氷上のデブ

思いついた、試した、いつまで続くか分からない。

純愛ギャロップ

 

疑惑のトロット

 冷麺をすする合間に不死川実弥は鼻をうごめかせていた。
 こいつ、いい匂いがしやがる。
 隣で冷麺を口に押し込むようにして食べている冨岡義勇の事である。
 二人は朝から湯屋に来ている。湯屋は小学校のイナバ物置内にあり、彼らばら組の住む物置から妖精の飛行で五分もかからずに来られる。朝湯に入った時には皆たいていそこの休憩所で朝食をとる。
 酢とごま油の香りの隙間を縫うようにして届く、湯上りの義勇から漂う香りは実弥の鼻腔だけでなく心もくすぐってくる。
 ドキドキしてる場合か、野郎に。実弥は顔をしかめた。しかし気になるので
「冨岡お前、なんか香水とかつけてんのかァ?」と訊いた。
 義勇は麺を咀嚼しながら「なぜ?」と問うような顔をして実弥を見る。口の大きさに対して押し込む麺の量が多すぎるのか、口の端から顎につゆが垂れている。
「なんかそんな匂いするなって」実弥は六人座れるテーブルの端の方にあったボックスティシューを取り、義勇の前に置いてからコップの麦茶を飲んだ。
「石鹸かシャンプーか……そういう匂いじゃないか?」口の周りを拭きながら義勇が言う。「お前もなんかいい匂いするぞ」言って、実弥の肩の辺りをくんくんと嗅ぐ。
「そうかいそうかい分かったからやめろォ」自分で言い出しておいてと思いつつ、実弥は義勇の顔を向こうへ押しやった。
 義勇はひと月ほど前に大けがをして長らく療養中だったが、今はもうこういう事をしても痛がらなくなり、少し飛べるようにもなった。長時間はまだ無理だが、仕事ができるまでには回復している。今朝ここへは鎹縁壱こと継国縁壱に連れてきてもらったが、帰りは実弥の肩を借りて半分は自分で飛んで帰るつもりだ。
「湯上りだから注文してしまったが、冷麺はまだ早かったかもしれないな」義勇は笑う。うれしそうだ。緩急のつきすぎる実弥の態度に時にしょんぼりしてしまう事もある義勇だが、実弥が「緩」モードの時はうれしいのか少し口数が多くなる。その事に、最近実弥は気付いた。ばら組リーダーの伊黒小芭内が言うには、けがをして以降実弥は義勇に対してだいぶ丸くなったらしい。
 二人は湯屋を出て、物置から外へ出た。義勇は実弥の肩に手を置き、少し力を入れて握っている。その手が熱く、実弥はまたドキドキしていた。
 確かにこいつがけがをしたあの時、俺の中で何か変わったかもしれない。こいつが死んだかもって思った時に何か歯車みたいなものが回った。それはそうかもしれないが……これは違うだろォ。実弥は胸がドンドン音を立てているのを、何かの間違いだと頭の中からは掃き捨てる事にし、隣で相変わらず楽しそうにしている義勇の頭を、とりあえずひとつはたいてやった。

 

 それから三日。
 いつもの庭のバラ花壇で、ばら組は仕事をしていた。
「冨岡ァ! 袋取って来てくれ」実弥はバラの株元に生える雑草を取り除く作業をしている。義勇は花壇の向こう側にいる。「無くなってたらァ、悲鳴嶼さんの所か本部に行ってもらってきてくれやァ」
 実弥は取り除いた雑草を入れておく袋の新しいものがもう無い事を知っていた。いつもは「母屋」の人間に出してもらうが、今日は「母屋」は留守だ。小芭内が実弥を見ている。
「縁壱さんが帰ってからでいいんじゃないか?」
「いや、俺が行ってくる」義勇は小芭内に言い、「母屋」の裏へ飛んでいった。
「大丈夫なのか……」呟く小芭内に実弥は
「大丈夫らしいぞォ。もうすっかり良くなったって」と言う。小芭内はぎろりと実弥を見た。「なんだよ」という顔で実弥は見返す。
「何があったんだ、冨岡と。ここのところ遠ざけてるだろ」
 実弥は小芭内の言葉には答えず、作業に戻る。
「おい!」
「なんもねぇよ」作業をしながら実弥はぼそっと答えた。そこへ義勇が戻ってきて
「裏にはもう袋が無い。悲鳴嶼さんの所へ行ってみる」と言い、小学校の方向へ飛んでいった。小芭内は心配そうな顔で義勇の背中を見送っている。それから実弥の前にしゃがみ、
「おい、どうしたのだ。おかしいだろ。ちょっと前は過保護になってたくせに」と実弥の顔を覗き込む。
「うるせぇな小姑みてぇにやいやい言うねィ」
「小姑とはなんだ」小芭内は肩の上の鏑丸と一緒になって実弥を睨んでくる。実弥はため息をついた。
「ちょっと……自分で確かめてぇ事があってよ、それには冨岡がちと邪魔なんだよ」
「ははーん」小芭内は合点がいったという顔になった。実弥はドキッとして小芭内を見る。
「お前、なんかそういう正当な理由がある風を装って急に冷たくして、冨岡に気にかけてもらいたいんだな?」
 実弥は思わず立ち上がっていた。小芭内が実弥を見上げる。
「伊黒ォ、お前何言ってんだァ、さっぱりわかんねぇ」言いながら実弥の目は宙を泳いでいる。今日もフェンスの向こうにいるギャラリーが、実弥が自分たちを見ていると思って手を振ってくる。気を落ち着かせるために実弥も軽く手を振った。
 アホか俺は。
「なぁ不死川。俺はお前と冨岡と十年、いや、十一年一緒にいるんだぞ。俺とお前に限定すれば、生まれた時から一緒なんだ」
「だからなんだってんだァ」
「だから、お前が初めて冨岡を見た時に雷に打たれたみたいになってた事も、その後見事に溶鉱炉に落ちた事も知っているんだ」
「おいィ、溶鉱炉に落ちたら死ぬだろが」
「例えだ」小芭内は立ち上がって腕組みをした。「溶鉱炉はいささか温度が高すぎたかもしれんが」
「あのな伊黒、お前は俺の知らない事を知っていると思い込んでるようだから言っておくがな、俺はびっくりした事は認めるが雷に打たれたり溶鉱炉に落ちたりしてねェ。あいつはただの仲間だ」
 小芭内はふんと鼻を鳴らした。「自分の事というのは、案外知らないものだぞ」
 実弥が言い返そうとした時、継国縁壱が義勇を負ぶって帰ってきた。
「あ、ほら見ろ」それを見るなり小芭内が実弥を睨む。
 玄関ポーチに着地した縁壱の背中から下りた義勇はたたまれた袋を五つほど持っている。縁壱に礼を言ってから、その袋もポーチに下ろした。そのままその場に腰を下ろしたかと思うと、横に倒れてしまった。縁壱が部屋まで運ぼうかと言ったが、義勇は休んでからまた仕事をすると言う。
「部屋へ連れて行ってもらえェ」実弥が乱暴に言った。小芭内が義勇の様子を見にポーチへ飛び移る。縁壱が言うには、義勇は本部まで袋を取りに行き、途中で力尽きて河原の東屋で立ち往生していたらしい。縁壱が通りかかったので負ぶって連れてきたのだ。
「大丈夫だ、休めばまた動ける」と義勇。
「んじゃ昼までそこで寝てろォ」実弥は義勇の方を見もせずに言った。ずっと作業を続けている。
「不死川君は機嫌が悪そうだな」縁壱は腰の刀を外して義勇の傍に腰を下ろし、小声で言った。
「甘いものが不足しているのかもしれない」義勇は言いながら、縁壱が胡坐をかいた膝の横に置いた刀をじっと見た。「縁壱さん、刀」
「ああ、そうだ」縁壱は、義勇に言われて思い出したかのように刀を見た。「設備部に呼ばれて、渡された。鋼鐵塚さんがようやく打ってくれたようだ」
 義勇は縁壱の手を借りて置きあがった。刀を手に取らせてもらう。
「すばらしい」日輪刀ではないので色は変わらないようだが、真剣である。今世で妖精が刀を打った事はなく、義勇はもちろん他の者もこういうものを見るのは初めてだった。「なぜこれまでしぶっていたのだろう」
 縁壱もそれは謎だと言った。設備部で武器を作る部署の職人である鋼鐵塚蛍は気難しい事で有名であるので、謎ではあるが不思議ではないと縁壱は言い、義勇も頷いた。
「はずみというか、ふんぎりがついたなら、君たちのものも次々に打ってくれるかもしれないな」縁壱は義勇から刀を受け取り、座ったまますっと正眼に構えた。すぅっと刀身が赤く染まる。
「ああ、やはり縁壱さんだとそうなるか」いつの間にか傍に来ていた小芭内が感心して言った。義勇も頷く。縁壱は刀を鞘に納め、脇に置いた。
「懐かしいものだな」縁壱は微笑み、小芭内も頷く。
「皆が持たなくとも、縁壱さんが持っていればなんとなくそれで安心する気もするな」
「確かに」言いながら義勇は再び横になる。縁壱が義勇の両脇の下に手を差し入れ体の位置をずらし、膝枕をしてやった。
「本当に大丈夫なのか冨岡」義勇の顔を覗き込む小芭内に、義勇は軽く二、三度頷いた。
「後十分もすれば回復する」義勇は実弥の方を見る。
 彼は黙々と除草作業をしていた。汗が顎から滴り落ちている。その向こう、門扉の外に自転車が二台止まった。北川巌勝こと継国巌勝と、魘夢民尾だ。更に宇髄天元もいて、彼はそのまま飛んでバラ花壇の所まできた。後の二人は門扉を開けて入ってきて、玄関ポーチに腰を下ろした。彼らと竈門炭治郎はもう「母屋」の人間からばら組の仲間たちと認められ、庭に勝手に出入りしている。実弥もようやく作業を中断し、皆の所へやってきた。彼が水筒の麦茶を何杯も飲み干す間に、天元は縁壱の刀を見せてもらい、興奮して振り回している。
 実弥は水筒のふたを締めながら義勇を見下ろした。彼は縁壱の膝枕で、天元がおどけてとるポーズをみて笑っている。
 ダメだこいつは。俺が距離を取ってるとか、気付いてねぇ。小さくため息をつく。気付かないという事は、特別な興味を持っていない事の証ではないかと思い、無意識に水筒を指で叩く。そうしながらどんどん気持ちが重くなっていくのを、実弥は止められずにいた。
 縁壱さんの膝枕、めちゃめちゃ気持ちよさそうだな冨岡……。
「やっぱ縁壱さんだけだな、『普通』の刀の色を変えれるのは」天元が言う。
「まぁ、そうかもしれないがこれは『普通』の刀でもない。鋼鐵塚さんの刀だから」縁壱は天元に返してもらった刀をまた自分の傍らに静かに置いた。そして、スマートフォンを忙しく操作する民尾の横で住宅地の向こうに見える山をぼんやり見つめている巌勝に目をやった。つられて実弥も巌勝を見る。
 またなんか悩んでんなこの坊ちゃんは。思いながら、縁壱の横、義勇の前にどすんと腰を下ろした。義勇が実弥の腰を手で押すので見ると彼は
「不死川の尻臭い」と眉根を寄せた。
「嘘こけどアホぅ!」実弥は義勇の鼻をぎゅっとつまみ、左右に振ってやった。パーツを真ん中に寄せるように顔をしかめる義勇を見てふふと笑う。無理はするもんじゃねぇな。
 そうする間に縁壱が巌勝に何か悩み事でもあるのかと尋ねている。巌勝が言うには、彼の成績が急降下してしまったために両親のけんかが絶えないらしい。自分のせいで罵り合う彼らを見ていると、巌勝はどうしていいか分からなくなるのだと言う。
「勉強すればいいという事はまず一つ確かだな」小芭内が言う。巌勝は頷いた。
「みっくんは元々賢かったんだからすぐに元に戻るよ」民尾が巌勝の肩を叩いた。「元はと言えば俺が悪いようなもんだし」
 民尾の言葉に驚いて、巌勝はなぜと言った。
「だって、俺と仲良くし始めてからみっくんの成績が落ちたんだよぉ」
「それは違うな魘夢」天元が人差し指を左右に振る。「お前より先に、俺たち妖精と出会ってる。それがそもそもの始まりだ」
「違う、違うよ宇髄さん、出会ったとか仲良くなったとか、そういうのじゃなくて、それで俺が勉強しなかったのが悪いんだ」巌勝が言った。
「正解」天元は両手の指を二本ずつ突き出して巌勝に向けた。「勉強しろ。それですべて解決だ」
「そうは言うけど」とため息の巌勝。「めちゃめちゃ凄いんだよけんかが。もう、『死ね』とか『どついたる』とか、なんていうか……夫婦とは思えない」
「夫婦げんかってのはそんなもんだろォ」実弥が再び水筒のふたを開ける。「どこもとは言わねぇけど、激しいとこも、まぁあるっちゃあるよなァ」ふたに注いだ麦茶を義勇に突き出した。義勇はありがとうと言って、身を起こす。
「俺は両親がそろっているのを見たことがないからなぁ、あんまりどうこう言えないんだけど、そもそも親っていうものは愛し合って結婚したのかなぁ」民尾が、のんびりした口調で爆弾を落とした。
 大人たちは一瞬黙り込んだ。
「いや、子供って親の事、そゆふーに見てんの?」天元が半笑いになって言った。
「俺も、うちの親は仲は良かったけど『愛し合う』みたいな感じかって言ったら、それは自信がないな」と巌勝。
「そりゃそうだろう、欧米ならいざ知らず、日本人の夫婦は子供の前で愛し合ってるオーラ出しまくったりはしないだろう」小芭内は笑った。子供ってやつは。
「ま、結婚を『就職』として考えてる人ってのもいるだろうけどな」天元は自分のツールベルトからペットボトルを出して水を飲んだ。
「そんな感じで子供とか作れんの? 就職先の社長とセックスなんてできないよ俺ぇ」民尾が両手で顔を覆った。
「生々しい事言うな」巌勝が民尾の頭をはたく。大人たちは大笑いした。笑いが収まるとまたひとつ、巌勝がため息をついた。
「大人というものは――」縁壱が口を開く。「相手との関係をはっきりさせずとも、自分の気持ちがしっかりしておればそれでよいという場合もよくあるものなんですよ、兄上」巌勝は縁壱を見た。「竹はしなるから強い風に吹かれても折れません、それと同じです。容易に折れるような関係では、親は子供を大人まで育ててゆけませんからね」
「俺の両親はポッキリいっちゃったなぁ」と民尾。縁壱は微笑んで
「中には不器用な人もいる。子供は親を選べないからつらいものだな、魘夢君」と少し飛んで民尾の頬を両手でなでた。民尾はちょっと涙ぐむ。
「俺たちを親と思え!」天元がカラカラと笑うと、民尾もつられて笑い、
「そうだね、俺、特別な友達がいっぱいいるから、そこんとこは全然寂しくないよ!」と言った。
「勉強しなくちゃ」巌勝が表情を引き締めて言う。「親が離婚するなんてなる前に成績元に戻さなきゃ」隣で民尾が自分も一緒に勉強するよと巌勝の腕をぽんぽん叩いた。
「そうだ、俺の親が離婚して家がごちゃごちゃなったら魘夢の居場所なくなっちゃうもんな」巌勝はにっこり笑う。
 兄上君……中二でもこんなに男前かよ……。実弥は心の中で唸っていた。そして、縁壱の言う「ぽっきり折れない関係」というものが妙に心にひっかかっていた。
「そんなもんかぁ?」思わず口に出る。小芭内がなんだという風に見てくる。
「いや、だって、映画とかでもよく『愛してる』だの何だの言って確かめ合ったりするだろォ」
「何の話だ」
「だからさっきの縁壱さんの」
「そういう場合もあるって事だろ」小芭内は口をつぐんでから少し顔を赤くして「俺はこの頃さっきの縁壱さんの言った事、よく感じるぞ」と言った。
 実弥がなおうーんと唸っていると天元がばんばん背中を叩いてきて「分かんねぇのは経験がねぇからだ! 命短しってやつだ、お前も早く経験しろ!」と言って笑った。実弥は背中の痛みと子ども扱いされた事に少し苛立った。ふと視線を移動させると実弥の水筒のふたをくわえたままの義勇と目が合う。
 何見てやがる! 目付きで威嚇する。
「ああ、ありがとう」義勇は水筒のふたを手に取り、縁をシャツの裾で拭って実弥に返してきた。実弥はそれをひったくるように取り、水筒に被せて締めた。よく分からないものを見えない所にしまい込むように。

 

 翌日は日曜で、巌勝と民尾は竈門家を訪れ、炭治郎と一緒にトレーニングをしていた。炭治郎の家のガレージはトレーニングルームに改造されており、買ったものや炭治郎の父が作ってくれたものなど、トレーニングマシンがいくつか置いてある。元々ガレージは車のために使われていたが、今は車は庭にとめてある。
 この日は他に、義勇と縁壱が来ている。休みなのでのんびりしに来たと義勇は言う。
「こういう時に禰豆子友達と出かけちゃったりするんだもんなぁ」炭治郎は少しめくれてきている掌の皮を前歯でかみちぎる。
「よう、ちょっと見にきたァ」
 声に皆が振り向くと、開け放したガレージ横のドアから実弥が入って来た。
「不死川、さっきは来ないと言ったのに」と義勇。
「お前が来てほしそうだったから仕方なく来てやったんだ」
「別に来てほしくない」義勇の言葉に実弥は目をむいた。
「あー! そう、そうだ、不死川さん、今日葛餅と糸切り餅ありますよ! もう少ししたら食べましょうよ」炭治郎が大きな声で言った。
「糸切り餅」縁壱が呟く。
「縁壱さん好きです? 糸切り餅」炭治郎の問いに、縁壱は頷く。
「もう今日はこれで終わりにしようよ~」魘夢が言うと、巌勝がダメだと彼の背中を叩いた。見ていてやるから最後までやれと実弥が言い、三人はトレーニングを再開した。

