たい汗が流れるような気分になる。
「み、見たことはありませんが、その、産屋敷組に、もももぐり込めば必ずや糸口がつかめると思いますので、その予定です」
 鳴女の言葉に、無惨は「うむ」と頷いた。鳴女はほっとする。
「いいか、冨岡のアホの二十万など便所紙だ」鳴女は上司の下品な発言には今は「つっこみ」を入れずにおいた。「俺は百万円だぞ」
 鳴女は息をのむ。冨岡さんよりあんたがアホだろう。口には出さずに言う。
「お前のやりやすいやり方でよい。とにかく一刻も早く販売員を見付けてここへ連れてこい。引きずってでも連れてこい。殺してやる!」
「承知しました」鳴女は少し大きな声で言った。
 「殺してやる」と鬼舞辻無惨は息巻いているが、これまで無惨が妖精でも人間でも、誰かを殺した事は無い。作者、前々作『縁壱さん』では、鬼妖精鬼舞辻無惨はとても危険であるというような書き方をしていたが、なんとなく流され小さくなり、どちらかというと「かわいらしい無惨」に落ち着きつつあるようだ、知らんけど。
 鳴女は鬼舞辻組の巣を後にし、自分の巣に戻るべく天神川の上を飛んでいた。ため息が出る。魘夢民尾を操って巌勝に筋力トレーニングをさせる作戦が終わったと思えばすぐ次の任務である。音楽活動をする暇もない。
 鳴女は公園グラウンドの端にあるプールの更衣室に巣を作っている。無惨の巣からもそう遠くなく、彼女の他に住む妖精はいないので静かに暮らせるため、気に入っている。巣に入ると、琵琶の入ったハードケースを肩に担いでまた直ぐに外へ出た。川べりで琵琶を弾くつもりだ。
 川の傍にあるテニスコート脇の遊歩道。そこに設置されたベンチに降り、少し歩いてから鳴女は座った。ハードケースを下ろす。ストラップのナスカンに紐を通してぶら下げている綿入りの巾着がベンチにぶつかる。オカリナが入っていた。
「これは上手くいったけど」鳴女は独りごちた。
 オカリナは、民尾に思い通りの夢を見させるために使ったものだ。旋律によって見させる夢を決められるが、これは鳴女でないとできない催眠術のようなものである。寝入る前に夢を見させてから本当の眠りへ誘い込む。そのままにしておけば朝普通に目覚められるという塩梅である。
 鳴女はケースから琵琶を取り出す代わりにポケットからスマートフォンを取り出した。彼女は産屋敷組の写真投稿サイトに入り込み、ゲスト用アカウントを作っている。なにも無惨のためでも、自分が何か企んでの事でもない。
 単に義勇の写真を見るためだった。
「あー、今日もかわいいなーぎゆゆ」ため息とともに言葉を吐き出す鳴女。
「けが、早く治るといいね」呟きながらコメントを書き込んでいる。
「こんな事してる場合じゃないんだけどな」
 普通に考えると「こんな事」とはSNSを見てコメントを書き込み、いつか会ったら何を話そう、彼はどう答えるだろうなどと妄想している事なのであろうが、今鳴女の思う「こんな事」とは無惨のために偽富くじの販売員を見付ける任務の事であった。面倒くさい。このひと言に尽きる。
「だいたい何なの百万円って。なんか自慢げだったけど、騙し取られてんだよ百万円。二十万が便所紙だったら百万はなんなのよ、倍巻のトイレットロールじゃないのよ」またもため息をつく鳴女。スマートフォンの中の義勇と目が合い、ため息ばかりついている事を少し反省した。
「あっ」鳴女は小さく声を上げた。これって、チャンスじゃない? スマートフォンを両手で握りしめる。
 産屋敷組にも多数の被害が出た偽富くじ事件だ。聞き込みと称して潜り込む事が可能かもしれない。鬼舞辻組の組員だとしても、何も悪い事をしている訳じゃない。前世はさておき私は誰かから恨まれる事はしていない。
 ふと、民尾と巌勝の顔を思い出し、「妖精には」と付け加える。
 人間の庭や施設、公園、そして自然の山や川は産屋敷組のものだと線を引かれている訳でもなく、誰だって自由に行き来できる場所なのだ。
 鳴女はぐっと右の手で拳を作った。
 これはチャンスかもしれない。別にお友達でもいい。ホントにそれでいい。喋ってみたい。友達になって、相互フォローの関係になって……鳴女の頭の中にバラの花吹雪が舞っている。
 ついでに無惨様の百万円のために働こう。ハードケースのラッチをぱちんぱちんと外し、琵琶を取り出した。

 本部のフードコートの一角で、伊黒小芭内はテーブルの上の甘露寺蜜璃のスマートフォンをぼーっと眺めていた。蜜璃は料理を取りに行っている。
 スマホ、変えたか? 小芭内は軽く眉根を寄せた。手帳型ケースのために本体の一部しか見えないが、色が変わっているような気がするし、ケースそのものは確かに新調されている。
 そんな事より……。小芭内は窓の外を眺めた。椅子の背もたれに背を預け、腕組みをする。
 俺、専属モデルのばら組を抜けようと思う。
 甘露寺、実は俺は専属モデルの仕事はやめようと思う。
 俺はモデルの仕事に向いてないと思うから、あのばら組は抜けようと思うんだが。
 頭の中で何度も練習する。『月刊ガーディアンズ』のばら組を抜ける事を、まず蜜璃に相談しようと思っているのだ。
 甘露寺、俺にはモデルなどという仕事はやはり向いてな――
「お待たせ、伊黒さん!」蜜璃の明るい声が聞こえ、小芭内は心の中に沈んでいたところを浮上させられた。
 ドアベルみたいだな。彼は思った。
 蜜璃はトレイいっぱいに料理を載せている。前世同様「八倍娘」である蜜璃は相変わらずよく食べるのだった。このトレイの上のものを食べ終えると、また買いに戻るのだろう。
「甘露寺」蜜璃がきちんと着席したところで、小芭内は切り出した。「俺、あの、えー……」言いよどんでしまう。蜜璃はきらきらの瞳を小芭内に向ける。「あ、スマホ、変えた?」何を言っているんだ俺は!
「やだっ、気付いたのね伊黒さん!」蜜璃はフォークを置いて、テーブルの上のスマートフォンを手に取る。ケースから外して見せる。「かわいい色でしょ」
「そうだな、髪色と合わせたな?」
「そうなの」蜜璃はうふふと笑う。「あのね、笑っちゃう話なんだけど、私、あそこの――」フードコートのスープバーコーナーをスマートフォンを持った手で示し、「かきたまスープの中にスマホ落っことしちゃって!」
 小芭内は目を丸くする。それから微笑む。「それは大変だな」
「大変だったの! 申し訳ないでしょ、スープが全部だめになっちゃって! ちゃんとお金を払うと言ったんだけど、断られちゃった。優しいわ」
「甘露寺は上得意だからな」笑みを浮かべたまま小芭内は蜜璃を見ている。彼女は勘定にスマートフォンアプリを使うため、いつもトレイにスマートフォンを載せていたが、落として以降電子マネーカードに変えたらしい。それも落としそうだがと、小芭内は思った。
 食べ始めた蜜璃は今度は食べるのに一生懸命になっている。小芭内はアイスコーヒーを飲むだけだが、彼女と話しているとそれだけで甘い気持ちが胃の腑まで流れ込むのか満足してしまう。
「それでね」一息ついて蜜璃が言う。「私、もう、一番にばら組の写真にコメントしたかったのに、スマホ壊れちゃったからできなかったの! 悔しいわ!」
 小芭内は目を見開いて一瞬固まってから破顔した。
 なんだ、メッセージ「しなかった」んじゃなく、「できなかった」のか。俺も相当馬鹿だな、大真面目に悩んだりして。普段そんなにはっきりと笑う事はない小芭内が笑っているので、蜜璃は少しの間きょとんとした顔になっていた。顔を赤らめる。
「やっぱり、リアル伊黒さんが一番素敵ね」小さな声で言った。
 小芭内は真面目な顔になって黙る。頬が熱くなるのを感じる。
「でも新しいスマホは写真がとってもきれいに撮れるし、見れるの。前のは古かったから」言ってから蜜璃はカップの中に残っているコーンスープを飲み干した。「私、本当にうれしいわ。宇髄さんがメッチャ、マメに写真をアップしてくれるじゃない? 本当にうれしいの。伊黒さん、いつも端っこの方とか『写すな!』って感じの顔してるとか、そういう写真だけど、それが本当にかわいくてカッコよくて!」蜜璃はにっこり笑ってから、今度はツナサンドに手を付ける。
「甘露寺、君はちょっと変わってるって言われないか?」
「へっ?」
「俺なんか……なんていうか――」
「やだ! 伊黒さん、私の事遠ざけようとしてる? 『撮るな宇髄!』みたいな顔しちゃう? かわいいからいいけど」言ってからまた、蜜璃はサンドイッチを食べる。
「まぁ……俺も甘露寺が変わっていようがいまいがそれは別にどうでもいいんだが」小芭内は呟くように言った。サンドイッチを頬張ったまま、蜜璃は何度も頷く。小芭内はまた、微笑んだ。
 まぁいいか。甘露寺が喜んでいるならそれでいいのか。このままの俺であそこにいていいのなら、ばら組やめるの、やめようか。
 ストローを無視してグラスから飲んだアイスコーヒーは、氷が融けてすっかり薄まっていた。

 