 お茶の時間になり、皆炭治郎の部屋へ移動した。人間が三人入ると少し手狭だが、彼らはよく炭治郎の部屋で遊ぶらしく、それぞれすっといつも座る場所に落ち着く。コーヒーテーブルには箱のままの葛餅と糸切り餅が置かれ、炭治郎が入れてきた冷えた緑茶の入った小ぶりのグラスが三つ置かれている。妖精のためのコップは義勇や縁壱が持ち込んだものがいくつもある。これも縁壱が持ち込んだ妖精サイズの「大きなやかん」があり、炭治郎はこれに冷茶を入れて持ってきた。縁壱がやかんから冷茶をコップに次ぎ分けた。炭治郎がプレートに葛餅と糸切り餅を一つずつ載せる。妖精たちは少しずつ切って食べるのだ。普段人間サイズのものを食べないので、炭治郎の家で巨大なお菓子を食べるのはちょっとした楽しみである。
 実弥はこんな風に遊びに来るのは初めてで、ほほうと感心しながら見ている。
「こんなに大きなあんこの塊、夢のようだろう」義勇が実弥を見てムフフと笑う。
「ああ、すげぇ塊だ。お前の顔を突っ込んでやりたくなるな」実弥がにやりと笑うと、義勇は少しむっとした顔になった。
「そういえば」炭治郎は糸切り餅をむちむち噛みながら「ばら組のSNSで、コメント荒らしてるアカあるの知ってます?」と言った。
「ああ、そういう事、宇髄も言っていたな」義勇は手にしていたコップをテーブルの上に置いた。彼ら妖精はいつものようにランチョンマットの上に禰豆子手製の座布団を敷いて座っている。
「何だァ、荒らしって。変な書き込みしてくるのかァ?」と実弥。
「そうです、それもそいつのは個人攻撃なんですよ」炭治郎の言葉を聞きながら、巌勝が憮然とした顔になって何度も頷いている。
「なぜ縁壱さんのような何の嫌なところもない人を攻撃するのか理解できないな」義勇が言うと、縁壱は驚いて、食べようとしていたあんこを自分の皿の上に置いた。
「私か? 私に何の攻撃を?」
「縁壱お前コメントチェックしてないのか?」巌勝が眉根を寄せる。
「見ております。宇髄君に見るように言われておりますので。しかし……私は攻撃された覚えはないのだが」
 炭治郎がスマートフォンを操作し、コメントを出して皆に見せた。
「宇髄さんがすぐに削除しているから今残ってるのはこれと後三つくらいですかね」炭治郎が言う。
 スマートフォンの画面にあるコメントは、縁壱宛てになっており、ウンコの絵文字がずらりと打たれていた。実弥が素早く数え、五十個あるなと呟く。
「私は今朝これを見た。これは攻撃なのか」縁壱は首を傾げた。皆は縁壱の言葉に首を傾げる。
「いやあんた、ウンコ五十個送られて攻撃じゃなきゃなんなんだァ」実弥が縁壱の肩をつかむ。
「これは……うんこなのか……」
「縁壱、しっかりしろ」巌勝が身を乗り出す。「これがウンコじゃなきゃ一体何だと言うのだ」
「私はたにし飴だとばかり思っておりました」
 縁壱以外の全員が萌え死んだ。
「かわいい人だな縁壱さん」義勇が笑う。
 お前におとぼけをかわいいとか言われたら終わりだァ。実弥は心の中で呟いた。
「これはうんこなのか……私にうんこを五十個投げつけてきたのか、そういうこめんとなのだな」縁壱は見るからにしゅんとしてしまっている。巌勝は思わず縁壱をつまみあげ、自分の手に乗せた。
「気にするな、縁壱。頭のおかしな奴がやってる事だ」巌勝に言われ頷いたが、縁壱は巌勝の掌で、親指の付け根を枕のようにして顔をうずめてしまった。
 そんなにショックなんだ……。普段の縁壱からは想像もつかぬ反応に、皆しばらく黙ってしまった。
「もしかするとォ、これ、本当はたにし飴かもしれねぇ」実弥が汗をかきながら言う。
「そうかもしれない」と巌勝。ベッドに寝そべっていた民尾ががばと起き上がり、
「俺もそうかもって思えてきた」と言った。
 縁壱は動かない。巌勝の掌に顔を押し付けたまま
「私はなぜ知らない人からうんこを投げつけられるのだ、意味が分からぬ、悲しい」
「縁壱、あれはたにし飴かもしれないと皆が言うておるぞ」巌勝が囁いた。縁壱は顔を上げる。泣いている訳ではないようだ。
「他にもあると言ったな、炭治郎君」
「はい」
 「はい」じゃねぇだろぉぉぉクソガキぃぃぃ! 実弥はまた目をむいた。
 炭治郎がスマートフォンで示したコメントを見た縁壱は
「ひどい事が書いてありますが、うんこよりはましです」
 ましなんだ! 今度は縁壱以外の全員が目をむいた。そのコメントは言葉の暴力に満ち溢れていたのだ。
「それにしても……俺はこいつを見付けたら絶対許さない、俺の縁壱にこんな――」巌勝は皆が自分の顔を見ている事に気付き、言葉を切った。「なんだ?」
「みっくん今『俺の縁壱』って言った」民尾の指摘に巌勝は真っ赤になり、
「言葉の綾だろ!『俺の弟』って風に言いたかったんだ!」と叫んだ。
「宇髄さんも調べてるみたいだから、直犯人見付かるよ」炭治郎は巌勝の肩をぽんぽんと叩いた。
「そうだ」突然義勇が立ち上がる。
「何だァ冨岡。ボケたことぬかしたらドつくからな」実弥が三白眼になって義勇を見上げる。
「俺はボケてない。今こそ温泉旅行に行く時だと思ったんだ。縁壱さんを元気付けようっていうコンセプトで」
「『皆に感謝』はやめたのか」
「やめた。『縁壱さんを元気に』、これだ。どうせ俺が金を出すと言っても皆ダメだと言うだろうから、縁壱さんの分を俺が出す」
「何でそんなに人に金をやりたいんだてめーは」
 義勇は黙った。考えているようだが、理由が思い浮かぶ事はないだろうと実弥は思った。
「冨岡君、気持ちだけでありがたい。私はもう大丈夫だ。皆で楽しく温泉に行こう」縁壱が巌勝の掌の上で立ち上がった。
「俺たちも行きたいよね」炭治郎は巌勝と民尾の顔を見る。彼らは勢いよく頷いた。
「よし、天元に相談だ。一応マネージャーだからな」実弥が両手を打ち鳴らした。彼は天元の事を「一応」マネージャーだと言ったが、宇髄天元はばら組のマネージャーの仕事を見事にこなしている。個性の強いメンバーの揃うばら組は、天元でなければ上手く仕事を回せないだろうと、『月刊ガーディアンズ』の編集部員素山狛治も言っているらしい。
 その夜実弥と義勇が温泉旅行の事を天元に話すと、天元はすぐに日取りを決めてくれ、旅館にも予約を入れてくれた。メンバーはばら組と炭治郎、巌勝、民尾、そして天元で決まった。

 

..ここまで
 そしてその夜は鬼舞辻組が新居に収まって初めての夜だった。
 今回の家は、もう巣とは呼べないしっかりした造りをしている。鳴女が見てきた産屋敷組の妖精たちの住まいや産屋敷組本部などは、人間の作った建物の中に入れ子のように自分たちの建物を作っている。そのため雨風にはびくともしない。強風に飛ばされた空き缶がぶつかり崩壊してしまった前の鬼舞辻組の巣とは全く違うものなのだ。
 それをふまえ、鬼舞辻無惨も人間の建物の内部に家を作る事にし、鳴女に手配をさせた。無惨は巣が吹き飛んでしまった時に自分の作った毒を浴び、飛べなくなってしまったのでなおさら丈夫な家が必要だ。鳴女はお任せあれとスムーズに新築の手配をした。彼女はばら組の面々と仲が良く、産屋敷耀哉とも面識があるので、そちらでだいぶ世話になったのだろうという事は無惨も気付いていた。気に入らない事は確かだが、背に腹は代えられないので知らぬふりを通している。
 新しい家は、前に巣を構えていた天神橋からほど近い場所にある、今は使われていない美容院の建物内にある。産屋敷組の設備部が出入口や空調設備などを整えてくれた。鳴女は工賃や材料費を支払うと言ったが、「御館様」がもらわなくてもよいと仰ったと現場監督の妖精が断ったらしい。鳴女はそのまま帰ってきたが、無惨は「外堀を埋められているぞ」と不機嫌になった。
 もういい加減和平協定を結べばよいのに。鳴女は思う。無惨と鳴女二人だけで一体何をするというのか。無惨は童磨のようにはなれない。鳴女はそう感じている。彼には目的がないのだ。産屋敷耀哉を殺すと時に息巻くが、彼を殺してどうするのだという事は全く聞いたことがない。前世の続きを頭の中で、いや、心の中でしているだけなのではないか。そして、本当は彼も和平協定を結んで何かに取り組みたいと思っているのではないかと鳴女は思っている。
 巣が飛ばされた時に、飛べないのに川へ落ちてしまった無惨は、産屋敷組の妖精に助けられた。その時には「天敵である」と恐れ憎んでいた継国縁壱に、鳴女の巣まで負ぶわれて運ばれた。毒によって飛べなくなってしまった事を見抜かれ、穏やかな口調で語りかけられていた。その時の事を鳴女は何度も思い出す。そして、それ以降の上司の様子に変化があったように感じている。何がと問われれば答えようがないほど不確かではあるが、なんとなく、そう、なんとなく変わった、そう鳴女は感じていた。
 今無惨はソファに座ってスマートフォンを触っている。ぐっと眉根を寄せ、組んだ足の上の方をゆらゆらと揺らしている。足先につっかけたスリッパが飛んだ。鳴女が拾って履かせると、ふんと言いながら睨んでくる。鳴女は構わず無惨のスマートフォンを覗いた。
「ばら組の動画ですね? 今日のやつですね?」ばら組の事となると目を輝かせる鳴女だが、その大きな一つ目は前髪の後ろに隠れて無惨からは見えない。
「くだらない事をしているものだ」無惨は掃き捨てる。しかし、彼がよくばら組の投稿を見ている事を鳴女は知っている。鳴女がアカウントも作ってやった。彼女は手を伸ばし、再生ボタンをタップした。ばら組の面々が何か話している。無惨はくだらないくだらないと繰り返していたが、縁壱が出てくると口をつぐんだ。
 この声だ。この……この声を聞くと……。無惨は目を閉じる。縁壱の声を聞くと苛ついて棘だらけの神経がすっと落ち着き、棘が無くなる。落ち着いている場合ではないのだが。こいつは天敵だぞ。無惨は目を開け、画面を見た。縁壱は消え、小芭内と実弥が何か話している。継国はもう少し長く話すべきだと無惨は思った。思ってから打ち消すように頭を振る。何を考えているのだ私は。
 実の所、無惨は縁壱に負ぶわれて救出された日以来、寝る時にはあの背中のぬくもりやメリーのように揺れる髪を思い出しながらでないと眠れなくなってしまっている。恥を忍んで鳴女に相談してみると、鳴女は、それが入眠儀式になってしまったのですねと言った。いい事ですよなどと言うので、それ以上は相談にならなかった。こんな事ではダメだと無惨は思う。天敵に負ぶわれた恥辱の記憶が眠りを誘うなど馬鹿々々しいにもほどがある。
「今日はもうベッドへ入られますか? まだリラックスタイムですか?」鳴女が洗ったグラスをふきんで拭きながら無惨の方を向いた。無惨はどちらとも決めかね、唸っただけだ。
「この頃だいぶだいぶ苛々なさってますが、鳴女が思うには、それは恋煩いではないかと」
「はっ!?」無惨は思わず叫んでしまった。「何だそれは、私が一体誰に」
「縁壱さんですよ」鳴女の言葉に無惨は一瞬言葉を失った。
「鳴女、とうとう本格的に狂ってきたか、奴は私の天敵だぞ。殺さねばならぬ相手だぞ」
「はぁ、まぁ、それでしたら今縁壱さんを殺すところを想像なさってください。短刀で心臓を一突き。あるいはチェーンソーで胴を真っ二つ。あるいは青酸カリを飲み物に」
 無惨は鳴女の言う通りに想像してみた。とても楽しい気分になると思っていたが、チェーンソーを構えたところで心臓が雑巾のように絞られる感覚に襲われ、ソファに倒れ込んだ。
「無惨様!」鳴女が駆け寄る。「どうなさいました?」
「かわいそう……」無惨が唸り、鳴女は驚いた。「継国が死ぬと言うのはさすがにかわいそうだ」無惨は目をぎゅっと閉じている。余程胸が痛んだのだろう。
「無惨様、やはり好きですよね?」
「好きではない。あいつは天敵だ」素直じゃないな。鳴女は半眼になった。
「天敵だが、鳴女やあいつが前に言っていたように、今は平和な世の中だ。昔のように殺し合うなどというのはもうナンセンスだし、どぎつすぎる」
「それで、好きですよね? 縁壱さんの事」再び鳴女が訊く。
「いや、だから私はあんな奴は嫌いだ。大嫌いだ」
 鳴女はマガジンラックから『月刊ガーディアンズ』を取り出し、ぱらぱらとページをめくってから無惨に突き付けた。一ページを丸々使って縁壱の写真が掲載されている。無惨は数秒黙ってそれを見ていた。
「落ち着きますでしょ? 無惨様、縁壱さんの顔見るとめっちゃ落ち着きますよね?」
「なんなんだお前は! お節介親戚おばちゃんか! お見合いババアか!」
「そういう訳でもないんですが、無惨様、気持ちに抗うので苛々するのですよ。あんまりそうしていると禿げますよ」鳴女の言葉にぎょっとして無惨は自分の頭を両手で押さえた。今はまだわかめのようなくせ毛が十分に生えている。
「まぁ、今月の『ガーディアンズ』は五ページ縁壱さんが載っていますから、それを見て癒されて下さい。鳴女はアイスクリームを買ってまいります」
 無惨はうむむむと唸りながら起き上がり、しぶしぶという体を装って雑誌を手に取った。
 玄関で鳴女が振り返り、
「少しばらトモの所にも寄ってきますので、ちょっとだけ遅くなりますが、アイスをお食べになるなら待っていて下さい」と言った。そして無惨の返事も聞かず、彼女は出て行った。
 鳴女が出て行くと直ぐ無惨は雑誌をローテーブルの上に置き、スマートフォンを手にした。先程見ていたSNSが開いたままだ。スクロールして最新の投稿を探し当て、フキダシのマークをタップし、コメント入力欄を出す。
 拝啓、継国縁壱様。
 手慣れたフリック入力で文字を入れていく。
 今月のガーディアンズ拝見いたしました。ひどいものだ! ひどすぎる! お前ごときに五ページも使うとは、編集部はイカレポンチもいいところだ! お前は鏡を見たことがあるのか、即刻辞退しろ、ばら組を抜けろ、妖精をやめろ。妖精界を脱退だ! とてもいい考えだと思わないか?
 くだらないが、暴力的な言葉の羅列をコメント入力可能文字数の限り続け、無惨は勢いをつけて送信ボタンをタップした。
 あらまぁ、あらまぁ。鳴女はその様子を天井裏で見ていた。入力された文字は見えないが、鳴女もスマートフォンを持っている。ばら組の投稿についたコメントを見れば内容はすぐに分かる。ひどいコメントだ。せっかくアカウントを作ってさし上げたのに。本当に素直じゃないなあの人は。
 そして彼女は宇髄天元にメールを送った。
 ただいま確認致しました。お察しの通り、うちの鬼舞辻が縁壱さんにとても失礼な事を……云々。

 翌日の夜、ばら組と宇髄天元は巌勝の部屋へ出向いた。温泉旅行の話と、縁壱への誹謗中傷コメントの話をするためだ。温泉旅行の話は、だいたいの事が決まってからメンバーに宛てて天元がメッセージを送っているので、さして話すことはない。
 巌勝の部屋には民尾と炭治郎も来ていた。
「お前らァ、もう八時だぞォ」実弥が彼らを見て言った。
「俺は家にいるかいないか伯父さんとか全然把握してないから大丈夫なんだ。それに今日はみっくんちに泊まるから」民尾は右掌で左胸を軽く叩く。
「俺も今日は兄上君ちに泊まるって言ってますから大丈夫です!」炭治郎はいつも輝いている瞳を今日も輝かせている。
「ここに三人寝るのか」義勇は巌勝の部屋を見回す。六畳に机、本棚、箪笥にシングルベッドが置かれている。ベッドの足元にはハンガーラックも置かれている。巌勝は、隣の部屋に三つ布団を敷いて皆で寝るのだと言った。そこは仏壇のある部屋だが、北川家では客が来るとそこへ泊める。その部屋の隣にある応接間として使われる部屋とは、襖で仕切られており、それを開け放つととても広い空間になる。民尾はそうしたがるのだが、意味もなくそこを開け放つと母に小言を言われると、巌勝はそれをやめさせる。
 巌勝の部屋の窓がコンコンと叩かれた。鳴女が覗き込んでいる。巌勝は窓を開けて鳴女を入れてやった。
「どうも、どうも、すみません、なんか色々と」鳴女はぺこぺこと頭を下げる。
「鳴女さんも温泉行くんですか?」巌勝は尋ねた。天元はまだ誹謗中傷コメントを送った人物について誰にも話していないのだ。鳴女はそれを知らなかったので、あれっという顔になって天元の顔を見た。天元は頷く。これからだ。鳴女が巌勝の勉強机の上に座ったところで天元は皆を見渡した。
「実はな、昨日、例の縁壱さんへのひどいコメントを送った奴が誰なのか判明した」
 一同が息をのむ中、縁壱はのんびりした雰囲気を漂わせたまま小さく口を開いて「ほう」と言っただけだった。しかしこれは彼にしてはかなり驚いている方である。彼は昨夜、一時とても落ち込んでいるようだったが、寝る前には普段通りの縁壱に戻っていた。しかし、巌勝が縁壱をつまみあげて自分の掌に載せた。またショッキングな事を聞かされたらと思ったのかもしれない。炭治郎は「手乗り縁壱」を見て、自分も義勇を掌の上に載せたくてたまらなくなっていたが、いつも義勇を構いすぎる禰豆子を叱っている手前、必死で耐えた。
「誰だァそいつ……そいっ! あ!」実弥が後半素っ頓狂な声になって鳴女を見た。「あんたが来てるって事はァ!」鳴女はうなずいた。
「どうも、本当に申し訳ありません」深々と頭を下げる。
「そんなに謝る事はない、鳴女さんがしたことではないだろう」義勇に言われ、鳴女の鼻息が明らかに荒くなる。実弥は鳴女の頭をはたきたくなる自分の衝動に戸惑った。代わりに義勇の頭をはたく。義勇は頭を押さえながら抗議の意思が宿る目付きで実弥を見た。
「鬼舞辻無惨が縁壱さんにウンコを五十個送ったのか」小芭内が言うと、縁壱が吹き出した。
「縁壱……」巌勝が目を丸くする。縁壱が吹き出すなど、滅多にある事ではない。「大丈夫か、縁壱」巌勝は反動でおかしくなったのではないかと心配になる。
「大丈夫です、兄上」縁壱は袖で涙を抑える。「とても安心してしまったものですから」
「安心?」小芭内は目をむいた。
「そうです、伊黒君。会った事もない人に罵られるよりは、鬼舞辻に罵られた方が百倍もまともな出来事に思えます」
「確かになぁ」実弥は腕組みをした。
「復讐してやろうかと思ってたけど、あの人ではちょっと、小さすぎて――」巌勝ははっと鳴女を見て「いえ、あの、器がとかそういうのじゃなくて、大きさがって事です」と説明した。鳴女は
「分かってる。それに器も少々小さいかもしれないのであながち嘘ではないからね」と言った。
「うん、あの人では復讐もできない」
「よし!」天元がパンと手を打ち鳴らした。「鳴女さんと無惨も温泉、行こうぜ」
「えっ!」鳴女は両手を胸の前まであげ、とんでもないという風な仕草をしたが、前髪の後ろの一つ目はらんらんと輝いていた。ぎゆゆもいっしょに温泉旅行?
「楽しそうですね!」元々輝いている目を更に輝かせて炭治郎が前のめりになる。「無惨に色々話を聞いてやりましょうよ!」
 縁壱も一緒で四面楚歌、部下の鳴女も義勇に「ぞっこん」であるという状況でいじられ倒す鬼舞辻無惨。それを想像して、上司にどうお説教すればよいのか考えあぐねていた鳴女はいい機会だと、無惨と一緒に温泉旅行に参加することを決めた。無惨が嫌がって駄々をこねれば、縁壱のぬくもりの記憶が無ければ眠れない事をばら組と仲間たちにばらすとでも言えばよい。
「とりあえず、鬼舞辻無惨にこめんとの返事をする」縁壱は帯に挟んだスマートフォンを取り出した。画面を開いてアプリを立ち上げ、しばらくじっと見ている。
「縁壱、やり方が分からないのか?」巌勝が小声で訊いた。人間の小声なので、妖精たちには聞こえている。どれどれ、やってやろうと小芭内が縁壱の手からスマートフォンを取った。
 しばらく後、夜の帳を切り裂いて、縁壱の返信はインターネットの波をすべり、無惨の目に飛び込んだ。

 

 随分早く、実弥は目を覚ました。ばら組の部屋のあるイナバ物置の外はもう明るいが、時刻はまだ五時を過ぎたところだ。ロフトベッドの小芭内も、壁際のマットレスの義勇もまだ眠っている。義勇のいる辺と直角に交わる辺の壁際に置かれたベンチの前に、最近敷かれたマットレスで寝ている縁壱がいる。彼もまたまだ眠りの中だ。
 まさかあの無惨が毒コメ送ってたとはなぁ。まだぼんやりした頭で実弥は昨夜の事を思い出していた。
 それって、構って欲しいって事かァ? 首を傾げ、そのついでに左右に曲げて首筋を伸ばす。姿勢を少し変えて、眠っている縁壱の顔を見た。
 無惨、お前、縁壱さんの事好きなのか? え? マジか? いやいや、なんだこの思考、俺は腐男子になってしまったのか? 実弥は頭をがしがしとかきむしった。少しロフトベッドの方を眺める。静かだ。布団を出てそっと移動し、義勇の布団の横にしゃがんだ。彼の掛け布団は腹の辺りまでずり下がり、姉にもらったというパジャマのボタンの下二つが外れ、みぞおちの辺りまで腹が覗いている。気持ちよさそうに眠っている義勇の顔を、実弥はしばらく見ていた。無性にいじりたくなる。頬を突いてみたい、鼻をつまんでみたい、髪に手を入れてかき混ぜてみたい。
 起こして構われたいのか俺は? それは無惨と同じじゃねぇか。
 いや、そうじゃない、こいつは玄弥の下の弟だろう、俺にとっては。昔はよく玄弥の髪を撫でたり鼻をつまんだりしたもんだ。
 枕もとに置いてある義勇のスマートフォンの画面がふっと明るくなった。メッセージの通知バナーが表示されている。見れば、胡蝶しのぶからのメッセージだった。
 随分早ぇえな。気付くとスマートフォンをつかんでいた。引き寄せるとコンセントに差し込まれた充電器と、充電コードで繋がっており、コードの長さでびんと止まって、実弥はスマートフォンを落としてしまう。ゴトっと音がし、周囲を見回したが、義勇も縁壱も眠ったままで、小芭内も静かだ。充電コードを外し、義勇の足元の方で胡坐をかいた実弥はスマートフォンを開いた。相変わらず「ノー認証」である。
 ホーム画面は炭治郎と禰豆子と一緒に写った写真だった。実弥はほっとする自分に気付かない。通知が消えても義勇は困らないだろうと、しのぶのメッセージを見る。朝の挨拶に、日の出の写真。実弥はしのぶとのメッセージのやり取りが見られる画面に移動し、ずっとさかのぼっていった。
 しのぶのメッセージはとてもまめに送られてきているが、しのぶのメッセージ十に対し、義勇の返信は二、三というところだ。これでよくしのぶは懲りないなと実弥は感心した。しかも、その稀な返信が殆どとんちんかんな内容になっている。お前、胡蝶のメッセージ読んでから返信してんのかよと思うと、実弥は少ししのぶに同情してしまう。しかし、このロマンスのロの字もないやり取りには、しのぶの義勇に対する愛情があふれている。それを感じて実弥はショックを受けた。義勇の顔を見る。
 お前、愛されてるのか。
 こんなに愛されて、相手に愛情が湧かない奴なんているのかよ。
 それが、実弥の胸を締め付けていた。
 まてまて、何で俺がショック受けるんだよ。友達のスマホ覗いて意中の彼とのやり取りをみちゃったみたいなシチュかよ。違うだろうが不死川実弥。頭の中でぐるぐる考えていると、刺すような視線を感じ、ドキッとして実弥は振り向いた。
 ロフトベッドから小芭内と鏑丸がじっと見ている。実弥と目が合うと、揃って左右に首を振った。
 蛇使いか……。思いながら、確かにこれはやっちゃいけない事だったと、義勇のスマートフォンを枕元に戻した。ふいに泣きそうになる。
「風呂ォ、行ってくらぁ」ロフトベッドの下でぼそっと言い、実弥は布団の周りに置いてある衣服を適当に拾って、部屋を出て行った。

 俺はなんつー女々しい男なんだ。こないだは冨岡なんかにドキドキしたりしてよ、そんなら次には避けて、今日はがっくりきてる。一体何がしてぇんだ。実弥は湯につかり、その心はトホホ気分につかっている。
 小学校のイナバ物置にある湯屋は二十四時間営業である。いつでも空いているので、今朝の実弥のように朝早く来る者も、逆に真夜中に来る者もいる。昼の空いた時間に来て、夜もまた来るという者もいる。
 こんな事ァ生まれて初めてだぁ。実弥は目を閉じた。先のしのぶの日の出の写真が脳裏によみがえる。続いてしのぶが鈴を転がすような声で「ね、冨岡さん」と義勇に話しかける様子が思い出された。
 俺に勝ち目はない。思ってからはっとなり、
「『勝ち目』ってなんだ! 俺は勝ちたくなんかないってか勝負なんかしてねぇ! さっさと付き合えお前らァ!」平手で湯を叩いた。派手にしぶきが散り、近くにいた妖精のおっさんに小言を言われる。小さな声で謝ってから、実弥は湯舟から出た。
 絶対に間違ってる。百歩譲って俺の許容範囲に男も入ってるとしても、冨岡はありえねぇ。あいつに惚れるんなら、もっと前に惚れてらぁ。乱暴に体の水分を拭き取り、服を着る。髪を乾かすのは省略して、朝食を取るべく湯屋に隣接する休憩所へ向かった。
 暖簾をくぐって、実弥は立ち止まった。急に止まったので、後ろの者が背中にぶつかり、小言を言ってきた。先程の妖精のおっさんだった。実弥はまたすんませんと謝り、暖簾をくぐってすぐに目にしたものの方へ歩いて行った。
 奥の方のテーブルに、義勇が着席していた。風呂に入ったようすはなく、ドレスシャツに綿のパンツをはいている。早朝、食堂のおばちゃん以外男しかいないこの休憩所で、光り輝いているように見えた。「掃き溜めに鶴」をここまで鮮やかに再現する男を、実弥は他に知らない。義勇の隣に腰を下ろした。
「何やってんだァ。朝飯ならカフェテリアでいいだろ」
「不死川がばーって出て行ったと伊黒が言うから」
「『ばーっ』てかァ」義勇は頷く。「一人になりてぇ時もあるだろォよ」
 それには答えず、義勇は厨房と食堂を仕切るカウンターの上に貼り出されたメニューを眺めた。テーブルの端に置かれた彼のスマートフォンがぱっと通知バナーを表示した。
 またか。
「おい、メールかなんか来てるみてぇだぞ」
「不死川は何を食べるんだ」
「おい、通知」実弥は義勇のスマートフォンを指さす。義勇はスマートフォンを見て「ああ」と言い、手に取った。
「胡蝶か」実弥が言うと、義勇は頷く。「お前ら仲いいな。ホントは付き合ってんじゃねぇの?」言ってから実弥の鼓動は突然速くなった。
 義勇は実弥の顔を見る。その表情のなさに実弥は背中に冷水を浴びせられる気持ちがする。
 え、もしかして本当に付き合ってんのか?
 数秒後、義勇は
「不死川は俺を驚かせるのが好きだな」と言った。
 今の顔驚いてたのかよ。実弥は半分目を閉じながら白目になった。それからまたぱっちり開き、
「付き合ってないのか」と訊く。かぶりを振る義勇に「お前みたいな鈍感な男にかかずらってる胡蝶がかわいそうだァ」と言った。更に続ける。「胡蝶なんか、他にごまんと相手はいるだろうに」
 しばらく沈黙が訪れた。居心地が悪くなり、実弥はメニューを眺める。
「胡蝶をブロックする」突然義勇が言い放った。度肝を抜かれ、実弥は目をむいて彼の顔を見た。
「は?」
「胡蝶をブロックする」
「いや、聞こえてはいるんだよォ、なんでだァ、なんでブロックする」
「俺はお前が思う程鈍感ではない」義勇はスマートフォンを取り、ムフフと笑った。
「ちょっとまて!」スマートフォンを奪おうとする実弥。
「大丈夫だ。俺はお前を応援する」
「何言ってっかわかんねぇんだよこのドあほう!」やっとの事でスマートフォンを取り上げる。「落ち着いて考えろ。胡蝶も仲間だろォ。むやみにブロックすんじゃねぇ。それに応援ってなんなんだよ」
「大丈夫だ」
「だから何が!」こんなアホ、絶対好きになったりしねぇ! 心の中で叫んだ時、義勇がスマートフォンを取り返そうと左手で実弥の手首をぐっと握った。腹に砂袋を落とされたような衝撃があり、実弥は反射的にびくっと背筋を伸ばすように体を跳ねさせた。一瞬遅れて耳の奥でごうごうと増水した川が流れるような音がし始めた。固まっている実弥からスマートフォンを取り返した義勇は、
「やはりブロックは胡蝶がショックを受けるからダメかもしれないな」と言い、実弥の顔を見て星的のような目になる。実弥の顔が真っ赤になっていたのだ。
「不死川……照れなくてもいい。十年来の友なんだから応援させてくれ」
 まだ訳の分からない事を言ってやがる。実弥は額に浮かぶ汗を持っていたタオルで拭いた。食堂のおばちゃんがまだ注文しないのかという顔で実弥を見たので、考える余裕もなくサバみそ定食を注文してしまった。
「朝食をがっつり食べられるのは健康な証拠だな」言って、義勇は実弥の顔を見る。実弥が見返すと、彼はにっこり笑った。実弥にはその顔がミラーボールのようにキラキラして見えた。

 

 湯屋での一件の後、その日の夜から実弥は天元の家に泊まっている。もう三日経つ。
 前回距離を置こうとして失敗したので、今回は本格的に離れようと思ったのだ。二十一年生きてきて、こんなに自分のペースを乱されるのは初めての事だ。小芭内に言わせると、これまでそういう事が無いという方が少数らしいが、とにかく実弥は自分のペースを取り戻したかった。ペースを乱されているから冨岡ごときにドキドキしたりしてしまうのだ、そう思い込もうと必死の努力を続けている。天元の家には三人の妻がいるので、早く落ち着いてばら組の部屋に戻らねばならない。
 旨い具合に落ち着いてきたぞ。実弥は昼のフードコートの空いた席に座りながら思った。仕事中もなるべく義勇と話さないようにしているし、連携する仕事はできるだけ小芭内と組むようにしている。三人で何かする時には間に小芭内を挟むようにもしている。小芭内は「いい加減にしろよ」と言う顔つきで睨んでくるが、実際には何も言わない。それでいい。とにかく落ち着かせてくれ。そうしたら元通りになるから。
 義勇がどういう反応をしているかは、実弥には分からない。できる限り義勇の顔を見ないようにしているからだ。もし義勇がおかしな風になっていれば、ばら組リーダーとして小芭内が何か言ってくるだろうと、実弥は義勇の事は放置している。
 テーブルに置いたトレイの上の天ぷらうどんからつゆのよい香りが立ち上ってくる。
 伊黒が何も言わねぇって事ァ、冨岡、平気なのか。俺が三日も無視してるってのに、いつも通りのあのぴょろりんとした顔で平常運転してやがるのか。
「あっ」突然心が軋み、思わず声が出た。うっかり親指がうどんのつゆにつかってしまい「あちゃァっ!」と叫んでしまう。親指を口に入れながら、そっと辺りを見回した。ここから離れた窓際のテーブルに義勇が座っている。
 しまった、冨岡を見てしまった。思ってから、あいつはメドゥーサかと自分につっこみを入れる。二晩かけて取り戻しかけた落ち着きが、ところどころ縄の切れたつり橋のように、危うくぐらついている。
 義勇の隣に小芭内が座った。今日は甘露寺蜜璃は出張らしい。相変わらず食事らしい食事を取らずにトレイにアイスコーヒーだけ載せている。彼は義勇がスマートフォンを操作しているのを見て何か言っている。
 そう言えばあいつ、この頃メッチャスマホいじってんな。前は全然だったのに。実弥は親指を口から出して、箸を取った。天ぷらにかじりつく。
 俺が湯屋であんな事言ったから……胡蝶と付き合い始めてマメにやりとりするようになったのかもしれねぇな。それならそれでよかった。
 「よかった」とは全く思えない自分の心に、実弥は戸惑った。おいおいィ、これまでの努力が一瞬で――実弥は義勇がスマートフォンをこちらへ向けている事に気付いた。写真を撮っている。実弥の。
 椅子を後ろへ倒して立ち上がった。テーブルを回り、他の妖精たちをよけ、飛ぶように歩いて義勇の前まで三秒ほどしかかからなかった。
「不死川」義勇は座ったまま実弥を見上げた。「ここで食べるか?」義勇は言うが、小芭内は半分腰を浮かせている。実弥の形相に、警戒しているのだ。
「食べるだと?」実弥の声は震えていた。「お前、何、写真撮ってんだァ」
「何……とは……」義勇は戸惑いながらも実弥の怒りを感じたようだ。「すまない、勝手に撮って悪かった」少しうつむいた義勇の前の味噌汁の椀を取り、実弥は彼の顔に中身をぶちまけた。
「不死川!」小芭内が鋭く言うが、構わず空になった椀も投げつけた。小芭内が腕を押さえつける。「おい、やめろ、けんかなら外でやれ」
「俺はけんかしてない」
「冨岡お前は黙れ!」言ってから小芭内は実弥を見た。「不死川、とにかく座れ――」
「俺がなんで宇髄の家に泊まってっか知ってんのかァ、分かってんのか冨岡ァ」義勇には関係のない自分自身の事情だと分かりながらも、実弥は言葉を止められない。「パジャマパーティーじゃねぇんだぞォ!」
 小芭内は目をむいた。「パジャマパーティー」は酷い。義勇を見ると、味噌汁をたらしたままじっと不死川を見ている。よほど驚いているのだろう。小芭内はツールベルトにひっかけているタオルを外し、義勇の顔を拭いてやった。こういうのは不死川の役目だったのにと思う。
「俺はァ、お前が産屋敷組に来た最初っから嫌いだった」実弥が言い、小芭内は再び目をむいた。「俺はお情けでお前と仲良くしてきたんだ! その顔がァ、本当に嫌いだァ!」義勇は自分の顔を両手で触っている。実弥の言っている事をよく理解していないようだが、嫌いだと言われている事は分かっているらしく、無表情の中の寂しげな匂いを小芭内は感じ取っていた。不死川、もうやめろ。
「仕事になっても御館様がそういうから仕方なくお前と一緒にやってきたんだァ。本当はもうばら組なんてやめたいんだ! もう限界なんだァ! 伊黒にゃ悪ィが、俺はもうばら組を抜け……ぬ……」実弥の両目からぼろぼろ涙がこぼれ落ちた。「抜けるぅ……」
「不死川、大丈夫か」味噌汁まみれの義勇が立ち上がった。実弥は今、彼が味噌汁まみれである事に気付き、味噌汁をぶっかけたのが自分である事も思い出した。涙が止まらない。眉根を寄せた義勇が近づいてくるのを突き飛ばし、フードコートを飛び出した。入口を抜ける時、「あ、天ぷらうどん」と思ったが、そのまま走って本部を出て、河原の公園をものすごい速さで行く当てもなく飛んでいった。

 

 夜。
 昼からの仕事をさぼって川を遡って山の方へ飛び、また下流へ飛び、そんな事を繰り返していた実弥は、今はバラ花壇の縁石に寝そべっていた。でこぼこした石なので、背中が痛い。
 なぜ泣いたんだろう。
 実弥は味噌汁まみれで心配そうな顔をして彼の方へ足を踏み出した義勇を思い出していた。けんかはやめろと必死になっている小芭内の顔も思い出す。
 そんなもん、すぐ捨てんのかァ俺は。あいつらとずっとやってきた、学校も仕事も。それをすぐ捨てんのかァ。自分のペースとかいうやつが、そんなに大事なのかよォ、どんな偉ぇ人間なんだァ。味噌汁ぶっかけられてもなんも言わねぇ冨岡の方がよっぽど器がでけぇんじゃねぇのかァ。
 背中が痛くて身を起こした。
 義勇と離れる。もう一生一緒に仕事をしない。そう考えると、心臓の血管全てが半分に裂けていっているのではないかという程、胸が痛んだ。
「離れたくねぇよォちきしょォ、バカか俺はァ」実弥はまた泣き出した。なんでこんなに泣けるんだよォ。
 実弥はこれまではっきりと「恋をしました!」というような体験をしてこなかった。恋だの愛だのというのは自分の周りで起こる事で、自分はメリーゴーラウンドの軸。硬派で生きるなどと思っていた。
 ため息をつく。
 十年と少し前、編入してきた義勇が教室に入って来た時の事を思い出す。先生が名前を黒板に書く間、ずっと前を見て微動だにしなかった義勇。これまで見た事もないようなきれいな顔をしていた。こんな顔の奴が、自分の周りに現れるなんてと、そうはっきり言葉で認識した訳ではないが、実弥はぼーっと彼の顔を見ていた。目が合った時、家来になろうと思った。後で小芭内に「アホか」と言われたが、その時はそう思った。頭のてっぺんから入って来た突風が、腹の底にどーんとぶつかった、そういう感じがした。
 友達になりたい、なんとしてもこいつと友達になりたい、傍にいたい、もし編入生だからといっていじめられたりしたならば、俺がこの拳でそいつらをぶちのめしてやる。
「友達になりたい、か」実弥は胸を震わせて笑った。
 初めて会ってからしばらくは、義勇がとても不愛想なので、実弥は焦っていた。友達になってもらえないのかと思ったのだ。無口で、何を考えているのか分からない。
 しかし、半年もすると彼も笑うようになった。慣れなくて緊張していただけなのかとほっとしたのを思い出す。
 冨岡の笑った顔……見てェなぁ。またため息をつく。
「あー、もう諦めろや俺ェ」空に向かって息を吐くように呟く。
 何が硬派だ。十年だぞ。十年ずっと、俺は軸じゃなくて、馬に乗ってたんだ。メリーゴーラウンドのちかちか光る電飾のように、頭の中で色とりどりの思い出が見えたり消えたりした。すべて義勇との思い出だった。
「俺はあいつが好きなんだァ」立ち上がる。「今まで誰も好きにならなかったってのは、ずっとあいつを好きだったからってだけだァ。俺はアホだ。しかしアホなりに腹をくくる」こうなったら真実一路だ。「俺は! 俺はァ! 俺は告白するぞぉぉぉぉぉ! 好きだぁぁぁぁぁ! 好きだぁぁぁぁとみ――」フェンスを越えて庭へ飛んできた縁壱が目に入り、実弥は大慌てで口を閉じた。
「珍しい、かような時間に発声練習か」縁壱はにこっとして、そのまま裏のイナバ物置の方へ飛んでいった。
 縁壱さんと冨岡ってちょっと共通点あるよな。実弥は微笑みながら、縁壱の後を追いかけて物置へ帰った。