 翌日。
 鳴女はばら組が撮影をしているという、山の中腹にある迎不動の傍の河原を目指して飛んでいた。必要ないとは思うがなんとなく、ケースに入った琵琶を担いでいる。もしかすると音楽に関する何かチャンスのようなものと出くわす事もあるかもしれない。オカリナの巾着が、飛ぶ速度を変えるたびぷらぷら揺れた。
 河原はどこだろう。妖精たちは忙しいのでギャラリーができるほど人が集まる事はないだろうが、それでも少しは人が集まっている事だろう。しかし小さな妖精には河原は広すぎる。砂地から直ぐ斜面が始まり、大きな岩があったり木やシダなどの草が生い茂っていたりするので、必ず彼らを見付けられる訳ではないと鳴女も納得していた。
 鳴女が登山道までの舗装された坂道の端を飛んでいると、北川巌勝こと継国巌勝と魘夢民尾が走って登って来た。
「迎不動で絶対休憩ね! 絶対ねぇ!」民尾がへなへなの声を出す。巌勝は頷く。彼も息が上がっている。
 いつものコースね。鳴女は思った。巌勝坊ちゃんの家から山の中腹まで登って、後は復路。十キロ近くあるかな。鳴女は彼らの後ろへ回り、ついて飛ぶ。迎不動はもうそこだ。
 迎不動に着くと、彼らはすぐにトイレで用を足し、その後小さな建物の中のベンチで休んだ。ちゃんとトレーニングを続けている彼らに鳴女は感心する。自分の作戦がここまで上手くいくとは思わなかったのだ。彼女は彼らからは死角になる石灯篭に腰を下ろして様子を見る事にした。
 巌勝は前髪をつまんで、寄り目になって眺めている。汗に濡れて細い束になっている。
「髪、伸ばそうかなぁ」
 民尾は驚いて巌勝の顔を見た。「縁壱さんとおそろにするの?」
「いや、あそこまで長いとちょっとアレだろ」巌勝は笑う。「でも、ま、結える感じに。ちょっと、長く」
「へー。カッコいいんじゃない?」言いながら、民尾はジャージのポケットからスマートフォンを出した。
「ね、ついにばら組をフォローしたよ」
「お、よかったじゃん」
 先日彼らは宇髄天元から産屋敷サイトへのログイン権限をもらった。ゲスト用アカウントなので、見られるページは少なく、書き込みもSNSのコメントくらいしかできないが、二人は見られるだけでも大満足である。
「カッコかわいいな~。俺大好きだよ縁壱さん」民尾は微笑むが、はっとなり、「違うよ、俺ゲイじゃないよ」巌勝の腕をつかんだ。
「分かった、分かってるよ、いつも言わなくても分かるし別にそうでも気にしないよ俺は」
「違うって、『別にそうでも』じゃないんだって」
 鳴女は石灯篭の上で微笑んだ。かわいい少年たちよ。
 一緒にトレーニングを始めて、巌勝は民尾と更に仲良くなった。もう親友と言っても過言ではない。
 そして、彼は民尾に前世の事を話した。民尾は「みっくん物語」と言いながら、少しずつ話される巌勝の前世の壮絶な話を聞いていた。「嘘だ」と言う事は一度もないが、信じているのかというと、それは巌勝にはよく分からなかった。
「俺、謝りたいんだ」巌勝は石の床を見つめながら言った。
「それって『みっくん物語』の延長で?」
 巌勝は頷いて続ける。
「ごめんで済む問題じゃないんだけどさ、俺、なんか……許されたいとかそういうのでもないんだけど……。なんだろうな、なんか、謝りたい」
 巌勝の言っているのは、黒死牟であった最後に、不死川玄弥と時透無一郎を手にかけた事である。今世の無一郎はまだ幼く、双子の兄とともに産屋敷組の養護施設で暮らしているらしいが、玄弥は巌勝の家のイナバ物置に住み、庭のマキと盆栽のガーディアンをしている。巌勝の事は「巌勝坊ちゃん」と呼び、一緒に盆栽を育て仲良くしているが、前世の話をしたことはない。玄弥の中では今の巌勝は別の人という感覚があるようだ。それもそうかもしれない。
 しかし、この頃巌勝はそれが気になってしまっていた。
「みっくんさぁ、悩み作るの好きだよねぇ」民尾が言い、巌勝はむっとした。
「作ってる訳じゃない」
「でも、何か解決してもさ、どんな小さな事でも『ちゃんとした』悩みにしてくるしさぁ、悩むのが好きなんだと思っちゃう」
「好きな訳ないだろ」
 いや、そういう人っているよねと、鳴女は思う。
「みっくん、玄弥君たちに謝りたいって事、縁壱さんに話した?」
「うん」
 その時、縁壱は笑った。嘲笑ではない。とても柔らかな顔で笑ったので、巌勝は、もし縁壱が人間の大きさであったなら、胸に顔をうずめて泣いていたかもしれないと思った。
「兄上、相変わらず真面目でいらっしゃる。良い事ですが、過ぎたるはなんとやらです」縁壱は言った。「生きているものというのは、今が一番大切で、今のみが現実なのです。例えば玄弥君にしても、不死川君と出会い、仲の良い兄弟でいられる。それが、それだけが現実ですよ。過去に何があっても、それが今を遮る事はできないのです。もし今世で前世の事を恨まれるならそれは、恨む方も恨まれる方も今世での生き方に問題があるのです。皆、言葉にしなくてもそれを分かって生きていると縁壱は思います」巌勝は縁壱の顔を見た。やっぱり、人間の大きさだったら……と思う。巌勝の中ですっきりしまい込む事のできないもやもやした気持ちは相変わらずそのままだったが、縁壱の言う事も少しは分かった。「前世の事を清算したからこそ、今の世に生まれてくる事ができたのです。兄上は、神様が兄上だけ見逃されたとお思いですか?」
「ああっ!」巌勝は頭を抱えた。そして腕の隙間から縁壱を見る。「俺はまた、傲慢な考えをしてしまっているのか」
「兄上、も少し肩の力を抜かれてはどうです?」
 縁壱との会話を思い出し、巌勝は「ふぅ」とため息をついた。
「大丈夫? みっくん」
「あー、うん」
 縁壱の言う事は分かったが、やはり巌勝は体を鍛えて強くなり、もし妖精たちが危機にさらされた時には味方になって全力で戦おうと心に決めた。
「あ、危機と言えば……」巌勝はふと思い出し、「今冨岡さんの財布が危機なんだよ」と言った。
 驚く民尾に、巌勝は偽富くじ事件の話をした。
「二十万円かぁ」民尾はなぜかうっとりした顔になる。中学生にとっての二十万円はまた価値が違う。「冨岡さん、かわいそ~」
「ホントにかわいそうって思ってる?」
「あっ、それよりパンツ女の兄貴、あの女とめちゃけんかしたらしいよ」
「へぇ」
「みっくんの事殴ったじゃん。みっくんには手を出さないって約束で三万円渡して俺をボコる手はずだったんだって」
「そんな事に三万使う女ってどう?」
「バカみたい。でもさ、あの兄貴は執念深いよ」民尾は体を抱きしめるようにして、ぶるぶると腕を震わせた。
 実際の所、民尾の言う通りであった。
 執念深いパンツ女の兄は、巌勝に……正確には縁壱に倒されたあの日、その上の兄に復讐を頼むことにしたのだ。妹、兄、その上の兄と、巌勝はありがたくない階段を登っていっている。
 この一番上の兄は、パンツ女とその上の兄からすると、兄とはなかなか思えない兄である。彼らの両親が家にいる頃は、この長兄は家にいなかった。両親が海外赴任で家を空けてから、「親代わりだと思って」とやってきたのだ。「兄である」というのは便宜上そう言っているだけで、本当は両親の知り合いの息子とか、そういう間柄の人間なのではないかとパンツ女は思っている。パンツ女の兄は、この突然現れた長兄に少し不気味さを感じ、恐れている。何をして生計を立てているのかよく分からないが、部屋に何台もあるパソコンを使い、たくさんのモニターに囲まれて仕事をしている。お金をたくさん持っているようで気前がよく、兄妹はこの長兄に甘えるふりをして、こづかいをもらったりもしている。
 長兄は、パンツ女の兄の話に興味を示した。ガキどものけんかと切り捨てず、詳しく話を聞いてくれた。
「俺、金にならない話は嫌いなんだよね。だけど、その北川巌勝君? その子の事を調べ尽くしてはみるよ。何か出てくるかもしれないもんね」長兄はにっこり笑った。調べて金になるような事があれば協力してもいいと彼は言い、パンツ女の兄は、手伝えることは何でも手伝うと約束した。
 何も知らない少年たちがランニングを再開するべく立ち上がったので、鳴女も石灯篭を飛び立った。

 あれは……テントだ。
 迎不動からすぐ河原に下りた地点より少し上流の砂地に、鳴女は小さなテントを見付けた。小さなと言っても妖精から見ると、大きなテントだ。運動会などで立てるようなテントで、周りに人はいないが荷物が置いてある。
 こんな所じゃ、ファンも見付けらんないわ。面白い所で撮影してんのね。なんの企画かしら。鳴女はテントに近付く。
 ははぁ、服、飲み物……見張ってる人いないのね。彼女はテントの端に琵琶の入ったケースを置こうと、砂地に下りた。
 ぎゆゆは家かしら。でも、運んでもらったかもしれないね。もし服があったら……クンカクンカしたい。胸を高鳴らせ、鳴女はテント内をきょろきょろ見回した。
「何をしている」
 声を掛けられ、鳴女は小さく悲鳴を上げた。振り向くと真後ろに縁壱が立っている。
「よよよよよよよよよりーちッさんッ!」二、三歩後ずさる。縁壱は鳴女の足元のハードケースを見た。
「……すないぱーらいふるか」
「えっ?」
「誰を狙っている。誰の差し金だ。刺客なのかお前は」
 やばい、このままでは悪い奴認定されて、産屋敷組の妖精に近付けなくなる! とっさに鳴女は巾着袋からオカリナを出した。縁壱はじっと彼女を見ている。オカリナの旋律が、縁壱の周りを包むように流れ、川面へ消えていく。
 さて、よりーち、あなたはそうね、いい夢を見させてあげるよ……って完全に魘夢じゃない……いや、集中するんだ鳴女、そうね、えーと……サーカスを見に行く夢とかどうかしら。
「お前、悪い奴ではないな」眉根を寄せていた縁壱が、いつもの「のほほん顔」に戻って言う。
「あの、眠くないですか?」鳴女はオカリナを吹くのをやめた。縁壱はかぶりを振る。鳴女は驚愕した。「このオカリナで眠らないとは……! あの魘夢でさえスコンと寝たのに! 毎晩同じでもスコンと寝てスコンと夢を――」鳴女と縁壱は同時に「あっ」と言った。鳴女はしまったと、オカリナを持ったままの手で口を押さえる。
「お前が魘夢君に悪夢を見させ――」
「違います! いや、そうなんだけどもっ! 私は命令を、あの、私は産屋敷さんちに迷惑かけたくないんだけどもっ、無惨様が!」
「鬼舞辻無惨の仲間であったか」
 鳴女は自分のふがいなさに泣きたくなっていたが、縁壱が怒っている風でもないので、とにかく自分は「害虫」ではないのだと伝えたい一心で話をした。
 鬼舞辻無惨が巌勝を使って縁壱を殺そうと企てている事。しかし鳴女としては絶対この計画は失敗すると思っている事。それを聞いた縁壱はゆっくり頷いた。当たり前だ。鳴女は更に、「私はなんといってもぎゆ担になってしまったので、本当に、産屋敷組とは仲良くやって欲しいんですよ」と続けた。
 縁壱は首を傾げた。「『ぎゆたん』とは何だ」
「あ、えー、それは言葉の綾って言うか……まぁつまり、冨岡さんのファンになってしまいましたので……」
「それは良い事だ」良い事なんですか? 鳴女は厚い前髪の下で一つ目をむいた。「冨岡君はとてもいい人だ」
「確かに。産屋敷組は皆さんいい人ですよね、もう、産屋敷さんがメッチャいい人じゃないですか」縁壱は頷いた。「私としましては、鬼舞辻組はそちらと和平協定を結ぶべきだと思うんですよ」また縁壱は頷く。この女、いい事を言う。和平協定は耀哉の前々からの望みなのだ。
「今日御館様はこちらに来られる。君は……」
「鳴女と申します」
「鳴女君、御館様にその話をしてみてはどうかな」
「し、します」
 話が発展し過ぎて私もう追えない……。鳴女は焦った。いきなり産屋敷耀哉と話をするだと?
「縁壱さん、交代だ、あっちで呼んでいる」小芭内がやってきた。今やってきた風に装っているが、実のところ彼は少し前から岩の陰で二人の話を聞いていた。
「分かった」と縁壱。今日は編集部の人員が十分でないため、皆で交代で荷物の見張りをしているのだ。本来交代要員が来てから現場へ行かねばならないところ、鳴女が来た時、実弥が荷物を置き去りにして縁壱を呼びに行ってしまっていたせいで僅かな時間であるが空白ができたのである。
「いってらっしゃいませ」小さな声で鳴女が言い、小芭内とともに縁壱の背中を見送った。
 しばし沈黙が訪れ、川の流れが立てる心地よい音だけが聞こえている。
「残念だが、今日は冨岡は来ていない」唐突に小芭内が言った。鳴女は小芭内を見る。
「何も言ってませんが」鳴女は少し落ち着きを取り戻していた。
「ほう。じゃあ何をしにここまで? 冨岡に会えたらって事じゃないのかね」
「まぁ……と冨岡さんに会えたらそれはうれしかったでしょうね」
「ふん」小芭内は鼻で笑った。「やはり冨岡か」鳴女は前髪の奥の一つ目を見開く。「冨岡がよいというのはつまり、あいつの外見がよいという事だろう。お前はあいつの何を知っている?」
 鳴女は黙っている。
「やはり、外見なのだ」小芭内はひとり言のように呟いた。
「あの、お言葉ですが」鳴女が口を開き、小芭内は彼女を見た。「ぎゆ……冨岡さんの外見は、中身が外へ現れたものだと私は思っています。外見だけの男というのは、そういう外見をしているものです」小芭内は目を見開いた。「私は音楽をやる妖精です」鳴女は熱くなってくる。「ぎ……冨岡さんを初めて見た時から感じていました。あの人の内面の清らかさ。清らかさと男らしさとかわいらしさ。それが外に出ているのです。あの人の顔はsus4です」
「何言ってんだお前」
「とにかく清らかな、そう――」川を指して鳴女は言う。「川の流れのような清らかな内面が、外見ににじみ出ているのです。あの人の九十パーセントは水でできているのです」胎児か。小芭内は目をむいた。この女は何を言っているんだ。
 しかし理性とは裏腹に、小芭内の心は鳴女の言う事に共鳴していた。「清らか」は言いすぎかもしれないが、確かに義勇は外見と中身が一致していなくもない。あの顔であのおとぼけぶりなので、ギャップがあると言う者もいるかもしれないが、そういう癒し、或いは萌え要素、つまりプラス面は外見の足を引っ張る事はない。
「鳴女と言ったな」
「はい」
「そんなに色々分かるなら、俺はどうだ」小芭内はどきどきしながら訊いた。思わず目を伏せる。
「あなたですか」鳴女は小芭内を見た。頭のてっぺんからつま先まで。
「それは分かりません」かぶりを振る。
「何!?」
「だって、あなた、強固に隠しているじゃない」
 鳴女の言葉に、小芭内は言葉を失った。
「隠されたものは見えないし、鳴らさない楽器の音は聞こえません。でも――」鳴女は小芭内から目をそらし、川を眺めた。「隠されたあなたを見ようと必死になっている人がいるんじゃないですか? 矛盾してるかもですが、あなたはイケメンですからね!」
 小芭内は半ば呆然と鳴女を見ている。
 そこへ「御館様」産屋敷耀哉がやってきた。
「やぁやぁ、小芭内、元気そうだね」一人でふわふわ飛んできた耀哉だが、今世では病気も無く強い体を持ち、活発に動き回る彼を見慣れているので小芭内も驚きはしない。近くならば一人で出かけてしまう「御館様」なのだ。ここには縁壱もいることだし、散歩気分で来たのだろう。
「君が鳴女君かい?」耀哉は鳴女を見て微笑んだ。その声と微笑みに、鳴女は腰が抜けそうになる。
 これが生産屋敷さん……! なんて温かいの! 鳴女は泣きそうになった。今まで生きてきて、今世は泣くほどつらい事はない人生だと思ってきたのにそうではなかったのだと急に気付かされたような、そんな衝撃があった。
 耀哉は既に宇髄天元から鳴女の話を聞いている。天元は撮影にマネージャーとして参加しているが、耀哉が現場を訪れたのですぐに縁壱から聞いた事を報告した。そして耀哉はそれを聞いたその足でここへ来たのだった。
 耀哉は鳴女に「和平協定」について少し話した。鬼舞辻無惨にとってより、自分にとってとても助けになる話なのだと耀哉は言ったが、鳴女はそれは組員も少なく、前世のようなカリスマ性も持ち合わせぬ今の無惨を立てての言葉だと思った。
 しかし、妖精というくくりで見ると、和平協定を結び協力してやってゆく事は、耀哉にとっても無惨にとってもいいことずくめなのではないか。それはもしかすると無惨も分かっている事かもしれないと、鳴女は思った。
「ところで鳴女君、鬼舞辻君も偽富くじにやられたって?」
 御館様、何もかもお見通しなのか……。鳴女は驚いた。
「お恥ずかしい話ではありますが、こちらでは百万円の損害が出ました」鳴女は素直に話した。耀哉はうんうんと頷き、川面を眺めた。
 谷底になっている河原を風が吹き抜け、三人の髪をなでる。偶然、似たようなタイプの髪型をしている三人の黒髪がふわりと揺れた。小芭内の肩の上で鏑丸が体を伸ばし、風を受けている。
「犯人、見付けたいね。うちも、珍しく縁壱が怒ってね。もちろん私も、その偽くじ販売員にはお仕置きが必要だと思っているんだ」耀哉が言う。
「こちらもそうです、鬼舞辻は必ず殺……いえ、あの、取られたものは取り返すと申しております」
「そのお金だよね」耀哉は二、三度頷く。
「冨岡は現金はNG、電子マネーのみの取り扱いだと言われたと言っておりました」と小芭内。
「そうなんだよね。被害に遭った子たち皆、電子マネーなんだって」
「私は聞いておりませんが、そうなると恐らく鬼舞辻もそうなのでしょうね」
「電子マネーも悪用されると輝きが褪せるね。いいものを悪い事に利用するものは必ず現れる、それは仕方のない事かもしれないけれど。私は私の子どもたちを守らなきゃならないから、今回の事も必ずその販売員から話を聞かないといけない」
「宇髄はなかなか情報が集まらないと言っていましたが」小芭内は耀哉を見る。
「そう、それで私は似顔絵を作ろうかと思っているんだ。騙された子は多数いるから情報も多い。それをまとめて一つの絵にしてもらうんだ。そういう場合、写真より絵の方がいいと思うんだ」
「腕のいい画家が必要なのでは?」と小芭内。耀哉はにっこり笑った。

 その夜、竈門炭治郎の部屋に妖精たちが集まった。産屋敷組はじめ、妖精たちは人間の手を借りねばならない事も多く繋がりを持っているが、産屋敷組が一番深く繋がりを持っているのが竈門家である。
 炭治郎の部屋には、三名の偽富くじを買わされた妖精、それから義勇、耀哉、天元、縁壱、鳴女、そして画家で鬼の山本愈史郎がいる。
 愈史郎は鬼殺隊が活躍した大正の頃も生きており、鬼殺に協力した事もある「よい鬼」である。鬼であるためにそのまま生き続けている。普段は鬼であることを隠して絵を描いて生計を立てているが、日光に当たる事ができない。今日は元々耀哉と会う事になっているという事で、夕方から黒ずくめで日に当たらぬよう対策をし、新幹線に乗って東京からやってきた。今は夜なので「いつもの愈史郎」の雰囲気だ。
 鳴女は舞い上がっていた。なにせ「ぎゆゆ」がいるのである。
 昼間の撮影が終わった後、鳴女は天元と一緒に竈門家へ来た。そして他のメンバーを待っていると、縁壱が義勇を背負子に載せてやってきたのだ。炭治郎はしきりに自分が迎えに行ったのにと言っていたが、鳴女は貴重な「背負子ぎゆゆ」が見られたので「チョームネアツ萌えハゲ」であった。作者ももうこの時の鳴女の状態を把握しきれない。それほど興奮したようだ。天元はマネージャーとして「おいしい」と思ったのか写真を何枚か撮っていたので、これは後でSNSに投稿されるなと、これも鳴女は喜んだ。
 炭治郎の部屋のコーヒーテーブルにランチョンマットが敷かれ、その上に妖精用の座布団が人数分置かれている。この座布団は炭治郎の妹禰豆子が手作りしたものである。そしてテーブルの端に置かれたスタンドに立てられた炭治郎のスマートフォンは、鬼舞辻無惨のスマートフォンと繋げられる予定だ。嫌がる無惨を鳴女が説得し、似顔絵づくりに参加させたのだ。
 耀哉が愈史郎と話をしている間、皆座布団に座り雑談をしていた。
 義勇は鳴女を珍しいものを見るような目で見ていた。
「ななななな、鳴女、音川鳴女と申します。前世でも鬼舞辻の元で琵琶を弾いておりました」鳴女はどぎまぎしながら深々と頭を下げた。義勇は少し驚いてから「冨岡義勇だ。前は鬼殺隊水柱だった」と返した。
「その前髪を見るに、今世も一つ目か?」天元が問うと、
「は、まぁ、なぜだかそのようで」と、鳴女は前髪を押さえて背筋を伸ばした。
「だからあのようなおかりなの術が使えるのやもしれないな」縁壱がぼそりと言い、義勇は「なかなかカッコいいな」と言って微笑んだ。鳴女の鼻からたらりと血が流れる。皆が驚いたところで、炭治郎が「あ、無惨と繋がりました」と言った。
 人間のスマートフォンの大きな画面に鬼舞辻無惨の顔が映し出され、ビデオ通話が開始されると、似顔絵づくりが始まった。

 

 翌日、偽富くじ販売員はあっけなく捕まった。
 産屋敷組の妖精の一人だった。衣食住センターの物流倉庫で働いており、表で働くガーディアンズとは滅多に顔を合わせない者だ。
 偽富くじを売らせた黒幕がいる事を彼から聞き取った耀哉は、似顔絵作戦は大当たりであったので、販売員からも話を聞き出し、帰り際の愈史郎に似顔絵を描いてもらった。そしてすぐさま鎹カナブンによって縮小コピーが各所へ配られ、貼り出された。今回鬼舞辻無惨も被害者であり、捜査に協力している上、鳴女は産屋敷組へ出入りしているのでスマートフォンを使ってもよいのだが、産屋敷組ではいつも通り鎹カナブンが使われた。産屋敷組に反感を持つものが鬼舞辻無惨だけであると決まっている訳ではないのだ。無惨の所へも数枚カナブンによって持ち込まれる。
 無惨と鳴女はすぐさまその似顔絵の顔を見て名前を言い当てた。

「童磨とは、前世で上弦の弐だったそうだ」
 鎹縁壱こと継国縁壱が小学校のイナバ物置内にあるカフェテリアの掲示板の前で言った。例の似顔絵を眺めている。
「なんだァ、マジかァ」実弥も似顔絵を見ている。添え書きを読む。二人はカフェテリア横の弁当屋に注文してあったばら組の夕ご飯の弁当を取りに来ているところだ。
 添え書きには、鬼舞辻組から知らされた童磨の名前と、そこから耀哉と天元が調べた彼の情報が書かれているが、それはそう多くはなかった。
「人間か! 人間が妖精の金を巻き上げたのか! 許せねェ!」実弥は声を荒げる。「そうか、紙幣は妖精銀行でも電子マネーは人間と同じだもんなァ。だから電子マネーって縛ってたのか、マジ許せねェ」
「兄上や鳴女君、狛治君も今世では普通に暮らしているというに、こやつは人を食う事はなかろうが、悪の道へ入り込んだのだな」
「そりゃァ食ってるも同然だろがァ。どうせ人間からも金巻き上げてんに違いねェ」実弥はひどく憤慨している。
 縁壱は「うむ」と同意してから実弥の持っている袋を見た。
「不死川君、そのあめりかんどっぐとぽてとふらいは余分では?」
「これは……冨岡にやろうと思って」
「なるほど、土産か」
「まぁ……つーか、食ったほうが早く治るんじゃねェかと思って買ってみたんだ。帰ったら弁当プラス、食わせる」
「不死川君は冨岡君のよい兄だな」
 実弥はちぇっと軽く舌を鳴らして「冷めない内に帰ろう」と物置の出口から飛び出した。

「ああ、そろそろ帰らないといけない」小芭内は本部フードコートの壁掛け時計を見て言った。ここで甘露寺蜜璃とコーヒーを飲んでいたのだ。蜜璃にとっては間食タイムで、しっかりした食事を取っていたのだが。
「童磨、捕まるかしら」小芭内とフードコート内を移動して通路へ出ながら蜜璃が言う。
「人間だからな。見付けても御館様の『お仕置き』が炸裂する事もないだろうな」
「悔しいわ! 冨岡さんの二十万円、帰ってこないのかしら」
 小芭内は「うーむ」と唸った。
「でも、ばら組は素敵ね! 冨岡さんのためにモデルの仕事を引き受けて」蜜璃は小芭内から専属モデルの仕事を引き受ける事になったいきさつを聞いている。
「まあな、仲間だからな。俺はばら組のリーダーだから、冨岡のために動く事も結局自分のためなんだ」
 蜜璃は小芭内のシャツの袖をきゅっとつまんだ。その少しの遠慮が、彼女をとてもかわいらしく感じさせる。
 いつか、いや、この童磨の事が片付いたら、そしたら……小芭内は軽く唇を噛んだ。