 

突撃と玉砕のキャンター

「とっ、とと、ととととと冨岡ァ」
 鼻息荒く、気合は十分、胸に充満して爆発しそうな義勇への想いを本人に伝えるぞと意気込む実弥だが、「冨岡」の一言を発声するのにこれほど舌がもつれるとは思いもしなかった。義勇は不思議そうな顔で実弥を見る。
 ダメだ、不審がられちまった。どっと汗が出る。
 二人は小学校のイナバ物置にあるカフェテリア横の弁当屋に来ている。夕方という事もあり、彼らと同じように注文しておいた弁当を取りに来たガーディアンたちがたくさんいる。カフェテリアでは軽食しか出さないので、夜ガッツリ食べておきたい者は、弁当を注文するか、湯屋の休憩所や本部のフードコートで夕食を取る事が多い。
 カウンターで弁当を受け取る義勇を見ながら、実弥は気を落ち着ける。義勇が戻って来た所で、
「冨岡ァ」と言った。義勇は実弥の顔を見る。「あのー……ちゃ……茶ァ、しばかへんかァ」
 なぜ関西弁になるのか自分でも理解できなかったし、そもそも関西の言葉を話すわけでもないので気味の悪いイントネーションになってしまった。手が震えだす。
「なんだ、今日の不死川はお茶目だな」義勇はあははと笑った。滅多にみられない笑い声付きの笑顔である。実弥は一瞬で落ち着きを取り戻し、更に興奮して調子に乗り、
「そうかァ? 俺はいつもお茶目だぜェ」にやりとしてみせる。何言ってんだ俺は。義勇が持っている四人分の弁当が入った包みを取る。「持ってやらァ」
「もう持てるぞ。体力は、けがする前までにほぼ戻った」
「いいんだよ。そゆんじゃねェんだよ」
 実弥がカフェテリアの中へ入り、義勇は後へ続いた。空いているテーブルに着き、弁当の包みを置く。包みから焼肉弁当の香りが漏れてくる。弁当箱入りの三つの焼肉弁当の上に、紙袋に入った小芭内のサンドイッチが載っている。パンに焼肉の香りが移るんじゃないかと実弥は思ったが、それはそれでうまいかもしれないとひとり頷いた。向かいに座る義勇はそれを見ている。
「不死川、サンドイッチと焼肉について考えていたか?」義勇が訊く。
「おうよ。食パンに焼肉の香りがってなァ」
「俺もだ」また義勇は笑った。
 今日はよく笑う。実弥は思った。二人きりだからか? 伊黒や縁壱さんが一緒の時よりよく笑わないか? しかも不死川、不死川って話しかけてくるじゃねぇか。もしかして、もしかして、俺たち――
 いや待て! 先走っちゃいけねぇ! 光あふれる世界へ向かって走り出そうとする自分の気持ちを抑える。実弥は壁のメニューを眺めている義勇の顔を見た。
「かわいい……」思わず声に出してしまい、さっと口を押さえる。義勇は実弥を見た。
「俺もそう思っていた」
 ええええええええええ「俺も」だと? 何が? 何を? もしかしてお前俺をかかか――
「このキャラクターは甘露寺が考えたらしいぞ。姉さんが言っていた」
 キャラクターかよ……。実弥は椅子に沈み込んだ。メニューの余白に、衣食住センターのキャラクターのひとつが描かれている。
「冨岡ァ」実弥の声に、注文用のタブレット端末を操作している義勇は顔を上げた。「お前……なんていうか……その……恋人欲しいか?」
 義勇は無表情になって、実弥を凝視する。
 わぁ、きた、これなんだ、これ、どういう気持ちなんだこの顔。ていうか俺の質問なんなんだよォ! アホか! 女か! いやイマドキ女も言わねェだろ!
「別に……欲しいと思った事はないが……お前が欲しいなら応援するぞ」
「いや、応援とかそういうのはいらねェんだよ」実弥は義勇の手からタブレット端末をさっと取る。「そうじゃなくて、俺は、俺は、俺は、あるととと特定の、その、相手に対してだなァ……そのォ」少し落ち着くために端末を操作してアイスコーヒーを注文する。「お前もアイスコーヒーでいいか?」義勇はうなずく。実弥は端末をテーブルの端の充電器に戻した。
「つまりだな!」義勇はまたうなずき、実弥の話が進むのをおとなしく待っている。「俺は、特定の、その……あの……」喉がからからになってくる。口の中も乾ききって、舌を動かすたびにねっとりした小さな音がする。
 不死川実弥! 決めたんだろう、告白するって! 何を回りくどい事を言っているんだ! ズバッと行け!
 義勇はお話の続きを待つ小さな子供のように、じっと実弥の顔を見ている。くっそ、なんてかわいい顔して聞いてやがんだァ! 実弥の顔は真っ赤になっていく。義勇の顔に心配気な表情が加わった。
「まま回りくどい言い方になったけどォ、俺の言いてェ事は一つだけなんだ」実弥は両手に拳を作る。心臓がどっどっと鼓動を打ち、その音が頭の方へ響いてくる。馬たちがターフを蹴り、実弥の頭の中心へ駈け込んでくるような響きだった。「俺はお前が好きだ。恋人はお前がいい」そう言うつもりだった。
 しかし、あまりに喉が渇いていた為か、最初の声が「ヒー」と吹きそこねたホイッスルのような音になってしまい、それきり実弥は黙り込んでしまった。
「不死川?」
「ん、なんでもねェ」
「いや、何か、恋人――」
「なんでもねェって!」
 義勇も黙った。実弥は浮かれすぎ、興奮しすぎていた反動が来たのか、それまでの自分を恥じるような気持ちになってしまい、少し不機嫌になっていた。冨岡に一ミリも責任はねぇのに……。自己嫌悪に陥る。
 そこへ、カフェテリアのアルバイト店員がやってきて、
「あの、アイスコーヒー二百杯ご注文なさってますが、それでよろしいですか?」と訊いてきた。
「いい訳ないだろう。俺たちがどうやって二百も飲むのだ。君は飲めるのか?」義勇が低い声で言う。「間違いだ、すまない、入力を間違えたと思う」二百の所を二に修正してもらった。実弥はぽかんと義勇の顔を見ていた。こんな風に義勇が相手を責めるのを見たことが無かったのだ。入力したのは実弥だ。
 店員が去ってから、義勇がテーブルの上に両手を並べて伏せて置き、それに目を落としたまま
「間違ったのは俺たちだが、あんな風な聞き方は腹立たしいな」と言った。実弥は義勇の手をつかんでタンゴでも踊りたい気分になったが、踊った事もないし、浮かれすぎるとまた痛い目に遭うと思って自制した。
 冨岡は優しい。俺は冨岡が大好きだ。次のチャンスには絶対きっちりキメてやる。

 

 土曜日がやってきた。ばら組、マネージャー宇髄天元、無理矢理誘った鬼舞辻組の無惨と鳴女、そして人間キッズトリオ炭治郎、巌勝、魘夢民尾というメンバーで、温泉へ向かう車に乗っている。運転しているのは巌勝の母で、巌勝は助手席に座っている。後部座席には炭治郎と民尾が座り、彼らの間に置かれた籐かごの中に、妖精たちは収まっている。彼らが向かうのは山奥の温泉なので、カーブの多い道がずっと続く。
 巌勝の母は妖精の存在は知らず、子供三人でのお泊り旅行だと思っている。右に左にハンドルを切り、アクセルとブレーキを巧みに使いながら息子に話しをしている。この旅行が終わったら勉強に集中するのだと、同じことをもう五回は言っている。巌勝は荷物の中に勉強道具も入れてあるから旅館でも勉強すると言っているが、炭治郎は「それは無理だろう」と思った。
 飛べなくなって以来殆ど家から出ない生活を送っている鬼舞辻無惨にとって、今回の旅行は久々の外出でもあり、いつもの不機嫌そうな態度を崩しはしないが、彼は内心では少しうきうきしていた。山道を抜ける車窓から青空と木々がずっと見えている。
「鬼舞辻無惨」縁壱に呼びかけられ、ぎょっとする。彼の顔をまともに見られず、ぎっと横目になり、縁壱の胸元を見る形になった。いつもの和服。半襟の白と長着のえび茶のコントラストが目にまぶしい。萌黄の軽やかな羽織はいつもの「うさちゃん」柄だ。無惨が黙って横目になっているので、縁壱は再び名前を呼んだ。
「何だ」うるさそうに顔をしかめて答える。やはり顔は見られず、喉元を見ている。鳴女は二人が会話を始める様子なのでうれしい気持ちになり、初登園の保護者かと自分につっこみを入れた。もし今車ががたんと揺れて、二人が折り重なってかごの底に倒れたなら……などと妄想し、いやいや、縁壱さんが、揺れたから倒れるなどという事はありえないとすぐに現実に戻った。
「なぜお前は私にうんこを五十個も送りつけたのだ」
 鳴女は目をむいた。のっけから「うんこ」ですか。
「私はそんな事をした覚えはない」
 鳴女は目をむいたまま無惨の顔を見た。バレましたと報告したではありませんか。正々堂々としらを切るなんて……っていうか、完璧にバレてるからしらを切るも何もないんだけど……。
「まぁ、そういう事にしておいてもよい」縁壱は無惨から車窓へ視線を移した。
 ああ、無駄にバックレたりするから会話が終わっちゃう。鳴女は勝手に無惨片思い認定をし、上司の恋を全力で応援する態勢になっている。
「しかし私は始め、あれをたにし飴だと思っていた」縁壱は再び無惨を見る。無惨はしばらく真正面のかごの目を見つめていた。縁壱も黙っている。なんてまどろっこしいのこの人たち! 鳴女が思った時、無惨がクククと笑った。
「ならばまた『たにし飴』を千でも万でも送ってやろう」
「こめんとは千が上限だ」
「分かっている」無惨の答えに、縁壱はふふふと笑った。
「こめんとでのお前の饒舌さには驚いたぞ」
 縁壱の後ろに座っている実弥は微笑んだ。ウンコを送られたと分かった時にゃ兄上君の手の上で半泣きになっていたクセに、罵詈雑言コメは「驚いた」で済むのかよォ。横を見ると、膝を抱えるようにして座っている義勇と目が合い、彼もふふと笑った。
「無惨よォ、お前、縁壱さんに構って欲しいから攻撃コメ送ったんだろォ? 今回は思う存分構ってもらえやァ」実弥は無惨をからかいながら、自分もこの小旅行では絶対に成果を出すぞと張り切っていた。
「構って欲しいだと? 冗談も休み休み言え」相変わらずの無惨。
「お前は家から出られぬ身であるから、旅行が終わっても家まで構いに行ってやるぞ」と縁壱。
「いらぬ! お前が来るくらいならシロアリが来た方がマシだ!」無惨は唸った。
「無惨、シロアリはやめておけ。家が崩壊するぞ」真面目なのか冗談なのか、小芭内が低いトーンで言った。
「崩壊する運命にあるのよ、こいつの家は」天元が義勇の後ろから身を乗り出す。あっ、冨岡の背中に胸つけてもたれんなよ! 実弥は天元を睨んだ。「また崩壊したら今度は俺んちの物置来いよ」
 あの物置は「お前んち」じゃねェ! とにかく冨岡から離れろ! 実弥は天元の肩をぐいぐいと手で押した。
「ありがとう不死川、重かった」義勇が笑った。頬を紅潮させて初めて、実弥は天元が義勇にもたれかかった理由を知る。天元を見ると、にやにや笑っている。実弥は慌てて目をそらせた。正面のかごの目を凝視している無惨が目に入る。好きな奴の顔をまともに見られない無惨よりは、自分の方が十歩も二十歩も前にいると、自分を落ち着かせる。ってか、無惨が縁壱さんを好きだってのはマジな話かどうか分かんねぇけどな。人差し指で頬を少しかいて、義勇を見た。
「無惨は縁壱さんを好きなのかなァ」
「そりゃ好きだろう」
「えっ?」
 なんでそんな「当たり前だ」みたいな言い方なんだ。
「縁壱さんの事はみんな好きだ。お前もそうだろう」
 ああ、そう、そういう意味ね……。
「しかし無惨は、俺には恋愛感情があるようにも見える」
「おおお。俺もそう思ったんだァ」
 「男同士である」とかどうでもいいんだな、お前は。そういうのォ、大らかに捉えてるんだな、さすが冨岡君だァ。って事は、俺は自分が男であるってのをさほど気にしなくてもいいって訳だ。あんまり気にしてなかったけど。
「不死川、妙にうれしそうな顔をしているな」
「してねぇよ!」
 よォし無惨、俺が見本を見せてやらァ。よぉく見て、お前も縁壱さんにコクるんだァ! 実弥は無意識に無惨の方を見て頷き、拳を作った右手を、もう片方の手でパシッと叩いた。無惨は訳が分からず、ぐっと眉根を寄せて実弥を睨んだ。

「おお! おおお!」
 旅館に着き、ロビーに入るなり天元が両手を広げてL字型に置かれたソファの角へ向かって飛んでいった。そこには人形の座敷のようになっている一角があるが、それは人形のためではなく妖精のために設えられた休憩所だ。この旅館は人間が泊まりに来る所であるが、産屋敷組ともつながりが深く、妖精たちが温泉旅行へ行くと言えば、近場ではたいていここである。
 天元はロビーに入ってすぐ、この休憩所に素山夫妻がいる事に気付いた。ばら組を『月刊ガーディアンズ』専属モデルに抜擢した編集長恋雪とその夫狛治だ。天元の後から他の妖精たち、巌勝と民尾もやってくる。炭治郎はフロントで手続きをしている。無惨は飛べないので民尾の服の胸ポケットに入っている。夏が近づいているこの季節、さすがの民尾もフロックコート風の上着は着ていない。
 素山夫妻は、小旅行特集の取材でここを訪れていると言う。
「ここへは何度目かですが、取材では初めてなんです。色々見なくちゃと思うと、また新鮮な気持ちがしますね」いつもながらにこやかな恋雪である。
「見ろ、この茶菓子を。ロビーでこんな茶菓子を出されるのは初めての事だ」狛治が自分たちの前に出された茶や菓子を手で示した。
「旅館も結構大変だったりするから、雑誌の取材と言われれば張り切りもするだろうな!」天元は菓子をつまむ。「これはうまい。とろとろだ!」葛餅らしい。実弥も手を出す。甘い菓子には目がない。
「マジうめぇ。こないだ炭治郎んとこで食ったやつよっか全然うめぇぞ。冨岡も食え」勧める実弥だが、義勇は軽く手を振って断った。
「確かに俺たち素山夫妻に出された菓子貪り食って、チョー行儀悪ぃな」天元がからからと笑った。
「お前たち、ちょうどいいから写真に入っていけ。別で使える写真が撮れる」狛治がカメラバックのフラップを持ち上げる。
「いいや、ダメだ」マネージャー宇髄天元はきっぱり断った。「ばら組は骨休めに来てるんだ。仕事はダメ、一切ダメ」顎の下で、両手を使ってバツ印を作る。仕方ないなと、狛治はカメラバッグのふたを閉めた。
「旅館の良い所など、見付けたら君たちに知らせる事にする」縁壱が言った。恋雪はありがとうと、頭を下げる。
「いい所、探そうぜェ」実弥が立ち上がった。
「おい、俺たちは骨休めに来ているんだぞ、そういうのはついででいいだろう」小芭内が言うが、実弥は聞こえぬふりで、義勇の襟首をつかんで飛び上がった。
「なんだ、不死川、何を探すんだ」
「だからいい所があるかもしれねェから、ちょっと見て回るんだよ」実弥が襟首を離すと、
「なるほど」と言って、義勇は実弥と並んで飛んだ。
 ロビーは大きな窓が何枚も並んでおり、その向こうにはきれいな庭がある。この庭担当の妖精がいるという話は聞いた事がないので、人間の庭師がすべて管理しているのだろう。
 壁に掛けられた絵の前で、義勇がホバリングをする。少ない色数で描かれた渋い絵を眺めている。実弥は少し先に行きかけて、また戻ってきた。
「お前、絵に興味あったかァ?」
「絵はあまりよく分からないが、この額縁がちょっと浮きすぎてるんじゃないかと思ったんだ」義勇が言い、実弥は額縁を注視した。
「確かにちょっと壁から浮いてるな、下まで――」少しさわって動かすと、額縁の裏からムカデがぼとぼと落ちてきた。
「なんじゃこりゃぁぁぁあああああ」思わず叫んでしまう実弥。
「ああ、これでいい塩梅に収まった気がする」義勇が満足気に頷いた。
「いや、いい塩梅じゃねェだろ冨岡ぁ!」
「慌てるな不死川、よく見ろ、これはおもちゃのムカデだ。ゴムでできている」
「はっ……」義勇に言われて見てみると、なるほどそれは本物そっくりに作られたゴムのムカデだった。「なんっ……だよっ!」
「見付けたのが俺たちでよかった。もし狛治だったら――」
「いや、狛治でいいだろ! ムカデを仕込む旅館だぞ。そこは書かにゃァならんだろ」
「かわいそうだろう。おもちゃのムカデなどなんの害もない」
「俺が心臓弱かったらどうするんだ!」
 義勇は目を細め、口をとがらせて実弥を見る。初めて見る表情だった。急にどきどきし始める。
「な、なんだよその顔は」
「狛治に言うのか」
「い……い、言わねェよ。その変わり、マジで心臓弱いじじばばとか、死んだらやべェからこんな事あったってのは、フロントに言っておこうぜ」
「それがいいと思う」義勇はにっこり笑った。