黒い鳥かご

 童磨の似顔絵が公開されてから三日が経った。
 彼の居場所はようとして知れず、産屋敷耀哉も困っていた。まだ三日という気もするし、もう三日という焦りもある。前世で鬼殺隊に入る前忍びをやっていた宇髄天元は、あちこち聞き込みをして回っていたが、相手が人間であるので有力な情報を得る事は難しいようであった。人間の竈門炭治郎も協力してくれているが、まだ高校生である事もあり、危険が及んではいけないと、深入りしないよう耀哉に止められている。
 北川巌勝こと継国巌勝は、自分も役に立ちたいとインターネットで童磨の事を調べてみたが、出てきたのは人間である事と投資家であるという事だけだった。詳しい情報がない事が、「投資家」という肩書も偽物の看板なのではないかと巌勝に思わせた。
「みっくんの言う通りだと思うよ」走りながら魘夢民尾は言う。
 二人は今日もランニングをしていた。いつものコース、山道を登って、今は下りである。土曜日なので午前中から走り、走った後で巌勝の家で筋力トレーニングをする事になっている。その後そのまま一緒に昼食を取る予定で、親戚の家で肩身の狭い思いをしている民尾はうきうきしている。彼は、巌勝と仲良くなってからは家には殆ど寝に帰るだけになってしまっている。叱られないのかと巌勝が尋ねると、そんな事はないと言う。家の話をあまりしたがらない様子の民尾の事を、巌勝の母は気にかけて快く食事を作って食べさせている。叱られないという事は、民尾を預かる家の者は彼に無関心であり、それは子供にとって一番つらい事なのだと言うのが彼女の持論である。
「わ、わわわ!」強風にあおられ、民尾が道を外れそうになる。巌勝はあわてて民尾の腕をつかんだ。
「メッチャ風強いね!」民尾は巌勝の腕につかまりながら道の中央よりへ戻る。道の左側は、土手を下りると川になっている。まだ水は冷たい。
「雨になるかもしれないな」巌勝は言った。嵐のような強い風は走り始めてしばらくしてから吹きだした。この辺りは落雷がとても多い地域なので、天気が変わるまでに家に帰りたいと、巌勝は足を速めた。遅れ始めた民尾が後ろで文句を言う。巌勝は笑いながら民尾の所まで戻った。仕方ない。
「もうちょっと鍛えろよ魘夢」
「みっくんとは素材が違うんだよぉ、俺はあんま運動は得意じゃないんだ」民尾が言ったところで狭い道を軽のワゴン車が通過する。二人は車を通すべく端に寄った。路肩は舗装が崩れ、木々の葉が溜まって柔らかく足をくじきそうだ。
 車を通してから再び道の中央よりに出た時、先のワゴン車がバックして戻って来た。二人はまた端に寄る。巌勝は眉根を寄せた。なんだこの車。
 二人の横で停車したワゴン車から男が一人降りてきた。
 パンツ女の兄だった。巌勝と民尾は驚いて棒立ちになる。何かまずい事が起こりそうだと巌勝は感じた。先日は縁壱が一人でこいつを倒してくれたが、巌勝と民尾では二人でも彼を倒せそうにない。
「な、なななんですかぁ?」民尾の声は裏返っている。
「お前には用ないねん」パンツ女の兄は民尾を突き飛ばした。民尾は土手を転がり落ちる。
「魘夢! 魘夢!」巌勝は土手を駆け下りようとした。しかし後ろからパンツ女の兄に抱えられ、軽ワゴン車のボディに投げつけられる。ボコンという音を立てて、巌勝は車の横っ腹に激突した。車のボディと自分の体の間に挟まった腕の、肘が脇腹にめり込んだ。一瞬息ができなくなる。
 なんだ、もう仕返しに来たのか、でも車でわざわざ……なんでこんなとこ……ここにいるって知ってんだ……。
 車の横で膝をついて咳き込み、パニックに陥っている間にパンツ女の兄に抱えられ、引きずられる。脇腹が悲鳴を上げた。巌勝を投げるように車の荷台に載せると、パンツ女の兄は自分も乗り込み、乱暴にドアを閉めた。
 ヤバい、ヤバいぞこれは……。巌勝の胸の中で恐怖が山のようにそびえ、彼の目を覗き込んできた。縁壱の名前を叫びたい衝動に駆られる。
 聞こえる訳がないだろう。そう思うと泣きそうになるが、泣くものかと必死で涙を堪えた。パンツ女の兄が巌勝の手足をロープで縛っている。巌勝には抵抗する気力が今はなかった。首をそらせて運転席の方を見ると、背の高い男が運転しているらしく、男の頭は車の天井につかえそうになっている。髪は白いが老人ではなさそうだ。
「ごめんねぇ、乱暴にして。俺は乱暴は嫌いなんだけど弟がさぁ。ごめんね」男はバックミラーを傾け、ミラー越しに巌勝を見てにっこり笑った。ミラーの中で目が合う。
 童磨だった。
 ぞっとして、巌勝は文字通りちびりそうになったがこれもなんとか堪える。
 もしかして、俺、殺されるのかな。
 一番想像したくない事だが、そればかり考えてしまう。巌勝は口の中で小さく「縁壱、縁壱」と呪文のように繰り返す。パンツ女の兄が、巌勝の言葉を聞き取ろうと耳を寄せてきた。巌勝は素早く口を閉じ、弟の名を飲み込んだ。
 こんなクソ野郎に縁壱の名前を聞かせてたまるか。あいつをクソで汚してたまるか。巌勝はパンツ女の兄を睨みつけた。顔を平手打ちされる。
「ダメダメ、もう殴らないでくれる?」運転席から童磨が言った。
 巌勝は遠くまで連れ去られるのかと思っていたが、車は大きく曲がったかと思えば直ぐに止まり、サイドブレーキが引かれる音がした。
 連れ去られた地点から近いという事は、産屋敷組本部からも近いという事だ。そう思うと少し安心したのか、巌勝は急に民尾の事が気にかかった。
 大丈夫かな、魘夢。

 ばら組の担当するバラのある家で、魘夢民尾は門扉にしがみついて泣いていた。
 その時庭にいた伊黒小芭内と不死川実弥、寄せ植え担当の栗花落カナヲが門扉まで飛んでいく。
「しーっ、声を落とせェ、吠えるな」実弥が民尾の鼻を叩く。
「より、より、より……縁壱っ、縁壱さんにっ、いわいわ言わないとっ……」必死で声を抑えようとしながら嗚咽混じりに民尾は言う。
 「母屋」からおばはんが出てきたので、小芭内は民尾を庭へ入れてもよいか尋ねた。おばはんは玄関ポーチでくつろげと言ってくれた。
 くつろいでいる場合ではなかった。
 民尾は全身濡れ鼠で落ち葉や土くずをあちこちにつけていて、腕や脚に数か所すり傷をこしらえている。訊けば土手から突き落とされ、川に落ちたのだと言う。そして、
「みっくんがパンツ女の兄貴にさらわれたぁ!」と、民尾は泣いた。
「泣くな! 状況を詳しく言え!」小芭内が叱咤する。
「車がバックして、あの兄貴が出てきて俺、落とされて、登ってきたらみっくんが、みっくんが車に積まれてぇ」
「魚みたいに言うなァ」実弥も少し混乱している。
 土手を這って登った民尾は、軽ワゴン車が発進するのを道の端の木陰から見ていた。走って追いつくものではないと素早く諦め、再び土手を下りて浅い川を向こう岸まで渡り、そのままばら組の所まで走ってきたのだ。川を渡ってすぐのキャンプ場事務所に産屋敷組本部があるのだが、民尾は本部に親しい妖精がいないためばら組のいる家まで走ったのだ。今までにない速さで走ったと彼は言った。
「縁壱さんに言わなきゃ」まだ泣きながら民尾は言った。母屋のおばはんにもらった絆創膏は手に持ったままである。小芭内が民尾をせっついて、これもおばはんが出してきてくれた人間用の消毒液と脱脂綿を使わせ、軟膏の入った缶のふたを開けさせた。実弥といっしょにあちこちできているすり傷に塗ってやる。
「私のカナブン、飛ばしました」庭の先まで行っていたカナヲが戻ってきて言った。小芭内は礼を言う。
 縁壱さん、近くにいるとよいのだが。小芭内は祈る気持ちになった。車を運転していた者は、普通に考えると十八歳以上だ。そのナントカ兄貴の連れで無免許の中高生とかだとこれはまた事故が怖い。実弥も同じ事を考えているのか「ちきしょう、クソがァ」と唸りながら軟膏を塗っている。びゅうと強風が吹いて、民尾はくしゃみをした。川に落ちた後ずっと強い風に吹かれながら走っていたので風邪をひいたのかもしれない。
「仕方ねェなァ」言って、実弥は竈門炭治郎に連絡を取ってもらうべくイナバ物置内のばら組の部屋にいる義勇の所へ飛んで行った。
「お前が直で電話しろよ」小芭内は独りごちた。

「いい加減にしてくれないかなぁ」
 巌勝がパンツ女の兄に三度目に殴られた時、童磨が言った。
「俺の言う事、分からないかな。彼は商品みたいなもの。価値が下がると困るんだよね。傷を付けたら説得力下がるんだよ。やめてよね」
 パンツ女の兄は、巌勝を捕らえれば思う存分意趣晴らしできると思っていたらしく、口を尖らせた。しかし、言い返す事はせずそのまま入り口のドアを抜けて庭へ出、軽ワゴン車の助手席に乗り込んだ。
 巌勝が連れ込まれたのは古い廃屋のようなログハウスだった。このログハウスはかつて喫茶店であったと巌勝は聞いたことがあるが、彼が初めてこの建物の前を通った時には既に廃業していた。玄関を入ってすぐ、かつて店だったのであろう広い部屋があり、作り付けの木のテーブルや椅子がそのまま埃をかぶっている。あちこちに、童磨が持ち込んだものが置いてある。ノートパソコン、ハンガーラック、書類やペン、メモ帳等の入った小型のワゴン、カットされたベニヤ板に工具箱。奥の方のテーブルの上にある真新しい鳥かごが、廃屋とそぐわず浮いていた。そのテーブルの下に巌勝は転がされていた。
「君も、俺の気持ち分かるよね? 俺は君の事を大切に扱うし、殴ったりなんかしない」童磨はしゃがんで巌勝の目をのぞき込み、口に貼ってあるダクトテープをゆっくり剥がした。巌勝は、この辺りは民家も無く、叫んでも無駄である事が分かっていたし、何より童磨が怖く、彼を刺激したくないので黙っていた。唇がひりひりする。舐めるとテープの糊が口に入ると思い我慢して口を閉じている。
 ここへ来てから童磨はずっと喋っている。彼の話からは、前世の記憶があるようには思えなかったが、夢で断片的に前世の映像を見るようだ。
「お腹空いた?」童磨が尋ねる。巌勝はかぶりを振った。
「嘘、走ってたじゃん。食べ盛りだし――」
「減ってません」巌勝はきっぱり言ったが、言われてみれば空腹を感じる。しかしそれは無視できる程度のものだ。
「なんで俺を拉致したんですか」言って、少し非難めいた口調になったかと、巌勝は不安になった。
 童磨は巌勝の手を縛っているロープを解いて「そんなに怯えなくてもいいよ。言ったでしょ、傷付けたりしない」と微笑んだ。癇に障る笑いだと巌勝は思った。童磨が巌勝の手を両手で包んでから軽くこする。「ああ、縛っていたから冷たくなっているね」
 巌勝がさっと手を引っ込めると、童磨は彼の目をじっと見た。外ではまだ風が吹き荒れている。「大丈夫だよ、俺は男の子には興味ないからね」
 それから童磨は立ち上がり、テーブルの上の鳥かごをなでた。巌勝はしびれる手を使って起き上がり、床に座った。鳥かごが見える。それは真鍮製で、鳥を飼育する物というよりは飾っておくもののように巌勝には思えた。古くて高価なものなのかもしれない。しかし、童磨の鳥かごには細かい目の網がかけてあり、鳥かごの見た目を台無しにしていた。
「ふふ、いい鳥かごでしょ」童磨はフックに掛けるための輪っかに指を通し、鳥かごを少し持ち上げた。
「しのぶちゃんにぴったりだと思って」
 巌勝は眉根を寄せた。「しのぶちゃん」とは? はっとする。妖精の胡蝶しのぶの事だろうか。
「ね、みっくん」童磨は民尾と同じ呼び方を採用する。巌勝の胸に不快感がこみ上げる。「君、小さなお友達がたくさんいるよね」やはり、胡蝶しのぶの事なのか。
 巌勝は口をきゅっと引き結んだ。一言も喋るもんか。巌勝は、しのぶにはヘンタイ扱いされたまま義勇が大けがをした日以来会っていないが、ばら組と仲の良い妖精だと聞いている。
 童磨は巌勝の表情を見て「うん、いるんだね」と言った。巌勝は鳥かごをつかんで投げつけてやろうとベンチに手をついて立ち上がったが、足を縛られているためよろめいてそのまま木のベンチに倒れ込んでしまった。