 五分程して、一行は部屋へ移動するため、廊下を歩いていた。炭治郎たちの荷物はすでに部屋に運ばれている。妖精たちは荷物を籐かごに置いているので、自らもそこへ収まり、かごは巌勝が持っている。
 実弥と義勇は、旅館のフロントでムカデの話をし、その時にラベンダー石鹸をもらった。なんとも言えぬ柔らかなよい香りに、義勇はうとうとしている。つられて実弥もうとうとし始めた。
「こいつらは赤子か!」無惨が眉根を寄せ、彼らを睨んだ。常に誰かの服のポケットや掌や、籐かごなどにいなくてはならない無惨に気を使って鳴女がずっとそばにいるが、縁壱もだいたいそばにいるという事に、無惨は気付いていた。優しさを見せられると苛々してしまう。無惨が、うとうとする義勇と実弥を見ている縁壱をじっと観察していると、彼が無惨を見た。慌てて目をそらす。くそっ、継国め、絶対にぎゃふんと言わせてやる、今夜にでもぎゃっふんふふんと言わせてやる!
 縁壱は、無惨はよくあんなに常に眉間に皺を寄せていられるものだと半ば感心していた。あの皺がどんどん深くなったらどうなるのだろうと想像すると、無惨の顔はだんだん火山の模型に変わり、眉間の皺が深く深く掘れてゆき、やがてマグマだまりに到達する。縁壱はいつの間にか夢の世界に迷い込んでいた。
 そして無惨は、自分を見たのに何も言わない縁壱を横目でちらりと見る。思わず目をむいた。私の顔を見ながら寝るとは! 舟をこぐんじゃない!
 隣で鳴女は笑いをこらえていた。
 部屋に入ると、無惨を除く妖精たちは部屋の中を飛んで見て回り、炭治郎は歩き回ってドアや襖を開け閉めして調査して回った。巌勝はカバンの中からノートと参考書を出して大きなローテーブルの端にきっちり揃えて置いた。テーブルの上でそれを見ていた無惨は、あの「きっちり加減」からは勉強に身を入れる気が微塵も感じられないなと思った。実際、そうであった。
 実弥は義勇と一緒に飛び回っていたが、床の間の掛け軸の前で止まった。
「怪しいなァ」
「二度も同じ手を使うと思うか?」義勇は実弥の顔を見、また掛け軸に目を戻した。炭治郎が近づいてくる。
「ムカデあるかも疑惑ですか?」
 二人は揃って頷く。
「掛け軸ですからね、挟み込む事は無理でしょうから――」炭治郎が掛け軸の端に触れると、それはいとも簡単に、派手な音を立てて床の間へ落ちた。掛け紐が切れたのだ。そして派手な音は、掛け軸のすぐ下にあった花瓶が割れる音だった。
「アイヤー」炭治郎は一歩後ろに下がった。
「いや『アイヤー』じゃねぇだろ」実弥が降下して花瓶に近付く。
「気をつけろ」義勇も続いた。炭治郎は膝を付き、いざって床の間へ戻り、花瓶の大きな破片を拾った。じっと眺める。天元、縁壱、そして巌勝と民尾もやってきた。
「これってお高い花瓶なのかしら」炭治郎はぼんやりと呟いた。
「炭治郎君が割ったの?」と民尾。
「いやァ、割ったのは掛け軸だァ」実弥が床の間にだらしなく横たわる掛け軸を指した。
「ですよね、俺じゃないですよね……いや、俺だぁ」炭治郎はがっくりとこうべを垂れた。
「何をしている、炭治郎!」突然義勇が大きな声で言った。「うなだれている場合ではないだろう。どうするか考えろ」
「でもどうするって言うんですか義勇さん」炭治郎に言われ、それはまだ考えていなかったと義勇は腕組みをして花瓶を見下ろした。
「謝るしかない、高いやつだったら俺、弁償できないから皿洗いとかするしかない」炭治郎は膝の上で両の拳を握りしめた。民尾が自分も付き合うと慰める。
「今からあきらめてはならない」縁壱が床の間の上を飛び回りながら言った。義勇は「そうだ!」とばかりに深く頷く。お前何も思いつかないんじゃねぇのかよと、実弥は義勇の頭に手を乗せた。義勇はその手を払いのける。真剣に考えるつもりのようだ。
「縁壱さんに考えはあるのか?」義勇が訊く。
「まずはこの残骸を片付けよう。そして、掛け紐をあろんあるふぁで継いで、また掛けておくのだ」
「あのー、それはいいとして、花瓶が無くなったっていうのはどうするんです?」テーブルの上の無惨の横に座る鳴女が声をかけた。無惨はうんうんと頷いている。
「そうだな、花瓶は最初からなかった事にしては?」
 五秒ほど、部屋の中が静まり返った。巌勝はきっちり揃えて置いた勉強道具の上に手を乗せたままぽかんと口を開けて弟を見ている。
 皆の反応を見て縁壱は、
「壺っぽいものを置いておくというのはどうだろう」と別の提案をした。
「壺っぽいもの……」炭治郎は辺りを見回す。瞳に輝きが戻っている。
「あれ、いいんじゃねェかぁ?」実弥が窓の外、庭を指さす。
「あれですか!」炭治郎が跳ねるように立ち上がり、内縁のガラス戸を開けて庭へ降りた。大きな石の傍に置いてある信楽の狸の焼き物を持ち上げる。「確かに大きさは同じくらいです!」急ぎ足で戻ってくる。
「マジか」巌勝がぼそっと言った。
「いいじゃん、ぴったりじゃん」天元が手を叩く。花瓶の破片を片付けた場所に置かれた信楽狸は、大きさという点ではぴったりそこへ収まった。
 接着剤は用意できなかったので、掛け軸の紐は小芭内が器用に結び、民尾が元通り掛けた。少し位置が高くなったが気付かれはしまい。天元は、紐は切れやすいように半分以上最初から切ってあったと主張した。確かにちぎれた部分は首の皮一枚程度で、その他の部分は切り口が鋭い。小芭内も頷く。実弥は、これも仕込みなのか? 花瓶を割らせようとしたのか? と、首を傾げた。
「ぐっ……はァ!」突然、巌勝が畳に倒れ込んだ。笑っている。全身を震わせて声を出すまいとしながらも、完全に爆笑している。どうやら床の間の掛け軸と信楽狸の醸し出す空気がツボに入ったようだ。
「みっくんがこんなにウケてんの見たことない」民尾が呟いた。
「兄上、大丈夫ですか、そんなに笑うと腹が攣りますよ」縁壱が巌勝の髪を引っ張る。
「ふぐっ……ウウウ……」今度は無惨が笑い出す。縁壱は口を半開きにして「ほう」と言った。「ちっ、違う、継国、違うぞ」
「何が違うのだ」
「私は笑っていない」
「信楽狸」真顔で縁壱が言う。
「んぐっ……」
「ま、とりあえず花瓶はなかったという事だな!」実弥が両手をぱんぱんと打ち合わせて払った。
「ユニークだが、なかなかいい床の間になった」義勇が言うと小芭内が
「お前本気で言ってんのか」ぎろりと睨んだ。炭治郎が申し訳なさそうに肩をすくめる。
 しばらくすると仲居が来て、スケジュールや館内の簡単な説明を行った。彼女を見ながら実弥は義勇の方へ顔を寄せ、
「この宿は何か匂うな」と言った。探偵風に格好をつけている。
「ムカデと狸か」
「いや、狸は違うだろォ」
 実弥の言葉が聞こえたか、狸を見ないようにしていた巌勝がまた笑いそうになる。「堪えろ兄上君!」実弥が目で注意する。震え出した巌勝は、トイレへ行く事にした。トイレでならいくら笑っても大丈夫だ。
 皆仲居と話したり、旅館のパンフレットを見たりしているので、実弥はちょっと義勇の肩に手を回すなどしてみようかと思い、そっと腕を上げた。
 その時、トイレからものすごい叫び声が聞こえてきた。
 実弥はびくっとして義勇の肩に回しかけた腕で彼の後頭部を殴ってしまった。縁壱がトイレへ飛んでいく。しばらく凍り付いたようになっていた仲居も慌てて駆け付けた。
 腰を抜かしかけた巌勝がトイレから這い出てきて、
「便器から見上げてる」と言った。
「兄上、これは人形の首です」縁壱は便器を覗き込む。便器の中にマネキンの頭部がはまりこんでいる。ペンか絵具で描いたか、おどろおどろしい表情に、血糊も付いていた。縁壱は仲居に尋ねた。「なぜかようなものを便器に収納するのです?」
「いや、収納はしてねぇだろ」と天元。
 仲居は訳が分からず、他の従業員を呼んだ。女将と支配人がやってくる。皆、どういう事なのか分からずにいるようだった。
「いよいよ匂うぞォ」
「うれしそうだな不死川。兄上君は腰を抜かすところだったんだぞ」義勇が気の毒そうに巌勝を見た。彼はローテーブルの傍に正座している。縁壱が肩の上に乗ると、
「縁壱……ちょっとだけ、ちびってしまったよ」ぼそりと言った。支配人や天元、炭治郎が話をしている騒々しさにかき消されそうな声だ。
「兄上、ちょっとだけで止められたのは大変立派な事ですよ」縁壱は言った。
「ちびってんのに『立派な事』とはどォいう事だァ」実弥は顔を背けてふふふと笑った。
 旅館の者たちとは天元と炭治郎が話をしているので、義勇は内縁の方へ飛んでいき、座椅子の手すりに立って庭を見た。実弥も飛んでくる。。
 義勇の隣に立って振り返ると、旅館の者たちが部屋を出て行くところだった。皆、話に夢中になっている。無惨までもが、天元たちがあっさり旅館を許した事について苦言を呈し、話の輪に入っている。巌勝は部屋の隅でごそごそとパンツを履き替えていた。
 実弥は向き直る。ガラス戸の向こうの庭は暗い。信楽狸があった辺りに小さな照明があるが、庭全体を照らしはしない。そのぼんやりした明かりに浮かび上がる茂みや苔、石などが作り出す空間は見る者の心を落ち着ける。
 しかし、実弥の心は落ち着いてはいなかった。またも馬群がターフを駆けている。最後のコーナーまで後少し。自分たちを見ている者がいないこの時に、ひとつ勝負をと思ったのだ。軽く咳ばらいをすると、義勇が実弥を見た。
「ここの庭は、ガーディアンがいると聞かないな」
「ん、ああ、おー、そォだな。庭師が全部やってんだな」
 二人で庭を見る。
「あー、と、とみおォう」また頬や口まわりの筋肉が引きつってくる。実弥は顔をぱんぱんと手で叩いた。
「どうしたんだ不死川」
「いや、なんでもない」情けねェ……。実弥は目を閉じて頭を傾ける。
「張り切りすぎたんじゃないか、旅館の調査で」義勇は実弥の後ろへ回り、首筋から両肩をもみほぐした。
 なんなんだこのラッキースケベならぬラッキータッチ……って、ダメだァ、こんなんじゃ、こんなんじゃねェだろ俺がやりたい事は!
「ほら、肩の力を抜け」義勇がぎゅっと力を入れた。
「あィいいいい……」痛ェだろがぁああ冨岡ァ! でも……優しいなお前……。またも義勇への愛情があふれだす。実弥はくるりと踵を返し、義勇と向かい合った。彼の両手をぐっとつかむ。義勇は無表情になって実弥の顔を見た。
「俺、お前――」
「義勇さん、不死川さん! お風呂へ行きますよ!」炭治郎が叫んだ。実弥は一瞬白目になった。部屋の中の方を見ると、目をキラキラさせた炭治郎の隣で天元が実弥に向かって肩をすくめてみせていた。

 部屋から大浴場までは少し距離があり、廊下を暫く歩くことになった。
 鳴女が恋雪を誘ったので、男性陣に狛治も加わった。狛治は民尾のポケットに収まる無惨を大いにからかった。鳴女は、この人は前世の事をすっぱり割り切って生きているのだなと好感を持った。今の人生を楽しまなくちゃ! 彼女は「ぎゆゆ」の浴衣姿を見られるかと、わくわくしている。
 この旅館は、大浴場にも妖精への気配りがされており、小さな湯舟や洗い場がある。小さな桶や椅子も用意されている。脱衣所にも同じように、妖精用の設備が整っていた。
 今日は妖精エリアがにぎやかだ。各々小さなかごに着替えなどを入れ、ぽいぽいと服を脱いでいる。
「兄上君はだいぶ体がよくなってきたな!」天元が人間たちの方へ向かって声をかけた。巌勝は少し照れて、礼を言う。
「同じようにやってるはずなのになぜだか魘夢君はあんま変化ないね!」炭治郎がにこにこしながら民尾の腕をバシッと叩いた。
 無惨はなかなか服を脱げずにいる。自分はずっと家にいて、これまでも毒を作る事ばかりしていて体を鍛えるという事はしていなかった。前世のラスボス然としていた自分とは大違いなのだ。更に、横で帯を解き、腰紐を解きと、てきぱき服を脱いでいく縁壱を横目でみていると余計に脱ぎづらくなる。彼の体は「バッキバキ」なのである。ぷらぷら飛んで手紙や荷物を運んでいるだけの仕事でこんな体が作られるものなのかと、震える思いであった。別の方向を見ると、他のガーディアンたちも見事な体つきをしている。伊黒小芭内となら並んでも大丈夫かもしれないと思うも、よく見ると彼の体も働くための筋肉が付き、引き締まっている。
「鬼舞辻無惨、どうしたのだ、早く脱がないと、魘夢君も中へ行ってしまうぞ」縁壱が言った。いつの間にか民尾が無惨運搬係になっている。「私が連れて行ってやってもいいが」
 全裸の継国に全裸で負ぶわれるなど考えただけでも失神ものだ! 無惨は身震いをし、服を脱ぎ始めた。
「おい、魘夢民尾! まだ行くな、私を運べ!」
「それが人にものを頼む態度かなぁ」民尾がぷぅと頬をふくらませた。
 縁壱は巌勝の頭の上に乗って、浴場へ入っていった。無惨はほっとする。
「お前、縁壱さんの前で脱ぎづらかったんだろ」天元がにやりとする。無惨は力を込めて彼を睨んだ。「あの人はな、小学校に上がった頃から十年くらい山暮らしをしていたんだ。子供の妖精が一人で山暮らしだぞ。十歳の頃に、人を襲っているクマを殺したことがあると言っていたし、逆らわない方がいいぞ、マジで」
 無惨は思わず目をむいてしまう。天元はにやにやしたままだが、あり得ない話ではない。悔しいが、アレを怒らせない方がいい事は無惨とてよくよく分かっている。
「クマ……クマ……どやって殺すんだよォ」実弥が呟く。
「生き物には急所があるからな」義勇が言って、浴場の方へ飛んでいった。実弥や天元も後に続く。民尾がうるさいので、無惨も少し急いだ。

「やはり温泉はいいなぁ」湯につかった義勇がにっこりする。「不死川、あの石鹸を持ってきたか?」
「ラベンダーか?」
「それだ。せっかくだからな」
 隣で温泉の効能書きを眺めていた縁壱が、
「鬼舞辻、温泉に通えばまた飛べるようになるやもしれぬぞ」と言った。
「知るか」無惨は正面を向いて空を睨んでいる。
「ずっと家にいるのは気が塞ぐだろう、通えばよいのだ」
「お前が横でぐちゃぐちゃ言う方がよほど気が塞ぐわ!」
 全く全く素直じゃねぇなぁと実弥が思ったところですっと手が伸びてきて、巌勝が無惨にデコピンをかました。無惨の頭ががくんとのけぞる。
「兄上! 頭がとれたらどうなさるおつもりですか、いくら妖精でも血だまりの湯舟となってしまいます」
 出血より頭が取れる事自体を心配しろよ縁壱さん。実弥はぷっと吹き出した。
「このところ、不死川はとても機嫌がいいな」義勇が言う。
「そんな事ねぇよ」
「いや、俺はそう思う」
「そうかいそうかい。悪いよりゃいいだろ」
 義勇は頷き、ムフフと笑みをもらす。実弥もつられて微笑んだ。
 その横で、無惨と巌勝は口論になっている。
「いつまで子供みたいな態度をとっているのだ!」と巌勝。
「お前が子供だろう! クソガキ! 小便たれ!」
「常日頃漏らしている訳ではない!」
「みっくん……」民尾が止めに入ろうとするが、巌勝に睨まれ、すごすごと引き下がる。実弥と義勇は少し面白がって、見物を決め込む事にした。
「だいたいこいつは鬱陶しいのだ! 私は放っておいて欲しい!」
「ほー、それ、マジで言ってんの? 構って欲しくて五十のウンコ飛ばしたの誰?」
 兄上君、なんかすごい図が脳裏に展開しちまうんだが。実弥は密かに笑みをもらす。隣で義勇も笑いをこらえているような顔をしていた。
「兄上、もういいのです、私はあれはたにし飴として処理致しましたので――」
「たにし飴じゃない! 私が飛ばしたのはウンコだ!」無惨が縁壱をバッシバシと叩いた。
「弟に何をする!」巌勝が湯舟から縁壱をざっとさらって胸に抱きかかえた。「乱暴者! 縁壱が怒ったらお前なんかピンだぞ!」
 洗い場から見ていた天元が
「『ピン』ってなんだ?」と笑った。隣で髪を洗っている小芭内は泡々の頭のままかぶりを振った。
「いつになく熱くなっているな、兄上君は」
「『いつになく』ってか、あの子は縁壱さんの事となるといつもああだろ。無惨ほど態度の悪いやつはそういないってだけで」
 巌勝は縁壱を手に載せて、のしのしと洗い場へ歩いて行く。
「無惨なんかに優しくしてやる事ないんだ、縁壱」鼻息も荒く椅子に腰を下ろす巌勝の顔を、縁壱は困惑気味に見ている。
「なんだ、縁壱」
「いえ……兄上があまりにお怒りになるものですから」縁壱は、巌勝がためた、洗面器の中の湯につかる。
「当たり前だ。なんだあの無惨の態度は。お前が優しくしすぎるからつけ上がるのだぞ」
「はぁ」縁壱は少しうつむいた。「私は、優しくなどしておりません。ただ、今はもう前世とは違う世界に生きているのだと、私自身が感じたいだけなのです。鬼舞辻を利用しているだけなのかもしれません。それは、優しさではないでしょう?」
 巌勝は、両手で泡立てた石鹸を見つめた。
「そうか」言って、少し黙る。縁壱も、巌勝の手の中の泡を見つめる。「お前を責めるのは違ったな。俺が悪かった。俺は大分に前世の事を気にして生きていると思っていたが、全くそうではなかったな」
 縁壱は黙ったまま、巌勝の手の中の泡に飛び込む。
「あっ、何すんだ縁壱、顔を洗うんだぞ!」言っている途中から、二人とも笑い出してしまった。
 無惨は湯舟の中で嫉妬心に震えていた。いや、嫉妬心にではなく、嫉妬している自分自身に驚き、震えていたのだ。兄弟なのだから仲が良くても当たり前だ。それなのに、なぜ「取られた」という気持ちになるのだ。
「俺は分かるぜェ、無惨さんよォ」実弥がすすっと寄ってきて言った。無惨はぎくりとする。心を読むな!
「素直になりゃいいのにと思ってたけどよォ、ああいうのは、素直になったところでつらさが減るもんでもねぇな」
「私はつらくなどない」
「ちっ、天邪鬼だなァ」
「誰が天邪鬼だ」義勇が寄ってくる。
「こっちの話だよ」実弥がひらひらと手を振った時、人間用の大きな湯舟に設えられたライオン像の口から源泉が吹き出してきた。民尾が歓声をあげる。「ライオンのゲロだ!」
「言い方なんとかしろよー」炭治郎が八の字眉になる。と、ライオンがごぼごぼっと咳込んだかと思えば、突然湯と一緒に魚を吐き出し始めた。
「しょええええええええええええ!」民尾が立ち上がった。炭治郎も飛び上がる。着地で滑って転び、一瞬魚と一緒に湯舟に沈んでしまった。
 民尾の叫び声に、無惨以外の皆が集まって来た。
「なんで魚が出てくるのだ」小芭内が眉間に皺を寄せる。
 皆が見ていると、湯につかっているため、魚は次第に弱ってきた。
「このままじゃ死んじゃうよ」民尾が泣きそうになっている。巌勝は洗面器を重ねてたくさん持ってき、水を入れる。魚を避難させようというのだ。
「あっちに水風呂があったぞ」天元が言い、その場所へ行ってみると、そこには大量のアメリカザリガニが入っていた。「危ねぇ!」
「どういう事なのだ、この風呂は……命をなんだと思っている」言って、縁壱が口元をきゅっと引き締めた。
「それもそうかもしれないが、つっこみ所はそこじゃないだろう」小芭内がぼそっと言う。
「不死川の言う通り、この旅館には何かあるな」義勇が目を細め、曲げた人差し指を顎の先に押し付けた。
「だぁろ? 絶対おかしい」
「もしかすると俺たちの記事を面白くするためにこういう演出をしているのかもしれないな」狛治が言った。実弥と義勇はそろって彼を見る。
 違うだろう。二人が腕組みをするタイミングもそろっていた。
「おっ」実弥は妖精用の湯舟を見て声を上げた。移動できず、一人湯につかったままだった無惨がのぼせてぐったりしている。
「あれはまずいな」義勇が言い、実弥と一緒に無惨を脱衣所へ運び出す事にした。