 魘夢民尾のいる玄関ポーチに、竈門炭治郎が到着した。人数が増えたので近所の人が観察を始めると厄介だからと、母屋のおばはんは玄関ドアを開け、彼らを上がり框に座らせた。妖精が出入りできるようにドアはおばはんの靴を片方かませて透かせてくれた。
 炭治郎は義勇に頼まれた通り、民尾のための着替えのシャツとジャージを持ってきた。民尾は何度も礼を言いながら着替える。
「兄上君が無事だといいが」実弥に負ぶわれて「痛い痛い」と言いながらここまで連れてきてもらった義勇が言った。さんざん「痛い」と言われた実弥はむっとしている。イナバ物置の部屋に見舞いに来ていた胡蝶しのぶと甘露寺蜜璃も一緒に「母屋」の玄関に来ていて、しのぶが「不死川さん、怒る事ないですよ、冨岡さんああいう文句は不死川さんにしか言わないんですから」と言った。
「全く嬉しかァねェ」実弥は口の中で毒づく。
 カナヲの鎹カナブンは無事鎹縁壱に伝言を伝える事ができ、そろってここへ戻って来た。
 その時、民尾のスマートフォンが着信音を発し、電話がかかってきた事を知らせた。
「みっくんだ!」表示を見て民尾が叫ぶ。
 しかし民尾が電話に出ると、スマートフォンの向こう側で話し始めたのは童磨だった。スピーカー機能をオンにしたスマートフォンから童磨の声が聞こえる。前世の記憶があるしのぶは卒倒しそうになり、よろめいて隣にいた縁壱に抱きとめられた。足を踏ん張り、体勢を整える。
「あの男はただの人間だ」縁壱が囁き、しのぶはしっかり頷いた。
 しかし童磨がしのぶに執着している事は変わりなく、その彼女への募る思いを聞かされ、その場にいる全員が吐きそうになっていた。
「胡蝶ォ、耐えろ、大丈夫だ、俺たちがいる」実弥が言った。
「そうだ、手出しはさせない。ただ、気持ち悪い事に変わりないが」と小芭内。蜜璃はしのぶの肩を抱き、腕をさすってやっていた。しのぶは「大丈夫ですよ、ムカついているだけです。心配いりません」と笑顔を見せたが、右手で拳を作っていた。
「聞いてる? みんないるんでしょ?」スマートフォン越しの童磨が言う。
「聞いている」小芭内が答えた。
「それでね、俺、みっくん持ってるじゃん」
「『みっくん』は物ではない」小芭内が強い口調で言う。
「ま、そうだけど、とりあえず交換しようって思うんだ。つまり、しのぶちゃんと」
「なんて卑劣な奴なんだ」炭治郎が噛み締めた歯の間から言葉を絞り出し、カナヲは「吐き気がする、糞野郎」ぼそりと呟いた。
「あ、もしかしてしのぶちゃんが無事ならみっくんは死んでもいいって、そういうスタンス? 君たちにとってはやっぱ人間より妖精かな」童磨の言葉に皆縁壱を見た。ブチ切れるかと思って心配になったのだ。皆に見られて縁壱は困惑顔になった。自分を指さし、首を傾ける。童磨に対して何か言ってくれと請われたように思ったのだ。
「おーい」童磨が返事を急かす。
「あに……いや、あー、みっくんは無事なのか」縁壱が言った。縁壱さんが「みっくん」とは! 民尾が上がり框に倒れ込んだ。炭治郎が民尾の肩を強く叩く。萌え死んでいる場合じゃないだろう!
 童磨は無事を確認させるため、巌勝の声を皆に聞かせた。巌勝は童磨に捕まってしまった事をしきりに詫びた。声が小さく、打ちひしがれている事が分かる。
「分かった? ちゃんと大切に扱っているよ」と童磨。「それでね、俺が欲しいのはしのぶちゃんだから、これから一時間以内に枝公園の電話ボックスにしのぶちゃん入れておいてくれないかな。俺の鳥かごに無事しのぶちゃんが収まったら、みっくんを返してあげるよ! 大丈夫、売り飛ばしたりしないからさ!」童磨は明るく笑うが、次には一時間を過ぎてもしのぶを手に入れられなければその時は巌勝を知り合いに売ると言って、電話を切った。
 沈黙が流れる。
「許せねェ……お前ら、忘れてるかもしれねェが、あいつは冨岡の二十万も盗ったんだァ」実弥が唸ると義勇は「そうだった、忘れていた」と言った。
「お前が忘れるんじゃない!」小芭内が義勇を睨む。
「私、電話ボックスに行きます」しのぶが言った。
「ダメだ!」義勇は叫び、傷の痛みに顔をしかめた。「ダメだ胡蝶、二十万などどうでもいい、あんな気持ちの悪い奴の所へ行ってはダメだ」
「そうです師範、二十万は忘れて!」自分の二十万円でもないのにカナヲも叫んだ。義勇は「えっ」と目を見開いてカナヲを見たが、すぐにしのぶに向き直って「栗花落の言う通りだ」と言った。
「冨岡さん、カナヲも、私と二十万は関係ないですよ」
「えっ」
「私と交換するのは二十万ではなく、兄上君です」
「冨岡君たちがぱにっくに陥るのも仕方ない。童磨は悪い人間だ」縁壱が義勇の肩にそっと手を置き、それから
「悪い、悪い、悪すぎる!」と半ば叫ぶように言った。縁壱らしからぬ声音に、皆驚くと同時に、童磨ごときに負けるものかという気持ちがぱっと燃え上がった。キャンプファイヤーのようだった。
 しかし、童磨の居場所が分からぬ以上、どうすればいいのかという話し合いは難航しそうだった。残り一時間でどうにかできるのか。
 どうにかするしかない。皆そう思い、考え始めた。カナヲは再びカナブンを飛ばす。離れた現場へ行っている宇髄天元を呼び戻すためだった。

 十分後、天元がやってきたが、彼らには何の策も浮かんでいなかった。
 小芭内はこの膠着状態に苛々してきている。膠着状態といっても固まっているのはこちら側だけなのだ。童磨の明るい声が思い出され、苛立ちに拍車をかける。リーダーとしてばら組を動かしたいのにそうできない事がつらい上、「年下の兄」をおかしな男に取られた縁壱の気持ちを考えるとなおの事悔しさがこみ上げてきた。縁壱の顔をそっと見ると、彼はいつもの無表情で腕組みをしてじっと立っている。
 そっと袖を引っ張られ、小芭内がそちらを見ると、上がり框に座っている義勇が彼を見上げていた。隣に腰を下ろす。
「こちらが動けないのは情報が少ないから仕方のない事だ」義勇は言った。「でも、何か糸口があって皆が動いても、俺は動けない」小芭内は義勇の着ているシャツの襟元から覗く白いさらしを見た。「誰がよくて誰が悪いという話ではないが、ふがいないという気持ちは皆一緒だ」
「そうだな」小芭内は静かに言ってから少し笑って「リーダーだからと思う事はあるが、それで覇気を失っていたらどうしようもないな」
 義勇は微笑んで小芭内の肩をぽんぽんと叩いた。
「必ず糸口はある」言って小芭内は皆を見回す。「今は無くても必ず見付ける。どっかから降ってくる事もあるからそれを絶対つかみ損ねるな」
 皆力強く頷いた。天元の提案で、アンテナと武器を増やすため、鳴女を呼び寄せる事になり、カナヲがまたカナブンを飛ばした。

「しのぶちゃんはね、運命の人なんだよ」電話を切った後巌勝のスマートフォンをテーブルの上に置き、童磨が言った。
 童磨の言葉に、彼は前世の記憶があるのかと巌勝は思った。しかし童磨は、しのぶとは夢の中で会ったのだと言う。夢の中で三度も会い、自分は夢の中の女に恋をしたのだと。
 こんなところにもアホがいる……。巌勝は呆然とした。
「俺がどれだけ興奮したか分かる? 弟のくだらない復讐劇に手を貸せと言われてさ、それでも何かおいしいものが見付かるかもしれないって君の事調べ尽くしたっていうの、俺ってすごいよね」巌勝は黙って聞いている。先程スマートフォン越しに聞いた縁壱の「みっくん」が忘れられない。なんと心にくすぐったい声だったか。縁壱の声を聞き、甘えたい気持ちと兄として汚名をそそいで堂々としたところを見せねばならないという気持ちが巌勝の心の中でデッドヒートを繰り広げる。「聞いてる? この鳥かごは結構高かったけどね、この先ずっとしのぶちゃんと一緒に暮らすためのものだから見た目にもいいものを選んだんだ」
「それにしては蚊帳みたいなもの張り巡らせて、ちょっとカッコ悪いですね」巌勝は笑顔を作って言った。ゴール際で兄としての巌勝が中二男子の巌勝をかわしたのだ。
「これ? 蚊帳とか知ってんのね中坊なのに。まさに蚊帳を切って張ってみた。だって鳥かご、しのぶちゃんにはスカスカだし逃げられちゃうもんね」童磨はベンチの巌勝の隣に座る。
「童磨さん、俺、鳥かごメッチャいいと思います」巌勝の言葉に童磨は目を丸くして彼を見る。
「あれ、俺の名前なんで知ってんの?」
「さっき自分で言っていたじゃないですか」
 巌勝が堂々と嘘をつけたのは、ある作戦を思い付いていたからだ。怖かったが、継国巌勝、やらねばならぬと心に決めて腹に力を入れている。
 童磨は「そう」と言ってから、鳥かごを眺めながら「胡蝶しのぶ飼育マニュアル」を口頭で巌勝に披露した。鳥かごからは出さないが、中でとても贅沢な暮らしをさせる。時に足かせをつけ、自分と一緒に眠ったり風呂に入ったりもするのだそうだ。
 巌勝は本格的に吐き気をもよおしてきたが、ぐっとこらえ、笑顔を作って童磨の考えた「飼育マニュアル」を称賛した。
「実は俺も、妖精の中で飼いたい奴がいるんですよ。無理だと思っていたけど、童磨さんの話聞いてたらできそうな気がしてきた!」巌勝は拳を作って軽く震わせてみせる。
「へぇ、気が合うねみっくん! 君は誰がお気に入り? 誰と一緒に暮らしたいの?」
「俺が一番仲良くしている妖精なんだけど、多分鳥かごに入れられるのは嫌がると思うんだ。でも俺も童磨さんみたいにしたい」
「へぇ……。一番仲がいいって事はあの子だね、ばら組の縁壱君だね」そんなに綿密に調べられているのかと巌勝は驚いた。「どうするの? 鳥かごに閉じ込めるには」
「かごの中もいいよって事を覚えさせるんだ」
「え、それいいね。かごの中にいるのがいいって分からせるのいいね」童磨は目を輝かせた。本物のヘンタイだと巌勝は思い、一刻も早く彼から逃げたかったが必死で我慢し、調子を合わせる。ヘンタイを油断させるには自分もヘンタイになる事だ、そう言い聞かせた。
 童磨にかごの中にいたくさせるにはどうしたらいいかなと問われ、「俺が考えているのは緊縛プレイです」と巌勝は言った。結構適当だ。
「縛るの!? すごい! どうやるつもり? 教えてよ」すごい食いつきだ。
「色々な縛り方はあるけど、まぁどれでも縛ってぶら下げておいたらつらいでしょ?」言いつつ巌勝は、縛られてぶら下げられている縁壱を想像するととてもつらかった。しかし笑顔は絶やさない。「それから時々ハエ叩きで殴ってやって、もっとつらくするんです。ちょっと腐った納豆を塗りつけたりなんかするとメッチャハエなんか寄ってきて本当につらくなるだろうからそういうのもいいですよね!」マジで泣きそう。巌勝は思った。しかし童磨は輝く瞳で巌勝をじっと見て続きを待っている。「十分つらい思いをさせたらメッチャ優しくするんです。鳥かごの中のバスタブに湯をはって浸からせて、それからふわふわのバスローブにくるんでやります。オイルマッサージで叩かれた痛みを癒してやってからサラサラのシルクのパジャマを着せて、鳥かごのベッドに寝かせてやるのもいいですね」話しながら巌勝は、俺の脳みそはなぜこんな訳の分からない事を次々思い付くんだろうと不思議に感じていた。シルクのパジャマをきた縁壱など想像もつかない。火事場の馬鹿力脳みそ版というものかもしれない。
「なるほどぉ! 分かるよそれ、そういう作戦! 俺よく人を騙すんだけど、そういう手も使うよ」童磨はさらっと自分が人を騙す事を告白してきた。
「何度もやれば、多分縁壱はもうかごから出るのを嫌がるようになると思うんです」
「そうだね、かごから出されると嫌な事されるんだもんね」
「でも、俺、かご持ってないんですよ。童磨さんみたいな高いやつは無理だけど、それでも似たようなのとかあるかもだし、参考に写真撮ってもいいです?」巌勝は一気に言ったが、写真を撮らせて欲しいと言う事は大きな賭けのように思えていて、勇気が要った。
「いいよ! 蚊帳、外す?」童磨はうれしそうに言った。
 人を騙す事に慣れていない巌勝は、今すぐ本当の事を言いたい衝動にかられたがぐっとこらえ、蚊帳はそのままでいいと言って、スマートフォンを構えた。
 色々な角度から何枚も写真を撮る。巌勝は、近付いて撮ったり少し身を引いて撮ったりした。欲しいのはこの引いて撮った写真だった。鳥かごを挟んで向こう側に窓があるのだ。外の景色が少しでも写ればと、構図が少し妙になったが、必死で撮った。外の様子が分かる写真は一枚だけで、他のものは部屋の様子と鳥かごだけの写真になった。
「わぁ、本気だね。いい鳥かご見付かるといいね。よかったら俺、買ってあげてもいいけど? 仲間としてプレゼントするよ」
 巌勝は、童磨の申し出は丁重に断った。縁壱にはもしかするとペットショップで売っているような普通の鳥かごの方が似合うかもしれない。そう言うと童磨は
「そうかも! みっくんセンスいいよね! 縁壱君を選ぶところもいいし。日本人形のお侍みたいだもんね! なんならハムスター用のケージなんかもいいかも」殺すぞヘンタイ野郎。巌勝はもう少しで口に出すところだったがぐっとこらえた。撮った写真を民尾に送りたい。そうすれば自分の作戦はひと区切りだ。しかし、どうやって送るかが問題だった。
 雨が降ってきている。
「嵐になるね。せっかく俺がしのぶちゃんを手に入れる日なのにこんな天気ってなに?」と童磨。
「嵐の中の出会いってロマンチックですよ」白目をむきたい気持ちを押さえて巌勝が言った。
「みっくんいい事言うよね」童磨は顔を輝かせる。「ホントに気が合いそうだな、みっくんとは。こんなに趣味の事話せたのみっくんが初めてかも――」童磨の言葉はガラスの割れる音に断たれた。奥の方の部屋だ。
「風、強いからなんか飛んできたかな」童磨が部屋の方を見る。
「もしかすると魘夢かも」巌勝は言った。
 やだなやだなと言いながら、童磨は奥の部屋へ様子を見に行き、すぐに戻ってくる。「トタンだった」
 庭の柵代わりにつぎはぎにして杭に打ち付けてあるものから剥がれて飛んだようだった。童磨は雨も強いので窓に板をはってくると、巌勝が座っている席から少し離れた席まで行き、ベンチの下から工具箱を出して別の用途で使う予定だったらしいベニヤ板と一緒に持ち、奥の部屋へ入っていった。
 巌勝は写真を撮った後持ったままにしていたスマートフォンで民尾にメッセージを送る。手が震えてスマートフォンを落としそうになり、途中からテーブルの上に置いて操作する。鳥かごの写真はすべて送った。五枚あった。

 ばら組の方では歓声が上がっていた。ついに糸口がもたらされたのだ。鳴女も到着していて、一緒にガッツポーズを決めている。ちゃっかり義勇の隣に座っていた。
「これだ、鳥かごの向こう、窓から外が見える」天元が民尾の操作するスマートフォンを見ながら言った。
「兄上君、よく撮れたな」炭治郎は感心して言った。
「えらいわ、すごいわ、怖いだろうに、すごいわ」蜜璃は言って、小芭内の手をぎゅっと握った。驚く小芭内を見て慌てて手を離す。
「しっかしこれェ、どこか分かるか? この辺はどこも同じような景色だし、この辺かどうかも怪しいからなァ」と実弥。
「この辺ですぅ」民尾が言った。「この窓の外に見えるフェンスは冬にイノシシの皮を干してあるフェンスなんだ」
「すごいな魘夢君」炭治郎が目を丸くした。
「俺、SNSに投稿するために映えるスポットいっぱい知ってるんだ。ここもその一つ」
「イノシシフェンスがか?」天元が手で顎をつまんで目を見開く。
「違います、この家です」
 驚く皆に、民尾は巌勝の監禁されている棄てられたようなログハウスを知っているのだと言った。鍵がかかっているので中には入れないが、いかにも見捨てられたような空気を醸し出すログハウスを背景に何度か写真を撮ったと言う。
「よし、位置を言え」小芭内が力強く言った。
 民尾が地図アプリを出し、ログハウスの正確な位置を妖精たちと炭治郎に示した。小芭内が、義勇としのぶ、蜜璃、そしてカナヲはここで待機するように言い、民尾には直ぐに警察に知らせるように指示した。そして、鳴女にはオカリナを持って一緒に来てくれと言った。
「私も行きます」しのぶが言うと、蜜璃も行くと言ったが小芭内は、
「人数は十分だ。連絡のためにここをアジトにして、君たちは待機していてくれ」と彼女たちを押しとどめた。
「さ、行きましょう」炭治郎が玄関ドアを開けて出て行き、庭の外に置いてある自転車の所へ行った。
「みんな絶対戻ってきて!」蜜璃は叫び、思わず涙をこぼした。
「大丈夫よ、甘露寺さん」しのぶが言うと、蜜璃はかぶりを振り、
「分かってる、分かってるけど、なぜだかちょっと、昔の伊黒さんの背中を思い出してしまって」と言った。しのぶは優しく蜜璃の手を握り、二人で上がり框の上に座った。その端に立つカナヲも心なしか瞳を潤ませている。しのぶの隣に座る義勇はずっと黙っており、けがのため一緒に行けない事がつらいのかもしれないと、彼女は空いている方の手で義勇の手を握った。彼が驚いてしのぶの顔を見ると彼女は微笑み、
「仕方ないです、待ちましょう」と言った。

とべ!オトコマエ

 相変わらず雨も風も強い。民尾の着替えを持って家を出た時にはまだ雨は降っていなかったため、雨合羽を着ずに自転車を飛ばす炭治郎はずぶ濡れになっていた。激しい雨粒は妖精たちにとってはかなり厄介なものだ。彼らはコバンザメのように炭治郎の腹の辺りにしがみついているが、縁壱は大きな雨粒をものともせず目を細めて炭治郎の横を飛んでいる。そんな彼を見て小芭内は、やはり縁壱さんはカッコいいなと思った。自分はあんな風にはできないと思う。しかし敵への闘志が萎える事はなかった。蜜璃の声が耳の奥にこだまする。
 みんな絶対戻ってきて!
 すでに外へ飛び出していたためその表情は見えなかったが、心の中で小芭内は必ず戻ると、誰一人欠けさせないと叫んでいた。
 皆、縁壱のようにはなれない。彼は唯一無二の存在だ。しかし、自分たちも一人一人が唯一無二の存在なのだと、今、小芭内は実感していた。
「大丈夫ですか、皆さん!」前を向いたまま猛烈な立ちこぎをかましながら炭治郎が叫ぶ。皆、大丈夫だ、もっと飛ばしてくれてもかまわないと叫び返す。

 廃屋ログハウスの庭に駐めた軽ワゴン車の助手席で、パンツ女の兄はスマートフォンを一心に眺めていた。エロ動画を散々漁って、ようやく好みのものかもしれない動画を選んで見始めたのだが、庭に滑り込んできた自転車に目を奪われ、スマートフォンを取り落としてしまった。床に落ちたスマートフォンを拾う余裕もなく、慌てて車を飛び出す。おかしな奴をログハウスに入れてしまえば童磨を完全に怒らせてしまう。それは恐ろしかった。
「おい! なんやお前!」怒鳴りながら、自転車を降りた炭治郎の方へ歩み寄る。
「あんたと話してる暇はないんで」炭治郎は言った。
「なんやとォ!?なめてんのかゴラぁ――」息巻くパンツ女の兄に、炭治郎は自転車を投げつけた。彼が自転車を抱えてよろめき呆然としているのを見る事もせず、ログハウスのドアを開ける。
「君は……」巌勝と妖精の鳥かご飼育について語り合っていた童磨が立ち上がる。炭治郎を見て、巌勝の目は輝いた。
「俺は竈門炭治郎だ」炭治郎は戦闘開始を宣言するかのように大きな声で名乗った。その脇を抜けて、目にもとまらぬ速さで鳥かごの所まで飛んできた縁壱は、かごの頭頂についている輪っかを両手で持った。巌勝は一瞬そんなもの縁壱には持ち上げられぬと思い手を添えようとしたが、「こいつは縁壱なのだ」と思い出し、手はテーブルの上に置いた。童磨が縁壱に気付く。
「あ、縁壱君じゃないか! よかったねみっくん」童磨は鳥かごを持って天井近くまで上昇する縁壱を目で追う。「なんていうか、助けに来てくれたのかな? 俺を倒しに来たの? その大きさで人間相手にどうするっていうの? 向こう見ずって君みたいなのをいうんだよ?」
 巌勝は童磨から顔を背けてにやりとした。足元では小芭内が縄を切ってくれている。
 童磨がからかうのには応じず、縁壱は輪っかを持ったまま自分を軸に二回転し、そのまま鳥かごを童磨に投げつけた。ガシャっという音と童磨の悲鳴が廃屋に響く。童磨は床に倒れた。鳥かごは彼の顔面に命中していた。
「ド派手に決まったなぁ!」天元が嬉しそうに叫んだ。
「兄貴、兄貴、どどもないか兄貴」炭治郎の自転車を庭に投げ捨てたパンツ女の兄が飛び込んでくる。「ちきしょう……」ベンチから立ち上がっている巌勝と入り口付近に仁王立ちになっている炭治郎を交互に見る。「どっちが兄貴を……」
「どっちでもいいだろ、それが重要なのか?」炭治郎が言ったのと同時に童磨が使っていた鉄の工具箱が飛んできて、パンツ女の兄の腹にどすっとめり込んだ。彼は唸り声というよりは「キュウ」と空気の抜けるような声を発して床に倒れた。胸より先に頭を打ち付けたため、そのまま失神してしまう。工具箱を投げたのは巌勝だった。
「継国兄弟パネェな」小芭内はぼそっと言った。かなり心配して、攻撃より介抱だと巌勝の所まで一目散に飛んできたのに。
「き、君たちひどいね」鼻と口から血を垂れ流しながら童磨が膝をついて立ち上がった。
「ひどいのはどっちだァ」実弥がいつも背中に背負っている鉄製爪楊枝を童磨の目に突き付けて言った。「止まれ、動いたら刺す」
「どうして? 君がそう言うなら動かないけど、俺、何も悪い事してないよ? みっくんを殴ったのはそいつだし」床にのびているパンツ女の兄を指さす。「俺とみっくんは同志なんだから。ね、みっくん」巌勝は無言で縁壱を見た。縁壱は不思議そうな顔で彼を見返す。「みっくんは縁壱君をハムスターのケージで飼うんだって。緊縛と鞭打ちを駆使してメロメロにして、回し車にくくり付けてあっついロウをたらしながらめちゃめちゃ回すんだって! すごいでしょ? 発想がエロいよね!」
 小芭内は目をむいて巌勝を見た。巌勝は大汗をかいている。
「違う、それは違う、何もかもこいつを油断させようと……」童磨がヤバい奴だと分かっていながらも、彼を騙した罪悪感に巌勝の言葉は尻すぼみになって途中で消えてしまう。小芭内は笑った。
「分かっているぞ、兄上君」
「え? どういう事?」童磨が悲しげな表情になる。「みっくん騙したの? うそなの? ひどい」言いながら、童磨はすっと寄ってきた炭治郎を見た。
「人にひどいひどいと言う奴に限って――」炭治郎は童磨の腹に拳を沈める。「一番ひどいし卑怯だ」
 童磨は床にくずおれた。やはり、鬼ではなく人間だ。実弥は危うく本当に童磨の目に鉄製爪楊枝を突き刺してしまうところだった。
「ひどい……」殴られた事なのか鳥かごを投げつけられた事なのか、はたまた騙された事なのか、何に対してひどいと言っているのかは不明だが、童磨は少し落胆したような声で言った。前世の彼から推し量って、落ち込んでいる時間は短いだろう。実弥は武器を背中のケースにしまって、鳴女を手招きした。仕上げは今がやり時だ。
 鳴女は童磨の目の前でホバリングし、オカリナを構えた。
「お、来るぞ怪しの調べ。あんまガッツリ聞くなよお前ら」天元が妖精たちと炭治郎、そして巌勝に言う。
 鳴女はオカリナを吹き始めた。今回の曲は、夢を見させるための曲ではなく、自白させるための曲であった。童磨のスマートフォンの在り処を自白させると、炭治郎がそれを取り、オカリナの音色に操られた童磨の口からもたらされる情報を頼りに、偽富くじの売り上げを全て元の持ち主の口座へ送金して返していった。
「みっく……いえ、兄上、まただいぶ殴られましたね」縁壱が巌勝の口元にできた痣にそっと触れて言う。
「平気だ。全然平気だ。それより、嘘だとはいえお前をおかしな妄想に巻き込んでしまった。許してくれ」巌勝は目を伏せる。縁壱は微笑んだ。
「前にも申しましたが、兄上は生真面目過ぎます。詫びなどまったく必要ありませんよ。縁壱、兄上のためならひねもす回し車で回っていてもかまいませぬ」
「お前本気で言っているのか。ロウをたらされるんだぞ」
「だから真面目が過ぎるんだって」小芭内が巌勝の頬をぺちぺちと叩いた。この兄弟、放っておけば日が暮れるまで平行線だぞ。
 童磨は目を閉じて鳴女のオカリナをもっと聴きたいなどと言っていたが、近づいてくるサイレンの音に気づくとぱっと目を開けた。
「え? パトカー? いや、それはヤバいよ、俺、色々騙してるから警察はすっごくヤバいんだけど。こないだの結婚詐欺とかもばれたらおしまいだよ」しかし、床に横たわったまま童磨は自白モードから覚めない。ここからは人間の仕事と張り切る炭治郎と巌勝を残して、妖精たちは奥の部屋へ避難した。