 浴場で魚を捕まえる炭治郎たちと指図する妖精たちの声が、脱衣所まで響いてくる。意識がもうろうとしていた無惨だが、うちわであおがれ、少しずつ頭がはっきりしてきた。浴衣を掛けられてバスタオルの上に寝かされている。目を開けると、実弥と義勇が顔を覗き込んでいた。
「気分はどうだ」義勇が訊く。瞬きを何度かしてから、無惨は大丈夫だと言った。実弥は彼が起き上がり、浴衣を着るのに手を貸してやった。そして、傍に置いていた牛乳を渡してやる。
「スポドリとかのがいいかもしんねェけど」
「いや、すまない」無惨は素直に礼を言う。実弥も義勇も少し驚いて顔を見合わせる。何口か飲んで、無惨は大きく息を吐いた。
「情けない事だ」彼の声は少し寂しそうな色を帯びている。「私は何の力もない。鬼ではないし、妖精でありながら飛ぶ事もできない。ましてやクマを殺すなど」
「クマは俺たちでも殺せねぇよォ」と実弥。義勇も頷く。
「今は部下も鳴女一人だ」
「いい部下だろう?」義勇が言うと、無惨は少し笑った。縁壱がいないから少しは素直に話せるのかと実弥は思った。
「こんな私に継国はどうして……なんというか……仲間のように接するのか。少し気味が悪いのだ」
「素直になれよ、単に戸惑うだけで、本当はうれしいだろォが」実弥は無惨が飲み干した牛乳の瓶を受け取り、販売機の横にある木箱に入れた。
「うれしくなどない。訳が分からないから不愉快だ」無惨は両ひざを抱えた。
「兄上君に聞いたのだが、縁壱さんは、今のこの瞬間だけが現実なのだと言っていたらしい」義勇が言う。「前世から、そしてそれが終わった後から、ずっとしてきた事が今に続いているから今だけを見るのだという意味だと俺は思う」
 無惨はまたため息をつく。
「縁壱さんは素直だァ。ただ素直なんだ。それがたまに厳しく映ることもあらァなぁ。でも結局の所、よくよく考えりゃあの人はいつもいつも優しいのよ。素直だからな。素直ってなァ、馬鹿正直とは違うからな!」実弥は無惨の肩をぽんぽんと叩きながら、冨岡もそういう所があるよなぁと思っていた。そして、自分もそうありたいと。
「しかしやはり、私は継国の心底困る顔が見たい」無惨が足元に、ぼそりと言葉を落とした。実弥はワハハと笑った。無惨はさっと顔を上げて実弥を睨む。
「悪ィ悪ィ! しっかしなぁ、そりゃもう、好きだって言ってるようなもんじゃねぇか!」
「SNSには素直にコメントを送れよ」義勇も笑って無惨の膝を軽く叩いた。
 その時、浴場から皆が上がって来た。魚を救うため大いに働いたので、汗を流してもう一度湯につかっていたらしい。
 無惨は再びさっと横になり、気を失っているふりを決め込んだ。吹き出しそうになるのをこらえて、実弥はもう一枚バスタオルを取って彼に掛けてやった。頭の中では、彼との会話を繰り返し思い出している。温泉の効能か、体の芯からぽかぽかとしていた。

 またも、一行を代表して宇髄天元と炭治郎が大浴場での大混乱について旅館の者へ話をしに行った。狛治も行くと言ったが、旅館の者が委縮してしまうかもしれないという事で狛治は部屋へ戻る事になった。
 鳴女と恋雪に女湯の様子を訊いてみると、ライオンから魚が大量に出てくる事はなかったが、水風呂にはやはりザリガニがおり、洗い場にナマコがいたらしい。
「やはり、旅館の者も驚いていたな」一足遅れて炭治郎と共に部屋へ戻って来た天元が言った。
「演技ではないのか」無惨が疑う。
「いや、俺には分かる。あれはマジで驚いてた。焦ってたな。素山夫妻が取材に来ている時にこんな派手にいたずらを仕掛けられて」前世で元忍びであった天元の言う事ならと、無惨も頷いた。
「ナマコにはホントに驚いた」鳴女が厚い前髪の後ろの一つ目をぎゅっと閉じる。「襲ってきたら死ぬ気で恋雪さんを守る覚悟でしたよ」
「洗い場のナマコがそんな俊敏に動くはずがなかろう」と小芭内。
「ただのナマコではないかもしれませんので。例えば突然触手を出してくるかもしれません」鳴女の声が少し上ずってきたのに無惨は気付いた。こいつ、また「萌えて」いるな。鳴女が夢中になっているものに、この頃無惨は気付いた。あのアカウントで縁壱に悪意のあるコメントを送っていて気付いた事だ。真逆のコメントを、鳴女は冨岡義勇に送っていた。そしてばら組の事を話す時、鳴女はいつも頬を赤く染め、声を上ずらせているのだ。しかし今はナマコが触手を出すという訳の分からぬ話をしているのになぜ……。彼は少し首を傾げた。
「触手って」小芭内は少しのけぞって天井を見た。
「触手が恋雪さんを襲ってきたら大変ですからね!」
 実弥がごくりと唾をのみ込んだ。義勇が触手に絡めとられる様を想像してしまったのだ。
「もし縁壱がそんな事になったら……」彼らの向かい側で巌勝が呟く。
「大丈夫、大丈夫、幸い現場は浴場です。水の呼吸とは相性がいいはず」鳴女が言うと、義勇が「えっ?」と目を丸くした。
「えっ、そんならなんです」巌勝は鳴女の方へ身を乗り出す。「日の呼吸は――」
「まぁああっちぇええい! 待て! お前らなんだ!」天元が両手を広げてばっさばさと振った。「いい加減にしろ。妄想なら今夜布団の中で地味にやれ。だいたい縁壱さんや冨岡がナマコの触手に捕まるかど阿呆」
「すみません、馬鹿の引き金を引いてしまいまして」鳴女がぺこりと頭を下げた。
 そこへ仲居がやってきた。支配人と女将も一緒だ。また何か起こったのかと、皆少し身構えた。
 今度は食事が狙われたようだ。
 女将が言うには、用意していた食材がすべて魚肉ソーセージにすり替えられていたらしい。彼女らはもう懇願するような顔つきになっている。
 一体どういう事なのか、知っているなら教えて欲しい。そういう顔だった。
「下ごしらえのすんだもの以外はすべて魚肉ソーセージになってしまいますので、急いで買い出しに行こうとしたのですが……車が見当たらず……」
「あそこにあるのは軽トラだと俺には見えるがね」小芭内が窓の外、垣根の向こうに止めてある白い軽トラックを指さした。
「はぁ、そうなんです。今になって戻りまして」
「完全に嫌がらせだな!」無惨が唸った。
「うんこを五十個投げつけられるよりずっとひどい」無惨の真後ろに座っている縁壱がぼそりと言った。さっと振り向いた無惨は、湯上りで髪をおろしたままの縁壱とまともに顔を合わせてしまい、慌てて向き直った。ちくしょう、のんびりした顔で嫌味を言いおって。それに何だあの湯上り人妻NTRみたいな艶めかしさは。思考回路が少し鳴女仕様になってしまっているようだ。
 料理長は潔く決心し、全力を出して魚肉ソーセージで客を満足させられるコース料理を作ったと、支配人が拳を震わせながら言うので、一行はそれをいただく事にした。逆に興味が湧くではないか。
 そして、天元はいやがらせについて自分たちも調査してみると言い、彼らを安心させた。

「しかし、ギョニソはギョニソだな」小芭内が魚肉ソーセージ団子を食べ、飲み込んでから言った。極端に小食な彼は、小鉢に入った団子を平らげてから汁物をすすり、食事を終える。皆はまだ魚肉ソーセージのコース料理を堪能している。堪能するが、すべて魚肉ソーセージだ。小芭内の言う通り、魚肉ソーセージの味と香りはかなり主張が強い。
「鱧が食いてぇ」実弥がぼそりと呟く。
「やめろ不死川、魚肉ソーセージ以外のものを思い出させるんじゃない」義勇が眉根を寄せた。
「しかし味はともかく、見る分にはすごいよねぇ」民尾は料理が運ばれてきた時から写真を撮りまくっている。SNSに写真を投稿するのが趣味である彼にすれば、今回の事はおいしい出来事といえよう。「みっくんも入って」
「嫌だよ。なんでギョニソと一緒にお前のSNSにアップされなきゃならんのだ」
「みっくんが入ってる写真はいつもの十倍いいねがくるんだ!」
「それ、兄上君の顔にいいねついてるだけじゃん」炭治郎が苦笑する。
「まぁね、炭治郎君でも試したけどみっくんが一番効果的なんだ」民尾はにっこり笑い、炭治郎は狐目になった。
「でもこれって――」巌勝は箸をおいて料理を眺めた。「朝もギョニソで旅館の朝ご飯ってなるのかな」
 皆、数秒黙った。
「いや……軽トラが戻ったから買い出しには行ったんじゃないか?」テーブルから離れて横になり、本を読んでいた小芭内が顔を上げていった。
「また何かトラブルあって朝食用意できなさそうだよねぇ」民尾がいつもの夢見がちな顔になって言ったが、本当に夢見心地になっている訳ではない。
 実弥がパチッと音を立てて箸をおいた。
「やーっぱおかしい。おかしいぞォ」腕組みをする。「ロビーのムカデから始まってる。今思えばあれも客の子どもかなんかがいたずらしたのかと思ってたが、違ェなぁ。一連のいたずらだァ」
「このタイミングっていうのも匂うな」天元が実弥の方へ人差し指を突き出した。「恋雪さん達が取材に来る。『ガーディアンズ』の記事なら紙媒体だけじゃなく、ネットでも配信されるし、そのネット版は世界中の産屋敷組パートナー組織のガーディアンたちも読むんだ。大打撃だろう」
「しかし、なぜそんな事をするのだ」無惨がしかめ面のまま天元を見た。
「無惨、お前なら悪い人の心理はよくよく分かるんじゃないのか?」炭治郎が無惨をちょいちょいと突いた。無惨はバシッと炭治郎の指を払いのける。
「今世の鬼舞辻はさほど悪い心を持ってはいないようだよ、炭治郎君」縁壱が言った。鳴女は無惨の頬がぽっと赤くなるのを見逃さなかった。
「とにかく俺、母さんに連絡する」巌勝がスマートフォンを手にした。皆、なぜ? と問う顔つきになる。「これは事件だ。解決して旅館の人たちを安心させるまで帰れないよ」
「みっくんの正義感に火がついちゃった」民尾がぼそっと呟いた。
「兄上君は勉強しなきゃなんないんじゃないの?」鳴女が心配顔で訊く。
「いいんです。これが片付いたらキッチリ成績を上げますよ」元々きりっとした顔つきであるのを更にきりりとさせて言ってから、巌勝はスマートフォンに母宛てのメッセージを打ち込み始めた。
「事件……かぁ。旅館の人たちにしてみりゃぁ十分事件だよなぁ」実弥が頭の後ろで手を組み、床の間の掛け軸を見る。
「解決まで帰らないなら、俺たちも母屋のオバハンに連絡せねばなるまいな」小芭内もスマートフォンを取り出してメッセージを入力する。
「花もひと段落したところだから、丁度よかったな」縁壱は微笑んだ。
 しばらく考え込んでいた無惨ははっと顔を上げ、「そうか」と呟いた。
「犯人はこの旅館をつぶそうとしているのだ。ただでさえこういう家族経営の小さな旅館は景気が悪いと聞く。そこへ打撃を与えてつぶそうとしているのだ」
「何のためかはこれから調べないといけないな」義勇が箸を置きながら言った。口元についた飯粒をそっと手拭きで拭い取る。「この旅館をつぶして得するものがいるはずだ」
「よーし。俺ァこれからちょっと飛び回って、旅館にいる奴らを偵察してくる」実弥が立ちあがった。「どんな面子か。そいつらがどういう関係にあるのか。そういうのをまず外側から観察してみらァ」
「俺も行こう」ほぼ同時に天元と縁壱が言って、立ち上がった。
「俺たち人間は目立つから不死川さんたちに任せた方がよさそうですね」と炭治郎。「もし、人間の力がいる場面に出くわしたら直ぐに連絡下さい」
 実弥達は揃って頷き、部屋を出て行った。

 

 日が変わっての朝。
 素山夫妻は帰って行った。今回は不可解な事が起こり過ぎたので、この旅館の記事を書くのはまたにするという事だった。その点に関しては旅館のものたちは胸をなでおろしたが、今回のいたずらをしている者が誰なのか判明しない事には安心できない。
 昼下がりまで、天元、実弥、縁壱は、旅館を飛び回って人間たちを観察した。勿論、少し前の偽富くじ事件のように悪さの片棒をかつぐ妖精がいないとも限らないので、人間以外に何かいないかも見たが、自分たち以外の妖精を見かける事はなかった。
「若女将?」炭治郎は目を丸くした。いつもきらきらしている瞳がさらにきらっと輝く。「若女将って見かけなかったよね」
 皆部屋に集まり、天元たちからの報告を聞いているところだ。
「廊下をうろうろしてるの見たよ。きれいなべべ着て、あんま仕事できなさそうな女だよ」鳴女が低いトーンで言う。無惨はドライすぎる鳴女の物言いに目をむいた。それに気付き、鳴女は
「私はあんまああいうタイプ好きじゃないんですよ無惨様」と言った。
「う、うむ、そうか。私は見たことがないから分からないが、鳴女が言うならその女は怪しいんじゃないか?」
「鬼舞辻」無惨の横に座っていた縁壱が首をめぐらせ、無惨を見た。「見たことがない人を悪者扱いするのはいかがなものか」無惨は舌打ちする。
「うるさいぞ。怪しいの『ではないか』と言っているのだ。何も断定している訳ではない」眉根を寄せて膝の先の床を睨む。
「なるほど、悪かった」縁壱は無惨の肩をぽんぽんと叩いた。肩が焼けるように熱くなった、そんな風に無惨は感じた。前世で無惨の肉体を斬り、焼いた縁壱の赫刀を思い出す。今も彼は、「普通の鉄」で打った刀を赤く染めると言う。恐ろしい男だ。恐ろしいが、今彼の横にいる継国縁壱は彼の敵ではなく、彼もまた縁壱の敵ではない。その関係の、なんと心地よい事か。
 物思いにふけっていた無惨ははっとした。心地よいなどという事があるものか! ぎりぎりと歯ぎしりをする。鳴女が「どうしました?」と顔を覗き込んでくる。
 無惨も難儀なやつだなぁ。彼らを見ていた実弥はふっと笑みをもらした。
 この頃の自分は、緊張しすぎるあまり告白するには至っていないが、素直になるという事はできている。口が悪いのは生まれつきだから仕方がないが、義勇に対してブチ切れたりはしていない。そのせいか、義勇も実弥に対してこれまでより口数が増えた気がする。無口な義勇がこんなに話す相手は自分以外いないんじゃないかと思うと、実弥は期待に胸を膨らませてしまう。
 もしかして、冨岡も俺の事……好きとかまでいかなくても、他の奴とは違うって思ってんじゃねぇのかァ?
「不死川、何をにやにやしているんだ」
 小芭内に言われ、実弥は慌てて口元を引き締めた。危ねェ。だらしない顔を冨岡に見られちまったかァ? そっと義勇の方を盗み見る。ばっちり目が合ってしまった。
 見られてたぁぁぁぁぁ……。
「おい、お前ら」天元が、無惨から義勇まで、固まって座っている数人を指した。「先生の言った事、聞いてたかぁ?」
 一同、黙る。鳴女と縁壱も天元の話を聞いていなかった。無惨、そして実弥の様子を見ていたのだ。
「申し訳ない、もう一度言ってほしい」縁壱はぺこりと頭を下げた。
「まったく」天元は腕組みをする。「今度聞いてなかったら全員アメリカザリガニの水風呂にぶっこむからな」
 天元が、実弥と縁壱の見てきた事もまとめて報告する。
 若女将がおかしい。
 それが一番重要な点であった。
 若女将はきちんと仕事をしている風には見えない。派手ではないが、美しい着物を着て館内をふらふらしているだけだ。本人は仕事をしている風を装っているつもりなのだと天元は言う。彼女は去年までは家を出ていたが、女将の後を継ぐために戻ったらしいが、他の従業員といい関係を築けている様子もない。一人でぶらぶらしているのだ。
 彼女がロビーのソファに沈んでiPadを見ている所へ、昨日実弥が出くわした。ニヤニヤしているので、彼はそっと近づいて画面を見てみた。
「エロ動画でも見てんのかと思ってよォ」実弥は言った。
「エロ動画見てニヤニヤする女の人なんているかなぁ」民尾が言う。
「でもな」実弥はぎゅっと眉根を寄せ、少し前のめりになった。「何のサイトか知らねェけど、少年たちの写真が大量に投稿されたサイト見てたんだ。それを見てちょっと跳ねたりひとり言言ったりぽちぽち画面タップしたりしながらにやにやしてたんだァ」
「そ、それは私ではないですよね?」鳴女は汗をだらだらかいている。
「鳴女さんじゃねぇ、若女将だ。でも身に覚えあんのかァ?」
「ま、まぁ……その、ま、なんて言いますか、推しエキスを吸収している女は皆そのような感じなのでは」
 一瞬部屋が静けさに満たされた。
「おし……えきす……」縁壱がぼそっと復唱した。「しじみえきすみたいなもの? 翌日すっきり起きられるとか」
「栄養にはなります」鳴女が答えると、縁壱は口をすぼめて何度か頷き、無惨を見た。
「な、なんだ」
「お前の部下は博識だな」
「そうかもしれないが……え? そうなのか?」
「とにかく!」天元が少し大きな声を出した。「若女将は少年が大好きとみた。不死川の報告からは、『推し』がいる訳じゃなさそうだ。今は誰でも、とにかく舐めるように写真を見て、ビビっときた写真にコメしたりいいねしたりしているんだ」言葉を切ってからゆっくり皆を見る。
「今はこの若女将以外に怪しい奴がいねぇ。若女将の怪しさは別物の怪しさではあるが、ここしかとっかかりがねぇ以上、ここを登るしかない。その先で何か拾えるかもしれねぇからな。まずはここだ」
「どうするんだ?」小芭内が訊く。
「今は手当たり次第の若女将だ。『かわいい少年』なら誰でもいいってな」
 天元は一口茶を飲んでからまた皆を見た。
「そこでだ。俺たちは若女将の『推し』になれるかもしれない人材を送り込む」
 普段から伸びている縁壱の背筋がもう一段ぴんと伸びた。天元は彼を見る。しばし空気がぴりりと尖った。
「大丈夫だ、縁壱さん。兄上君は十分強いし鍛えられているし、炭治郎や魘夢も一緒だ。それに若女将の趣味は炭治郎かもしれないだろ?」
「えっ」炭治郎は驚き、民尾は
「俺って選択肢はないんだねぇ」とのんびり言った。
「私もついていく」縁壱は少し硬い声で言った。「そして万が一の時、兄上たちに危害を加えようとしたものの命の保証はできぬ」
「縁壱、大丈夫だって」巌勝が縁壱の背中を指でちょこちょこと撫でた。
 実弥はいたく感動していた。こんな風に守るのだ、男は! 万が一の時、奴らの命の保証はできない。
 っかぁぁぁ! かっけェぇええええええ!
 この不死川実弥、万が一の時、冨岡に危害を加えようとしたものの命の保証はできぬ。
 勝手に想像して勝手に頬を染める実弥を、怪訝そうな顔つきで義勇は眺めていた。この頃本当に不死川は変だな。