 いつもの庭の「母屋」玄関で、しのぶ、蜜璃、民尾は、民尾のスマートフォンを囲んで天元が送ってくる童磨逮捕劇の写真に見入っていた。
「カッコいい、炭治郎君カッコいい! みっくんもカッコいい~!」民尾がうっとりしすぎて白目になる。蜜璃は画面のどこかに小芭内が写っていないかとなめるように見ていたが、見付ける事はできなかった。
「あっ」通知音が鳴って自分のスマートフォンを見ていた義勇が声を上げた。皆、義勇を見る。彼の顔はみるみる明るくなり、百パーセントの笑顔になる。
「どうしたんです冨岡さん、気味悪いですよ」としのぶ。
「戻って来た。二十万円が、俺の口座に戻ってきた」思わずしのぶに抱き付き、「痛いっ」と床に倒れ込む。カナヲは目をむく。嫁入り前の乙女である師範に抱き着くとはこの男……!
「何やってるんですか、もう」しのぶは呆れ顔で笑った。鳴女の自白作戦が成功したことに興奮している蜜璃の胸のきゅんきゅんいう音が聞こえそうだが、ここに小芭内がいたならしのぶの胸の密かなきゅんきゅんも嗅ぎ取っていたかもしれない。
「二十万、返ってきた」床に横になったまま義勇が繰り返す。「よかった、これで本当に皆で温泉に行ける」
「その前にけがを治してくださいね冨岡さん」しのぶは義勇が起き上がるのを手伝う。
「俺とみっくんはもっともっと体を鍛えなきゃだなぁ」民尾は胸の前で手を組んで言った。「もうこの地区最強の中学生になるんだ」鼻息の荒さのわりに小さい目標を掲げる。
「そろそろ帰ってくる頃かしら、みんな」上がり框からしのぶが母屋のおばはんの靴を挟み込んだままの玄関ドアを見た。
「ホントね、そろそろね」蜜璃はしのぶの隣に座っていたが、弾むように飛び上がった。そのまま玄関ドアの方へ飛んで行く。「私、みんなを迎えに行ってくる!」
「『みんな』かしら」微笑みながらしのぶは蜜璃の背中を見送った。義勇はしのぶの言う意味がピンとこずに首を傾げている。そんな義勇を見て、こんなふうだからシクラメンの折れた茎を接着剤でくっつけたりするのだとカナヲは無関係な記憶を持ち出してフンと鼻から息を吐いた。

 

 夕方、風は弱まり、雨は止んだ。
 鳴女はばら組の部屋で、今回の作戦に参加した妖精たちと親交を深めた。胡蝶しのぶと甘露寺蜜璃、そして栗花落カナヲという女子の友達ができたし、何より大好きな「ぎゆゆ」と「お知り合い」になることができた。更に他の皆ともSNSで相互フォローの間柄になることができた。夢のようだった。
 帰り道、飛びながら彼女はオカリナをぎゅっと胸に抱きしめていた。何がどう転ぶか分からない。不思議なものね。ここ数日の出来事を思い出しながら鳴女は飛ぶ。鬼舞辻組の巣まで報告に行かねばならない。
 それにしても産屋敷組の皆さんは本当に気さくな人たちばかり。産屋敷さんの人柄が組の空気となってゆきわたっているんだな。鳴女は産屋敷組に入れたらという望みを抱いていた。植物ガーディアンはできないかもしれないが、音楽に関わる仕事が何かあるかもしれない。履歴書を書くとしたらどう書こうか。
 夢見心地で無惨の巣について、鳴女は「あっ」と声を上げた。
 それまで鬼舞辻組の巣のあった場所には藁くずしかない。それも蜘蛛の巣に引っかかったまま風にあおられぶるぶる震えている数本しか残っていなかった。
「無惨様!!」鳴女は叫んだ。何があったのか深く考えるまでもない。あの強風に吹き飛ばされた何かが巣を破壊したのだ。
「無惨様!」再び叫ぶ。巣が吹き飛ぶほどのものが鬼舞辻無惨に直接当たったならば……想像するだけで鳴女は震えた。砂粒ほどの忠誠心しかなくとも、それは愛情と同じ大きさという訳ではない。産屋敷組に移籍する事を夢を見ていた鳴女は、上司への親しみがこれほど大きなものであった事に驚き、大きな一つ目からは涙がこぼれた。
「無惨様ぁ!」呼びながら鳴女は橋の下を何往復か飛ぶ。雨のせいで、いつもはちょろちょろとしか流れていない天神川の水かさは少し増している。
「無惨様! お返事を!」不吉な想像を振り払うように両手で鉢の辺りの髪を掴んで引っ張りながら飛び回る。川に落ちたのかと、下流へ向かって少し飛んだ時、
「どうした、鳴女君」と声を掛けられた。振り向くと、縁壱がいた。植物ガーディアンの我妻善逸と連れ立っている。雨は止んでいるが、天候が回復したとはいえず、念のために二人とも雨合羽を着、縁壱の持っている風呂敷包みにも袋を被せてあった。善逸とはたまたま行き先が同じであった為に共に飛んでいたようだ。
「無惨様が……」鳴女は巣の跡を二人に見せた。「御姿がどこにも見当たらず……さがっ、探して……」鳴女は嗚咽を押さえられなくなっていた。
「我妻君、何か聞こえるかな?」縁壱は袂から手拭いを出して鳴女に渡しながら、善逸に尋ねた。善逸はかぶりを振る。まだ少し強い風の立てるたくさんの物音、水かさの増した川の流れなどが邪魔をしているのかもしれない。善逸は被っていた雨合羽のフードを頭から除けて、橋の下を高く低く高度を変えながら何往復か飛んだ。縁壱も橋の近くの土手などを飛び回る。鳴女も、縁壱とは逆の側を飛び回って無惨を探した。
 天神橋から五十メートルほど下流で、鬼舞辻無惨は自分を探し回る三人の妖精を眺めていた。鬼妖精の毒を収納した木箱につかまっている。木箱は、川岸近くの葦にひっかかっていた。これが流されればまた更に下流に行ってしまうと、無惨は葦本体につかまる事にする。木箱の中の瓶はすべて割れてしまい、毒は隙間から川へ流れていってしまった。もしその毒を摂取した生き物がいれば、もしかすると死んでいるかもしれない。
 足がかりにしている葦の節は低く、何度も足を滑らせて、無惨は下半身を殆ど川の中に浸けてしまっている。一刻も早くここを逃れ、建物の中へ避難したかったが、継国縁壱にこの惨めな状態を見られる訳にはいかず、彼らをずっと眺めている。
「なにッ?」無惨が呻いた。誰が呼んだか、応援の産屋敷妖精が二人到着している。鳴女がぺこぺこしながら何やら話している。「あいつ、産屋敷の犬になりやがったな」歯ぎしりをする。鳴女があちらへ寝返れば、自分の味方はもう毒で操る昆虫しかいなくなる。しかもその毒は、強風で飛んできた空き缶に巣を持っていかれた時に失ってしまっていた。
「咳をしてもひとり、か」
「何言ってんだァお前」
 突然声をかけられ、無惨は飛び上がるほど驚いた。振り向くと背後に不死川実弥がいた。激しく振り向きすぎて手が滑り、無惨は水中に肩まで浸かってしまった。
「おいおいィ、飛べねェのかよ、けがしてんのかァ?」実弥は無惨の襟首をつかみ、少し上昇して無惨を水から引きあげた。その時、無惨は自分が飛ぶ力を失っている事に気付いた。木箱につかまっている間に毒にやられたのかもしれない。もしかすると、飛べないだけでなく、もっと深刻な体への影響があるかもしれない。血の気が引く。「おい、大丈夫かァ?」言いながら顔をのぞき込んでくる実弥の視線を、無惨は顔を背けてよけた。
 実弥に呼ばれ、他の妖精たちも集まって来た。最悪だ。無惨は死んだ方がましだったと今の状況を呪った。実弥が「こいつ水吸って重い」と言い、無惨を運ぶのを縁壱に任せた。実弥と小芭内が、無惨を縁壱の背に寄りかからせる。縁壱はそのまま無惨を負ぶって鳴女の巣のある公園プールの更衣室まで飛んだ。
 今世でまでこんな恥辱を受けるとは。無惨は歯ぎしりをする。右隣を飛んでいる我妻善逸が耳を塞いでいる。左を見ると、鳴女が飛んでいた。泣いている。無惨は顎の力が抜け、いつの間にか歯ぎしりをやめた。
 仕方ない。本当に疲れ切っていたので、「本当に仕方なく」無惨は縁壱の肩にぐったりと頭を預けて脱力した。
 鳴女の巣に着くと、縁壱が持っていた荷物から新しい下着と服を出し、無惨に着ろと言ってきた。
「とりあえずでよいので、着替えて下さい。風邪をひきます」鳴女が言った。無惨は、飛べなくなっている今の体に追い打ちをかけるとどうなるかと想像し、「とりあえず仕方なく」縁壱の差し出す服に着替える事にした。
「悲惨だなぁ」善逸が言う。「これってまさに日頃の行いってやつじゃん」
「今回のは明らかに――」小芭内が腕組みをしながら無惨を見下ろす。「冨岡に鬼舞辻ヤンマをけしかけた罰が当たったってやつだな」
 小芭内に見下ろされ、嘲笑されながらも無惨は無言だった。
「ひ、人は変わります!」鳴女が無惨の横に膝をついて叫んだ。無惨は驚き、目を見開いた。「兄上君を見て! あんなにいい子じゃない!」
「うーん」小芭内は目を閉じ、目頭に力を入れる。「比べるかなぁ」
「す、すみません」鳴女はしゅんとした。すっかり産屋敷組の連中になじみやがってこの獅子身中の虫め。無惨は鳴女を睨み付ける。その時ふと視線を感じてそちらに目を向けると、縁壱がじっと無惨を見ていた。その表情からはなんの感情も読み取れない。無惨はぞっとした。
「鬼舞辻無惨、お前が飛べないのは一時的なものではないな」縁壱は言った。無惨は相当なショックを受けたが、それを表に出すまいとした。鳴女は前髪の間から、大きな一つ目で無惨の顔を見る。
「無惨様……おけがを?」
「擦り傷から毒が大量に入ったのだ」縁壱が言った。飛べなくなってしまったショックよりも縁壱にそれを公表された恥辱が勝り、無惨は真っ赤になっていた。
「まさに日頃の行いだよね!?」善逸が顔を輝かせる。実弥が人差し指で善逸の鼻の辺りを指す。
「言ってやんなって、妖精が飛べなきゃもう隠居だぞォ」実弥の言葉が耳に入って、無惨は眉根をぎゅっと寄せた。
「せっかく生まれ変わって生きる今世、前世と同じような事をして何が面白いのだ、鬼舞辻無惨」縁壱が言う。口調は穏やかだ。
「お前には分かるまい」無惨は言ったが、縁壱に分からない何かとは一体なんなのか、自分にも色すら分からなかった。
「私に分からない事は山ほどある。君の事もその一つだろう。しかし私は君が鬼ではない事は確かに知っている」縁壱は口元に笑みを浮かべている。「君は鬼ではない。『鬼妖精』と名乗っているが、鬼ではない。君はただの妖精だ」
 無惨は床を睨み付けたまま動かなくなった。
「ただの妖精っていうか、飛べない妖せ――」言いかけて善逸は実弥に頭をはたかれる。無惨は目を上げて鋭い視線を善逸に投げたが、突然はっと気付いた。
 今世で、自分の周りにこんなに人がいた事は未だかつてない。鳴女を見る。鳴女は
「無惨様、あのまままではどうなっていたか分かりません。とにかくとにかく助かってよかったです!」と何度も頷きながら言った。