 しばらく若女将の姿を見なかったが、夕方にさしかかる頃やっとロビーに彼女の姿を炭治郎たちは見付けた。炭治郎、巌勝、民尾の三人とも浴衣を着ている。袂には妖精たちが隠れていた。
 ロビーのソファに座って、若女将はiPadの画面を食い入るように見ていた。実弥の報告にあった通り、にやにやしている。
「すみませぇん」民尾が若女将に声をかけた。彼女はぎょっとして飛び上がり、素早くiPadのロックボタンを押した。はずみで付け爪が取れる。
「なんですか?」彼女は爪が取れた指を口に入れてなめながら三人を見た。これが若女将の態度かと、無惨は巌勝の袂から少し顔を出して睨み付けた。すぐに縁壱に襟首をつかまれ、袂の中に引き戻される。
「あのぉ、俺たちちょっと困ってるんです」炭治郎が民尾の後を継ぐ。
 若女将は三人の少年を前にして、顔を上気させている。一人ずつ三往復ほど、三人の顔を見たが、巌勝の顔の上で視線が少し止まった。
「困ったって、どうしたの?」年のころは三十前か、きれいな肌をした若女将は、巌勝の顔から視線を外し、庭の方を見ながら言った。巌勝の浴衣の袂から縁壱の顔がのぞいている。無惨は自分には奥にいろと言ったくせにと、袂の中で縁壱の尻をばっしばしと叩いた。共に居る実弥に静かにしろと腕をつかまれる。
「やはり、兄上の顔ばかり見ている」尻を叩かれてもものともせず、縁壱は観察を続けている。
「兄上君はすごいな、初対面で顔だけでほぼ落としてるんだ」実弥が言う。縁壱は「顔ぱすというやつだな」と言ったが、同じ袂に居る実弥、無惨、義勇は皆「それは違うだろう」と思った。無惨はまた一発縁壱の尻を叩く。
「魚肉ソーセージばかり食べすぎちゃって、こいつが――」炭治郎が民尾を指す。「腹の具合を悪くしちゃって。でも俺たち薬を何も持ってこなかったので困っているんです」
 巌勝は、若女将が自分の顔を頻繁に見ている事に気付いていた。学校でもモテる彼は、その仕草の意味するところを十分に理解していたし、自分たちのミッションに対する使命感も強かった。気は進まなかったが、ミッションのためであると、巌勝は思い切って若女将の座っている向かい側のソファのひじ掛けに片足を乗せた。波止場にいるかのようなポーズになる。しかし、巌勝は浴衣を着ているのである。裾が大きく割れ、片足の太ももが大胆に露出した。これには炭治郎と民尾も度肝を抜かれたようで、民尾はよろめくように一歩下がった。
「兄上! やりすぎです! 兄上! 直立なさって下さい!」縁壱が叫んでいるが、妖精の声なので巌勝たち三人以外には届いていない。袂の中で、実弥達は何が起こったのかと顔を見合わせている。
 若女将は震えていた。少しずつ前屈みになっていく。割れた着物の裾から更に中を覗き込もうとするかのような動きであった。
 と、すっと足を下ろし、片足に体重をかけて立って巌勝は、
「薬、持っておられたら分けて欲しいんですが」と涼しい顔で言った。
「兄上……そのようなやり口……いつ、どこで学ばれたのか……」縁壱は袂の底へ倒れ込んだ。しっかりしろと無惨が頬を叩く。
「モテるやつってなァそういうこたぁ自然と身に付いてるものなんじゃねぇの」実弥が笑い、義勇もつられて微笑んだ。彼は無惨に縁壱を叩くのをやめさせてから、縁壱に代わって袂から顔をのぞかせた。
 若女将はもう巌勝にメロメロになっている。「お近づきになりたい!」という気持ちが全身からダダ漏れである。
「あたしの部屋にぃ、薬、あるから、来る? とってきてあげてもいいけどさ、結構くつろげるんよ、うちの部屋。飲み物とかお菓子とかもあるし、ゲームもできるよ」
「マジであいつ若女将なのか」彼女の話し方に、実弥は眉をひそめた。目の前にある義勇の尻をぺちっと叩く。無惨が縁壱の尻を叩かずにおれなかった気持ちが分かる。

 若女将らしからぬ若女将の部屋はまた、若女将らしからぬ部屋であった。若女将らしい部屋などというものが存在するのかどうか、作者にはよく分からぬが、とにかく散らかっているだけでなく、サイケデリックな模様のカーテンが吊ってあったり、襖にキッチュな色合いのポルカドットの壁紙が貼られていたりしており、畳の上にも似たような柄の絨毯が敷かれ、四隅を紫の頭のピンで留めてある。ちゃぶ台の上には化粧品やマニキュア、食べかけの菓子、飲みかけの缶ビールなどが所狭しと林立している。
 炭治郎はむっと立ち込める「溜まった空気」に一瞬顔をしかめた。鼻の良い彼には耐えがたい匂いがするらしい。巌勝や民尾にとっても、進んで入りたいと思える部屋ではなかった。
「ま、あっちやこっちや、どこでもくつろいで」部屋の引き戸を閉めて、若女将はにっこり笑った。炭治郎たちはなるべく汚れてなそうな所を選んで腰を下ろした。若女将の期待とは裏腹に、巌勝は正座をしている。炭治郎と民尾は浴衣の裾を膝の裏にぎゅっと押し込み、膝を抱くように体育座りをしていた。部屋にはクッションや座布団が置いてあったが、汚れている気がして三人ともそれには気付かないふりをしている。
「アジト感あって、なかなかイカすっしょ、あたしの部屋」若女将はにやりと笑った。
「あの、あなた、本当に若女将なんですか?」巌勝が言い、炭治郎はぎょっとして巌勝の顔を見てから若女将に目を戻し、反応を見た。
 若女将はけたたましい声を上げて笑った。
「そうよ、そうだよ! あたし去年から若女将だよ! らしくないって?」言ってからまた笑う。
「そうですね。でも、らしくないって、いい意味で言ってますよ俺」と巌勝。三人の袂に分かれて潜んでいる妖精たち全員が、巌勝の「天然スケコマシ」に微笑んでいた。縁壱だけがなんともいえない顔をしている。
「えっ、どゆ意味? いい意味って?」分かっているだろうにわざわざ質問する若女将。巌勝の事などどうでもいいが、とにかくこの女、虫唾が走る。無惨は苛々していた。実弥と義勇も苦笑いしている。心配そうな顔つきをしている縁壱の肩を、無惨は無意識にぽんぽんと叩いた。縁壱が振り向くと、ひとつ深く頷く。大した意味などないが、自然とそうしていた。
「なんていうか、部屋もそうだけど、着物とか髪とかも、なんかきれいにしてるし。もっとシケてる感じになってる人多そうだから、女将とか若女将とか」巌勝が言い、炭治郎と民尾もうんうんと頷いて同意する。勿論、ふりだ。
「あんたホントにかわいいね!」若女将はうれしそうに笑い、わざと雑にまとめた髪の後れ毛をくるくると指でいじった。「あたしはここんちの娘なの。しばらく家を出てたんだけどさ、去年戻ったんだ」
「無理矢理家に戻らされたってパターンですか?」炭治郎が訊いた。
「ううん、そうじゃないの。あたしから戻るって言ったんだよ。だけどね、家を飛び出した娘が心を入れ替えて戻りました! って、そんなドラマ的な話じゃないんだ」
 私のオカリナを使わずとも、自ら自白してくれる成り行きかなと、民尾の袂の中で鳴女は思った。天元も小さく口笛を吹く。
「え、家、飛び出してたんですか?」炭治郎の瞳の輝きは、この悪趣味な部屋の中でいつもより半減していたが、それでも若女将には十分きらきらして見えた。何、このかわいいトリオ。
「まあね、若気の至りよねぇ! こんなシケた旅館さ、将来ないよ」
「あなたみたいな最先端行く系の人には耐えられないレールかもですね」巌勝の言葉に、
「お前ホントに十四歳なのかよォ」と実弥が呟いた。義勇が吹き出す。縁壱は小声で
「やめてくれ、不死川君」と言った。
「巌勝は弟に弱く、継国は兄に弱いのだな。さすがに双子だ」無惨がぼそりと言い、
「確かに」と実弥が笑った。
「だけどさ!」若女将は飲みかけのビールは無視して、小型冷蔵庫から新しい缶ビールを取り出し、空ける。炭治郎たちには三五〇ミリリットルのペットボトル入りコーラを渡してきた。「見付けたんよ。てか、教えてもらったの、この旅館の輝く将来を」
「輝く、ですかぁ」民尾はコーラに何か入っているのではと怪しみ、フタを開けられずにいる。巌勝と炭治郎も同じく躊躇しているようだ。
「そう、輝く未来」若女将はごくごくとビールを半分ほど飲んだ。白い喉がうねるが、やせた首は流木のようで、全く艶めかしさはない。「それ、教えてもらったからさ、あたし戻ったわけ」着物の袖口で口元を拭う。今や妖精たち全員がこの若女将に蹴りでもくれてやりたい気分になっていた。この女がこのよき旅館の将来を担っているのか? 女将や支配人の善良そうな顔が思い出される。
「興味あるな、その輝く未来」と巌勝。
「興味ある? 教えたげるけどさ、その前に写真撮らせてよ! サイトにのっけたい。なんなら脱いで」
 三人は目をむいた。「脱いで」ってそんなにあっさり言っていい言葉!? 巌勝は叫びそうになった。炭治郎を見ると、彼の目は見開きすぎて眼球がこぼれ落ちそうになっている。が、すぐに元の表情に戻った。さすが冨岡さんの弟弟子だと思った。
「いやいや『なんなら』脱いだりしませんよ!」アハハと炭治郎は笑った。巌勝と民尾も調子を合わせて笑う。喉の渇きに耐え切れず、コーラのふたをプシュッと開けた。
「だよね!」若女将も笑う。「てかさ、あたし大好きなんだよね、君たちみたいなさ、かーわいい男子!」
 巌勝は鳥肌が立つのを抑えきれなかった。隣で民尾がヒュっと息を吸う音が聞こえる。叫ぶんじゃないぞ、魘夢。
「でもそんな、なんてか、あの、写真サイトにのっけたりしてたら逮捕されるんじゃないですか?」炭治郎は震えを押さえつけ、心配気な表情を顔に張り付けている。
「んー、ま、そんな事もあるかもだけどさ、あたしはこっち方面をもう仕事にしちゃうって腹だからさ、覚悟はあんの」
 袂の中の天元は話の流れに何かを感じたらしく、小さくガッツポーズをした。
「仕事……ですか。サイトでお金儲けですか?」巌勝も、ここは山場なのではないかと感じている。
 若女将はチッチと舌を鳴らしながら人差し指を立て、左右に振った。
「サイトは前からやってんの。そうじゃなくてさ、この旅館を使うんよ」
 三人はぽかんとした顔になる。本当に若女将の計画が見えなかったのだ。
「ここはね、つぶす。そのためにさ、あんたたちもやられただろうけどさ、色々客を困らせてる訳よ」
 やはりこいつか! 天元はにやりとした。鳴女は彼の顔を見て、この人もジャーマネにしとくに惜しい男っぷりだねなどと考えている。
「じゃあ魚肉ソーセージもあなたがやってんですかぁ?」と民尾。お腹を壊した設定などもう忘れてしまっている。若女将も、そもそも少年たちが声をかけてきた理由を忘れ去っていた。これまでずっと秘密にして動いてきたのだ。少年たちが女将や支配人の側にいるとはつゆ知らず、旅館の人間関係とは無縁の所にいると思い込み、隠してきた事を解き放つ快感にすっかり酔いしれている。しかも話す相手は自分の大好きな「かわいい少年たち」なのだ。
 若女将は、家を出て長続きしないアルバイトで勤務先を転々としていた頃、最後の勤務先である飲み屋で一人の客と意気投合し、家の話をした。その時、その男に、家に戻ってから旅館をつぶし、自分の好きな事に使うといいと教えられたのだ。
 若女将は、やはり大好きな少年がらみで計画を立てた。
「娼館……ですか」巌勝はまた震えそうになるのを堪えている。この女、恐ろしすぎる上、アホすぎる。
「そうよ。分かる? 知ってる? 体を売る子たちをあたしが飼うのよこの館で」
 現実離れしているが気持ちの悪い展開に、実弥は縁壱のメンタルが気になり、彼の方を見た。無表情であるが、この無表情の裏で、着火され、チリチリ光る火が導火線を進んでいっているのではないかと心配になる。
「継国、巌勝は案外しっかりしている。大丈夫だぞ」無惨が言った。実弥も義勇も驚き、顔を見合わせた。実弥は、このままでは無惨に先を越されてしまうかもしれないとふと思った。
 若女将は、この旅館を娼館にして少年たちを住まわせ、客を取らせるという話を得意気に語った。
「あんた男の子が好きなんじゃないの? 好きなのに働かせるの?」民尾はつい率直な疑問を口にしてしまった。
「あら、そうよ。好きだけど、あたし、自分がどうこうしたいとかされたいとか、そんなキモい趣味じゃないのよ。あたしはね、見たいの。覗き部屋仕様でね、見たいのよ! 客としてるとこ、見たいの!」
 炭治郎と巌勝は倒れそうになったが、民尾が彼らをしっかりと支えた。意外である。
「見るのもかなりキモいかもしれないけどぉ、若女将の趣味はちょっとぶっちぎっててカッコいいですぅ」民尾は殆ど叫んでいた。彼も必死なのだ。天元は、そろそろ自分たちが出て行かねばならないかもしれないと袂から顔をのぞかせる。鳴女も万が一に備えてオカリナを巾着から取り出した。
 若女将はけたたましく笑ってから、
「カッコいいなんて! もう、あたしイッちゃうよぉ!」と叫んだ。
 気丈にも炭治郎たちは、そんな仕事はすぐに警察に見付かって逮捕されるからやめた方がよいと意見した。
「あなたみたいな人が刑務所に入っちゃうなんて、勿体ないですよ」と巌勝。天元は、こいつらマジで骨があるなと感心した。
「あら、うれしい事言ってくれるじゃない」若女将は先程開けた缶ビールをまだ飲み終えていないが、また小型冷蔵庫から新しいものを出し、開栓した。長い爪で、器用なものである。「でもさ、後戻りできないんだよね。さっき話した飲み屋の客がさ、コンサルを紹介してくれちゃって。このギョニソ作戦とかもさ、その人が計画してくれてさ、もう進んじゃってんのよ。金も払ったし。後戻りは無し」
「コンサルタントですか」
「そ。商売をつぶすコンサルタント」
 それはもはや犯罪者ではないかと炭治郎は思ったが、口では
「カッコいい。俺、会ってみたいです」と言った。
「よね。あたしも会ってみたい」
 若女将がそのコンサルタントに会った事がないという事実に、三人は驚いたが、彼女は、コンサルタントとのやり取りはいつも飲み屋の客を通してしているのだと言う。
「そのお客さんはね、今はうちの庭師をしてるの。前のジジイは追い出しちゃってね、もう、うちらの仲間で固めてってんのよ。女将だって支配人だって、ぶっちゃけあたしの身内だからさ、かわいい娘の言う事は聞いちゃうっしょって感じで、もう着々と計画は進んでるわけ。問題は、今回の作戦が雑誌に書かれない事よね」
 袂から顔をのぞかせていた義勇が振り向き、
「素山夫妻はいい仕事をしたな」と言った。実弥、無惨は頷く。縁壱は相変わらず無表情で微動だにしない。実弥は縁壱がブチ切れる事が心配だったが、無惨もそれを感じているのか、縁壱の袴の紐を帯ごとつかんでいる。首輪をつかまれている大型犬を思い出し、実弥は笑いそうになった。
 旅館をつぶして娼館にしようとしている若女将。それを後押しするコンサルタント。こいつは必ず若女将の金だけ奪って逃げるはずだ。旅館が若女将のものになったらすぐに売り飛ばすくらいするだろう。そして、若女将とコンサルタントの橋渡しをしている庭師。これで役者は揃ったのではなかろうか。
「あのね、おねえさん」巌勝が首を傾けながら言った。「おねえさん」と呼ばれ、若女将は驚いた表情になったが、すぐに顔を赤らめ、なぁにと姿勢を崩してしなを作った。
「俺はまだ子供だから大人の話はよく分からないけどさ、それ、絶対の絶対に騙されてるよ」巌勝は正座を崩し、胡坐をかいて少し身を乗り出した。若女将の視線は彼の顔、胸元、そして浴衣の裾からのぞくふくらはぎを三往復ほどする。
「騙されてる?」若女将の言葉に、三人揃ってうなずいた。炭治郎と民尾はお色気担当を巌勝に一任している。
「コンサルが直接会わないのおかしいし、だいたいおねえさん、飲み屋で会っただけの客がそんなにおねえさんに肩入れっちゅうの? そんなのするのおかしいよぉ」民尾も一押しする。
「そもそも、商売をつぶすコンサルって、どう響きます? 冷静になって考えて下さい。俺たち、おねえさんが騙されてお金とられるの嫌です」炭治郎も一押し。若女将の顔には、あきらかに動揺が浮かんでいた。全くもって、単純な女である。
「俺、そのコンサルは、コンサル料を持って逃げると思うし、更に言うと、旅館がつぶれて持ち主がおねえさんに変わったとして、絶対取り上げると思うよ。そんで、売り払ってお金を持って逃げる腹だと思う。俺はそう思う」
 単純な女の単純な脳がターンテーブルの上でぐるぐる回って単純でない音楽を奏でるさまが、巌勝には見えるようだった。こんな大人がいていいものなのか……。
「だ、騙されて……。え? あたし、騙されてる? あいつらグルであたしを騙してる?」
「絶対騙してます」炭治郎が目をくりくりさせながら断言した。
「俺たち、植物ガーディアンたちと一緒に来てるんです」民尾も前のめりになる。自分たちのミッションは、いたずらを仕掛けたのが誰なのか、そしてその理由は何なのかを探る事だと分かってはいたが、好感を持てる相手ではないとはいえ、誰かの悪意にずっぽりはまっている者を放ってはおけなかった。ばら組たちもそうだろう。もう少し道を付けたい。
「ガーディアンって、『月刊ガーディアンズ』のガーディアン?」若女将はまだ少し残っているビールの缶を、前に飲み残した缶の上に重ねた。「ばら組? イケメンたちと来てんの?」
 三人は揃って頷いた。
「すげぇな、そうそう会えないよ、ばら組。それにあんたたちもそんなにかわいいのにさ、あの子たちと知り合いなの」
「そうです。兄のような存在です」炭治郎が言う。「それで、彼らに相談したらその、悪徳コンサル何とかなるんじゃないかって思うんです俺たち」
 若女将は少しの間ぽかんと口を開けて彼らを見ていた。
「庭師に、コンサルを呼び出してくれるよう、頼みましょう。俺たち、払った金が戻らなかったとしても、この先あなたが罪を犯す事はやめさせたい」
「なんで?」若女将は三人を見た。それから、小型冷蔵庫を開け、更なる缶ビールを取り出した。プシュッと開栓してから「なんであんたたち、親身になってくれんの?」と言った。
 三人はしばらく黙る。なぜなのか、自分たちにも分からなかった。でも、ばら組や天元もそうするだろうと思う。
「ドツボにはまっている人間を見て、それを利用しようとする人もいるだろうけど、たいていの人間は助けようとするものです」巌勝は言った。
「うっそだぁ!」若女将はけたたましい声を上げて笑った。「そんなら、今あたしがこんななってる訳ないじゃん!」巌勝の方へぐっと身を乗り出し、それから炭治郎、民尾と舐めるように見ていく。それからどっかりと小型冷蔵庫にもたれた。「あたしだってね、馬鹿だけど、馬鹿じゃないんだ。娼館を経営していっとき金を得られたとしてもたいてい捕まるよ。そんなん分かってんの」言葉を切る。手にした缶ビールをちゃぶ台の上に置き、両手をだらりと垂らした。涙が、つるりと頬を滑り落ちた。「あんたたち、うぶだもんね。分かってたらやらない、そーゆー分別があるのが大人だって、そう信じてるんよね。大人はアホだよ?」
 巌勝は自分の両親の事を思い出した。息子の成績が下がっただけで、仲が良かったはずなのにお互いに責任をなすりつけて「死ね」だの「どついたる」だの罵り合っている。確かに、アホだ。アホだが、しかし……。
 若女将はため息をつき、抱きしめるように膝を抱えた。
「あたしには兄弟がいるんだよ。兄とか、姉とか、弟とか。みんな家を出た。あたしは旅館継ぎたかったけど、馬鹿だからね、親は兄さんに戻れ戻れって、そればっかり。はなっからあたしには無理だって。そりゃそうかもだけどさ!」アハハと笑う。「クソ兄貴は絶対戻らないってあたし分かってたし、だって、海外にいんだよ? 戻る訳ねーじゃんこんなシケた旅館さ、だから、あたしも家を出たんだ。子供が誰もいなくなったらあたしでもいた方がマシだったって気付くだろって」
「気付かれましたか?」巌勝は無意識に膝を抱き、若女将と同じ姿勢になっていた。
「さあね。今の女将の態度見てたら、もしかしたらって思うけど……だけどあたしは変わってしまった。家を出て都会で暮らして変わったんだよ。家を継ごうなんて、目を輝かせてさ、ホント、馬鹿もいいとこ、それこそうぶだったんだよ。あたしは変わった。捕まっても、いっときでもいい目みたいって思うようなクッソ馬鹿うんこになってしまった」
「自覚あるなら、そこからもまた変わったんじゃないですか?」炭治郎は落ち着いた声音で言った。
 若女将は両手の親指の腹で涙をぬぐった。マスカラがにじみ、悪党のようなメイクになっている。しかしその瞳は悪党らしくなく、ぼんやりカーテンを見つめていた。しばらくしてから、炭治郎の顔を見る。
「あたし、変わったんだろうか? いつ? 今?」
「今……でしょうか」と炭治郎。巌勝は二度ほど頷いて、
「俺の弟は、人は常に変わっている、一秒一秒、何か見聞きするたびに変わっていくと言っています」と言った。若女将は少し眉を上げ、
「あんたの弟って、いくつ?」と笑った。巌勝はあわてて、従兄を言い間違えたと言いつくろう。
 袂の中では、もう縁壱は落ち着いていた。袴の紐をつかんでいる無惨を見て、もう大丈夫だと礼を言い、微笑んだ。無惨は眉間に皺を寄せ、
「正直なところ、私が馬鹿力のお前を抑えておけるわけがないのだから、本当に飛び出したらどうするのかと気をもんだぞ」と言った。
 ぼそぼそと話をしている縁壱と無惨を見てから、実弥は義勇を見た。義勇も実弥を見る。急に、設定を変えたメトロノームのように実弥の心臓は鼓動を速めた。
 無惨に先を越されては男がすたる。下らない事だと思いつつ、自分にはっぱをかけるように、実弥は頭の中で唱えた。次にチャンスあらば必ずいくのだ、不死川実弥!
 炭治郎たちは見事にミッションをやり遂げ、その先まで駒を進めた。単純な人間であるとはいえ、一人の大人の心を動かし、絶望的な未来へ向かって敷かれたレールの進路を変えたのだ。見事にド派手なポイント切り替えであったと、天元は三人をほめた。
 庭師と悪徳コンサルタントとは、翌日会う事になった。