 産屋敷組の妖精たちが引き揚げた後、鳴女は思い出して言った。
「童磨をやっつけました。無惨様のお気に召さぬ事とは思いますが、鳴女も産屋敷組の面々と共闘いたしました。あのオカリナを使いまして、お金を取り戻しましたよ。無惨様の百万円」
「そうか」無惨はぼそりと言った。「お前も一緒にあいつらのところへ行けばよかったのだ。あいつらと暮らせ。フードコートなどで琵琶でも弾いて暮らせ」
「無惨様、拗ねるのはよして下さい」鳴女の言葉に無惨は驚き、顔を上げた。「私が産屋敷組の皆さんと仲良くなってしまったのは単にぎゆ……いえ、ととと冨岡義勇のファンだからです」
「ファン? 何なのだ冨岡は、アイドルか」
「そのようなものです。たまたま関りができたので私も図々しく、とととと冨岡義勇とお近づきになろうとそのチャンスを利用したまでで。実際のところあの人達はめちゃくちゃいい人です。はっきり申し上げまして、鳴女の心のオアシスです、う!ぶ!や!し!き!」鳴女は熱くなってきた。無惨はきょとんとしている。「しかし無惨様! オアシスとは、オアシスです!」
「何言ってんだお前……」
「私はキャラバン。鬼舞辻組のラクダです」
「商人ではないのか」
「とにかく、オアシスとキャラバンなのです。無惨様、また巣を作り直しましょう。巣というより、私、見てきたのですが、産屋敷組の妖精たちはもっとしっかりした建物の中に小さな建物をこしらえるようにして暮らしています。こちらもそのようにいたしましょう。鳥じゃないのですから」
 前髪の隙間から覗く鳴女の大きな一つ目を見ながら、無惨は黙って頷いた。よく分からないが、自分と鳴女は何も変わらないままだという事なのか。自分が飛べなくなってしまったという事以外、元通りなのか。
「それから、継国巌勝は本格的に体を鍛え始めました。彼をどう使うのか、また放っておくのか、それは無惨様のお決めになる事です」鳴女が言う。無惨はその企てをしばらく失念していたが、あまりにくたびれていたため、どうするか決める事はできなかった。なぜか、負ぶわれてここまで来た時の、縁壱の背中のぬくもりが急に思い出された。彼の長い髪が赤子をあやすメリーのように視界の端で揺れていた事も。それを心地よい記憶として引っ張り出している自分に気付き、無惨は困惑した。疲れすぎている。勝手に鳴女の布団にもぐり込んで目を閉じる。彼はすぐに眠りに落ちてしまった。
「無惨様……」鳴女は驚いて無惨を見ている。気を失ったわけではなさそうだと判断して、布団の隣に置いてあるクッションに腰を下ろした。
「毒は、飛べなくなっただけで済んだならいいんだけど」独りごちる。もし具合が悪くなった時にはどうすればいいのか、鳴女は胡蝶しのぶに頼る以外の考えを思い付けなかった。

 

 二日ほどぐずついた天気が続いたが、その後ようやくすっきりと晴れた。
 巌勝と民尾は今日もトレーニングに励んでいる。ランニングの折り返し地点の河原で筋トレをしていて、今日は炭治郎も一緒だった。
 炭治郎は八歳の時に妖精の義勇と出会い、その二年後、前世の記憶を取り戻した。そして直ぐに体を鍛え始めたので巌勝と民尾の先輩としてトレーニングのやり方を教えたりもしている。十分に体を鍛えていない内に前世でやっていた事を真似たりするとけがをするという事も、炭治郎は巌勝に教えた。炭治郎はそれを義勇から教わっている。
「あっ、知ってる? 童磨保釈されたんだって」炭治郎の言葉に巌勝と民尾は親指を下に向けてブーブー言った。「逃げたりしないといいけど……でもテレビに結構出ちゃったし、あの弟さんとか、肩身狭そうだね」炭治郎は気の毒そうに言った。
「もしかすると妹はすでにいじめられてるかも」と民尾。
「え、そうなの? 俺気付いてない」
「みっくんは周りに興味持たなさすぎだよぉ」民尾が笑った。彼が言うには、それまでつるんでいた何人かの女子たちがパンツ女と一緒に行動していないらしい。彼女が他の女子に声をかけても愛想笑いを返されるだけで、一緒に弁当を食べたり休み時間を過ごしたりする事はないのだそうだ。
「嫌な奴だって思ってても、いざそういうの見るとなんだかこっちも嫌な気分になったりするよね」炭治郎は猛烈な勢いで腕立て伏せをしながら言う。手が砂地にめり込まぬよう、肩と平行に置いた竹刀を握っている。
「そうだよね、ひとりぼっちとかはなんかかわいそうだよね」民尾は体育座りになって空を見上げる。その隣に胡坐をかいて座っている巌勝も頷いて同意した。
「ちょっと」炭治郎が体を起こす。「君たちさぼりすぎじゃない?」
「あ、それより鳴女さんが冨岡さんの私設ファンクラブを立ち上げたの知ってます?」民尾が言うと、炭治郎は目を輝かせてその話題に食いついてきた。ファンクラブといっても、メッセージアプリを使って作るグループで、基本的にはそのグループの中で「冨岡義勇の魅力を語り合う」とか「冨岡義勇に関する情報交換をする」とか「ばら組全体についての語り合いや情報交換をする」などして楽しむものらしい。「ばら組箱推しいけるそうで、俺は縁壱さん推しなんだけど、いいよって言ってくれたから入ったんだ」
「ちょっと魘夢、それっていつなの? 俺、禰豆子に連絡しなきゃ」炭治郎は汗だくのままハーフパンツのポケットからスマートフォンを出した。「もしかして兄上君ももう入ってる?」炭治郎に訊かれて、巌勝はかぶりを振った。女子は理解できないと思ったが、よく考えると民尾も炭治郎も女子ではない。そう思うと笑いがこみあげてきた。
「馬鹿にしてる? みっくん」炭治郎がスマートフォンで巌勝の肩を突いた。
「してません、してないよ、なんか微笑ましかっただけで」
「俺と禰豆子は前世からの義勇さん推しだからね。あー、俺が作るべきだった、ファンクラブ。その発想がなかった」あったらちょっと怖いよと巌勝は思った。「楽しみだなぁ、語り合い」炭治郎は微笑みながら禰豆子にメッセージを送っている。
「でもそやって炭治郎君とか禰豆子ちゃんとかがネットで語り合ってるのとか、冨岡さん知ったらどう思うんだろうな」巌勝が言うと、炭治郎は
「絶対言っちゃダメだよ。俺が恥ずかしいから」と言い、三人とも笑った。

 当の義勇はまだ部屋で療養中である。なにせ飛べないので外に出る事は危険が伴う。彼は退屈して五分毎に小芭内にメッセージを送っている。実弥に送ってもいいのだが怒られる可能性もあるので、同じ怒られるのでも小芭内の方がまだマシだと、彼に送っているのだ。五回に一回ほど、小芭内は返事をくれる。バラの写真や実弥や天元、カナヲの写真を送ってくるだけの事もあるが、ちょっとした退屈しのぎにはなる。
 しかし一番の楽しみは見舞客が来ることだった。一昨日胡蝶しのぶが来たので、今日か明日、また来るのではないかと義勇は期待していた。座椅子に座り、ちゃぶ台の上の円形の缶のふたを開ける。飛び出すように甘い香りが鼻腔をくすぐってきた。昨日の夕方小芭内が持ち帰って来たこの缶には、甘露寺蜜璃が焼いたクッキーが入っている。勝手に食べると小芭内が怒るかもしれないと思い付き、義勇はそのまままたふたをしめた。
 退屈だ。スマートフォンを手にした時、
「こんにちは、冨岡さん」としのぶがやってきた。
「すごい」義勇が言うと、何がすごいのかとしのぶは首を傾げて言った。しかし義勇本人にも何がすごくて「すごい」と言ったのか分からなくなってしまい、彼は黙ってちゃぶ台の端を見つめる。しばらく後、
「お前、暇なのか?」と義勇は訊いた。
「あら。暇だと思います?」
「いや。でも、よく見舞いに来るから少し不思議だと思ったんだ」
「忙しいには違いありませんけど――」しのぶはちゃぶ台の上で指をすべらせ、左右の端から端へ往復させる。それに合わせて義勇の瞳も端から端へ行ったり来たりした。「暇っていうものは、作るものですからね!」しのぶは手を引っ込め、膝の上に乗せた。はっと我に返って二、三秒ぼーっとしてから義勇はクッキーの缶をしのぶの方へ押しやる。
「甘露寺が焼いたクッキーらしい。胡蝶も食べるといい」自分がもらったものでもないのに勧める。あら、私の話聞いてました? しのぶは思ったが、笑顔のまま缶のふたを開けた。
「まぁ、甘い香り。おいしそうですね。甘露寺さんは本当にお料理が上手だわ」しのぶは少しクッキーを眺めてから、「冨岡さんはもう召し上がりました?」と尋ねる。
「いや、俺はまだだ。伊黒に訊いてみないと食べていいか分からない……あっ」義勇は自分で自分の言っている事に驚いた。しのぶも「あらっ」と声を上げる。思わず顔を見合わせ、二人は声を上げて笑った。「すまない、もう少しで胡蝶が伊黒に怒られるところだった」義勇が詫びると、しのぶはふふふと笑みを浮かべながらいつものリュックからカステラを出してきた。
「代わりと言ってはなんですが……本部のカステラです」
「ザラメがざりざりのやつか」
「ざりざりのやつですよ。やはりお好きですか? 冨岡さんも」義勇はこくこくと頷き、茶を淹れるべく立ち上がる。少し前なら自分がやると言っただろうが、しのぶは今日は義勇に任せた。少しずつ動いた方がいい。

 バラ花壇では、小芭内と蜜璃が縁石に並んで座っていた。蜜璃が来るまで一緒に仕事をしていた実弥は、休憩をしてくると、天元と連れ立って飛んで行った。
「ほら、あそこ」蜜璃が庭のフェンスの方を指さす。「ちょっとしたギャラリーができているわ」フェンスとブロック塀の間から、十数人の妖精たちが庭の中を覗いている。「人気者ね」
「うーん……あれは不死川を見に来てるんじゃないか? 上手くすると縁壱さんに会えるかもとか。後、人気者のマネージャー宇髄とか」小芭内は水筒の麦茶を飲む。
「まだ見てるわ。伊黒さんのファンなのよ!」ファンに見られてる伊黒さんカッコいい! 蜜璃は思うが、はっとして「私隣に座ってていいのかしら」と言う。
「伊黒さんが人気者になるのは嬉しいけど、ちょっとだけ寂しいな」言ってから蜜璃はそばに置いていたバスケットをさっと取り、膝に置いた。小芭内がそれを見て、
「冨岡の見舞いか?」と訊くと、蜜璃は頷いて、バナナチップスを作ってきたと言う。
「寂しいな」小芭内はぼそりと言った。目を見開いて彼を見た蜜璃の頬が、みるみるピンクに染まる。
「やだ、伊黒さん、やだ、かわいい」蜜璃の言葉に、今度は小芭内が赤面してしまった。何を言ってるんだ俺は。あわてて今日一緒に食べるランチの予定時刻を確かめる蜜璃に小芭内は
「俺は昔、小学生の頃だが、クラスの演し物でお姫様役をやった事があるんだ」と言った。唐突な思い出話に蜜璃は一瞬面食らったが、直ぐに、見たかったといつも通りきゅんきゅんの笑顔になった。
「不死川か冨岡が写真を持っているかもしれない。俺はトラウマ級の出来事だったから、写真は持ってないんだ」苦笑いをする小芭内を、蜜璃は抱きしめそうになったが、彼はついと両足を縁石に上げて膝を抱いた。その膝に顎を乗せる。
「俺は未だに姫から抜け出せていない気がして……その……なんだ、やはり、ダブル姫君みたいな事に、甘露寺といてそんな事になっていて甘露寺が恥ず……いや、そうじゃないんだ」小芭内は言葉を切った。蜜璃は曇りのない瞳で彼を見つめ、続きを待っている。「そうじゃなくて、俺がいいたいのはそうではなくて……」小芭内は蜜璃の顔を見た。「どうなんだろう?」
 何が……伊黒さん、何が「どう」なのかしら? 蜜璃は戸惑ったが、頭の中にさぁっと天使が降ってきて直ぐに笑顔になる。
「伊黒さんがもし誰かのお姫様なんて事にされていたとしても、私にとっては私が伊黒さんの――」小芭内は「ああ!」と言って蜜璃の言葉を遮った。
「それだ甘露寺。周りがどう思っても、俺にとっては俺は姫じゃなくて、甘露寺がひ……」小芭内は小さく咳払いをして「甘露寺が姫、みたいなもの、なんだ」と言った。また二人とも顔を真っ赤にしている。
 バラ花壇の反対側の縁石に実弥、天元、縁壱が腰掛けている。小学校のイナバ物置カフェテリアで出くわし、少し前に揃って庭へ戻ってきていたのだ。
「いまいちパンチに欠ける男だな伊黒は」天元がクククと笑う。二、三度頷きつつ縁壱は
「ろまんちっくで良いと思う」と言った。縁壱さんがロマンチックとはと、実弥は思わずにやにやしてしまう。
「まぁ、もうちィとパンチも欲しいけどなァ、伊黒がやっと甘露寺を見ながらバックダッシュすんのやめたんだァ。めでたいことじゃねェか、ロマンチックならなおさらなァ」
 すぅっと風が通りぬけ、三人が見上げると、すらっと伸びたラ・フランスの二番目の花が青空を背景に咲いている。バラの放つ華やかな甘い香りは三人をかすめ、小芭内と蜜璃の髪をなで、フェンスに集うときめくギャラリーたちの頬をそっとつついて庭の外へ消えていった。

【完】

 

次作:純愛ギャロップ
前作:らせんしんどろーむ

二次創作INDEX【小説】