 その夜は、まともに風呂に入る事ができ、皆満足していた。食事も、まだ一部魚肉ソーセージが使われていたが、殆ど普通の料理に戻っており、これもまた皆を満足させた。少しくらいの魚肉ソーセージなど、全く気にならない。
 部屋でくつろぐ仲間たちを置いて、実弥はロビーにいた。大窓の桟に立ち、庭を眺める。廊下の方から明るい話し声がし、振り向くと、炭治郎、巌勝、民尾がじゃれ合いながら歩いていく。売店へ行くのだろう。
 あいつら、今日はめちゃくちゃ頑張ったな。俺でもあんなに上手くあの女に話をするなんてできなかったかもなァ。なにしろ、冨岡に「好きなんだけど」みたいな事を言うだけでも何日もかかってる。実弥は小さくため息をついた。
「不死川さん」
 声を掛けられ振り向くと、鳴女がホバリングしていた。すっと隣に立つ。
「どうも」実弥は小さく会釈した。
「お邪魔でしたかね」
「いや、全然。ぼっとしてただけだァ」
 数秒、二人は庭を見ていた。
「軽くお礼、言いたくて」鳴女が言った。実弥は驚く。何に対する礼だ?「上司が……鬼舞辻が、色々と」
「礼を言われるような事してねぇぞ」
「いえ、不死川さんたちにとってはそうかもですが、こちらにとっては大きな一歩を踏み出せたものですから」
「『大きな一歩』だぁ?」
「ええ。あの、鬼舞辻が」
 実弥はようやく、鳴女が言っているのは無惨と縁壱の事だと気付いた。
「えっ、まさか今までの間にくっついたのか!?」
「いえいえ! そんな急流すべり的展開ないでしょ!」鳴女は笑った。「そうではなくて、ええ、私も始めは鬼舞辻は縁壱さんに恋しているのだと思っていたのですが、どうも、本当の所は友達になりたかったようで」
「へぇ……友達かィ」
「ええ、友達です。天神川で助けてもらった時から、そんな風に思ったようで、本人もはっきりそうとは分かってないでしょうが、私はそう思います」鳴女はガラスにぺたりと手を付けた。「でもその時はメチャンコ距離があるように感じたのでしょう。焦がれる感じになってしまって、私もホントにフォーリンラブだと思っていました」
「確かになァ。俺と冨岡もそういう認識だったぜ?」
「でしょうね。ここへ来てから、だいぶんに距離が縮まったと感じたようで、まぁ、兄上君の袂の中であった事を嬉しそうに私に話してくれたんですよ。驚きです」
 それは俺も驚きだァ。実弥は目を丸くした。
「鬼舞辻にとっては、前世から通して今まで、初めての友達作りなもので……って、幼稚園児みたいですが」
「似たようなもんだな。人の上司つかまえてなんだが」実弥が言い、鳴女はふふっと笑う。
「脱衣所で不死川さんと冨岡さんと話をしたと、鬼舞辻が申しておりまして。それに、お礼を言いたかったのです」
 あの事かぁ。大した事言ってねぇけどなァ。実弥もガラスにぺたりと手を付けた。ひんやりしているのかと思いきや、そうでもなかった。人肌程度のぬくもりをもっている。外が暑いのだろう。
 友達になりたいという強い思いと恋は似ているのかもなぁ。どっちも愛情ってやつだからな。実弥はガラスから手を離し、腕組みをした。
 鳴女が「あっ」と小さく声を上げて、
「それでは失礼します、不死川さんも頑張って下さい」と言って桟を飛び立った。
 頑張るって? 何を? って、鳴女さんにバレてるのか俺の――。鳴女の後ろ姿を見ていると、すれちがうように義勇が飛んでくるのが見えた。窓の方に向き直る。
 さぁ、どうする俺。言えるのか俺。
「姿が見えないから少し探したぞ」義勇は実弥の隣に立った。丁度鳴女が立っていた場所だ。それから鳴女と同じように「あっ」と声を上げ、
「入れ替わり立ち替わりで申し訳ない、邪魔をした」踵を返す。
「ちょっと待てぇえい」実弥は義勇の襟首をつかんだ。驚いた顔で、義勇は実弥を見る。「何勝手に自己完結して失礼しようとしてんだァ」
「自己完結?」
「何なんだ『入れ替わり立ち替わり』ってなァ。鳴女さんとお前がかァ?」
 義勇はうなずく。「一人になりたいなら迷惑だろう」
「一人になりたい訳じゃねぇ。迷惑でもねぇ。おま、おま、お前がいて、め迷惑だと思った事なんか一度もねぇ、この人生で」「人生」まで話を広げてしまった。大げさだったかと、ちらっと義勇の顔を見ると、彼は満足気にも見える笑みを浮かべていた。頬にくるくると渦巻き模様が描かれているような、そんな笑みだった。
 かわいい。
 実弥の脳内で突然ファンファーレが鳴り響いた。
 パーンパカパーンパカーァーン! パパパパァァーン! パパパパァァーン!
「各馬一斉に……」
「えっ?」
「じゃねぇ」実弥は頭をふるふると振った。
「しなずが――」
「冨岡ッ!」実弥が一歩踏み出し、義勇は一歩下がる。
「なんだ、不死川」
「とっ、ととっとみっ……」まずい、また口が固まり出した! しっかりしろ不死川実弥! 実弥はこのスタートダッシュの加速を乗り切るより、うんこを五十個投げつける方がどれだけ楽かと、ふと思った。無惨がうんこや罵詈雑言をコメント欄に押し込んで送信ボタンをタップした気持ちが今、よく分かる。
 しかし! 義勇の顔を見ると、病人を気遣うような顔になっている。ダメだ、しっかりしろ。
「とみゃ……」
「えっ?」
 せっかくいい湯につかってきたのに汗をだらだらかいて、台無しだ。
「不死川、具合が悪そうだ。あの妖精コーナーで座ろう」義勇が実弥の顔を覗き込む。実弥は顔をそらせる。こんな情けない顔を見られる訳にはいかない。
 世のカップルどもは、コレをどうやって乗り越えているんだ!?
 少し前、小芭内の事を「パンチに欠ける男」と言って笑った事を思い出した。パンチに欠けるだと!? 伊黒、お前は大した男だよ!「俺にとっては甘露寺が姫だ」と、それだけでもちゃんと言った、あいつの勇気すげぇよ!
「不死川、部屋に戻った方がよさそうだ。飛べるか? 運ぼうか?」
 そうだ……俺は言葉に頼りすぎなのかもしれない。突然、実弥は思い付く。気持ちを伝えるのは何も言葉だけじゃない。
「不死川、本当に――」義勇は言葉を切る。実弥が両手を握ってきたのだ。苦しそうな顔をしていたのが、急ににんまりと笑っている。「不死川。大丈夫か」
「大丈夫だ」義勇の両手を握ったままぶんぶんと上下に振った。そして、左右にも。困惑している義勇の顔が面白くて、かわいくて、笑い出してしまう。
「不死川?」義勇は手を握ったまま一回転する実弥に引っ張られ、同じように回転してしまう。「不死川、おい、しな……ふふ……」なぜだか面白くなってしまい、義勇も笑い出した。実弥が手を離しても、二人は向かい合ってしばらく笑っていた。
 何なんだろう、この幸福感は。実弥は思った。結局今回もコクるの失敗したってのに、なんなんだ。
 俺、騎手じゃねぇな、完全に、馬だァ。

純愛ギャロップ

 対決の朝がやってきた。
 対決するのは若女将ではあるが、もし戦う事になればガーディアンズの出番であるので、皆少し緊張していた。今日はチェックアウトする客もおらず、ロビーに人はまばらだ。勿論、ばら組たち以外の妖精もいない。
 先程巌勝の母が車でやってきて、息子を車の中へ引きずるように連れていった。旅程を伸ばすとメッセージしたものの、一方的で、承諾されていなかったようだ。相当しぼられるのではないかと炭治郎と民尾は心配している。
「俺んちはガーディアンズがらみの事はたいてい大目に見てくれるからなぁ」と炭治郎。民尾は頷きながら
「俺の所も大目にみるっていうか、無関心だからこういう時は便利」と言った。それもどうなのかと実弥は思いながら、車回しの端に止められた巌勝の母の車を見る。
「始まりはあの絵だったな」実弥の隣にいる義勇が額縁の裏にムカデを仕込まれていた絵を指さして言った。実弥は振り向き、絵を見て笑った。彼らはロビーの妖精コーナーに落ち着いている。無惨と鳴女も一緒だ。
「まさかこんな事態になるとはな」と無惨が呟いた。
「多分、『ガーディアンズ定期』だと思いますよ」鳴女はポケットから飴の袋を出して一つつまみ、無惨にも勧めた。無惨が取ると、続いて実弥と義勇にも。義勇が「ありがとう」というと、彼女は袋を持つ手を震わせながら「いえ、いえ」と顔を真っ赤にする。
 巌勝が戻って来た。母は延泊を許し、帰ったようだ。
「一日だけ許してくれた」短く言い、巌勝はソファの民尾の隣に腰を下ろした。泣いていたようだ。
「大丈夫? みっくん。決裂したとかじゃないの?」民尾が巌勝の顔を覗き込む。巌勝はふいと顔をそらして
「大丈夫だ、心配ない」と言い、しばらく大窓の向こうの庭を見た。それから振り向き、笑顔になって
「いっぱい文句言われたけど、同じくらい言い返したからさ」と言う。「けんかの事とか、離婚するのかとか、そういう事も不安だし家に帰りたくなんかないんだって言ってやったら、なんかショック受けてたみたいだけど、とにかく俺はそういうの言えたからいいんだ。帰ったらまた勉強するし」
 民尾は何も言わず、笑顔を返した。自分の身がどうあれ、親友の家がもめて不幸になるのは嫌なのだ。ふと巌勝の胸ポケットを見ると、縁壱が縁に腕を掛けて顔を出していた。ずっとそこにいたようだ。心配だったんだなと民尾は思い、少し寂しくなった。いやいや、俺にはみっくんや炭治郎君、ばら組のみんな、最強の友達がたくさんいるんだ。首を振って思い直す。
「おはようございます」若女将がやって来た。別人に見えた。着物をきちんと着、髪をきっちり結い、優し気でありながら表情が引き締まって見えるようなメイクをしている。
「気合入ってんな若女将!」天元が声を掛けた。
「へへへ」
「いや、『へへへ』はダメだろ」
「全部、女将に指導してもらって。気合、入れました! 私のために。この宿のために」
 炭治郎たち人間は立ち上がり、無惨と鳴女を除く妖精たちは飛び上がる。
「奴ら、裏に来ています」若女将は言い、メイクの下の表情もきりっと引き締めた。
 若女将の後について廊下を歩き、裏口から庭の端へ出ると、大きな岩を立ててある所に庭師が待っていた。作業着を着、タオルを首にかけている。キャップを持っているが、それは被らずつばを中央から二つに折りたたんでズボンの尻ポケットに突っ込んでいた。
 炭治郎は首を傾げた。どこかで見た事のある顔だ。ポケットに入れて来た無惨を平らな庭石の上に下ろしてから戻って来た民尾が、怪訝そうに炭治郎を見る。炭治郎は「あっ」と声を上げた。
「サイコロステーキ先輩だ」小声で呟く。民尾は首を突き出す。「いや、前世で会った人だよ」民尾は巌勝だけでなく、炭治郎や妖精たちにも前世の記憶があるのだと聞いている。「鬼殺隊の先輩だった。鬼に一瞬にしてサイコロ状に切られて死んだんだ」
「えっ。それは……」民尾は庭師を見た。不敵な笑みを浮かべ、若女将や妖精たちを眺めている。「うん、いかにも一瞬で死にそうな顔だよねぇ」
 どんな顔なんだ。炭治郎は心の中でつっこみながら、あの表情からみるに、前世と変わらぬずるい生き方をしてきたのだろうなと想像した。いや、見た目だけで人の中身を決めつけちゃいけない。首を振る。
「いいのか若女将! 今やめたって金は戻らないぞ。一円たりとも戻らないぞ」
「分かってる。でも、もう一度だけやり直したいの」若女将が言うと、サイコロステーキ庭師は鼻で嗤った。
「若女将の意思は固いようだね」
 声のした方を皆が見ると、裏の門柱から長身の男が姿を現した。庭へ入ってくる。
「童磨! またお前かよ!」天元が笑った。
「そうだよ、俺だよ。また君たちが邪魔をしてくれたんだね! いまいましいったらないね」童磨は微笑む。
「またお前が悪事を働いてんのかよってこっちはいいてぇよ」実弥が童磨を睨み付けた。
 庭石の上の無惨は、
「ああいうワルに私もなりたかったのに」とぼそっと呟いた。
「今世の無惨様には似合いませんよ」と鳴女。「別にワルでなくともカッコいい生き方はいくらでもあるじゃありませんか」
 無惨はついつい縁壱を見てしまう。彼は若女将と童磨の丁度中間あたりでホバリングしている。
「私は別に見た目の格好良さを求めている訳ではない。飛べない事だってもうどうでもいい。生き様の問題なんだ」
「生き様ですか」鳴女は、どっちにしろカッコよさを求めている事に変わりないよねと思った。
「若女将」炭治郎が声をかける。「あの童磨って奴は詐欺師です。妖精たちに偽富くじを売って金を巻き上げたんだ。それに別の時には兄上君を誘拐して、自分が想いを寄せる妖精の女子と交換しろって脅迫してきたんですよ。詐欺師でヘンタイです」若女将は両手で口を覆った。目を丸くしている。
「お前ら毎度毎度童磨さんの邪魔してるみたいだな。話には聞いている」サイコロステーキ庭師はへっと吐き捨てるように笑う。「今回ばかりは命運が尽きたようだな。童磨さんに付いてるのは俺だ」手にしている鎌の刃を、片方の掌へぽんぽんと叩きつける。妖精たちは静かに飛んで位置を変え、体勢を整えた。
「めっためたに切り刻んでやる!」見事なフラグを立てながら、サイステ庭師は振りかぶって鎌を投げた。誰もいない空間を飛び、鎌は無惨と鳴女がいる庭石の方へ向かった。
「ぬわっ!」無惨が叫んだ時、縁壱が飛び込んできて彼と鳴女を抱えて飛んだ。少し切られた縁壱の髪が、陽光を受けて赤く輝きながら舞う。
「危ない所だった。まさかあんなのーこんで鎌を投げるとは」縁壱は庭石の陰に着地する。無惨は恐怖のあまりぎゅっとつかまっていた縁壱の腕を離してから
「継国、ありがとう」と言った。縁壱は少し驚いた顔になったが、すぐににっこり笑った。
「君たちはここにいるといい」言い残して、庭の中央へ戻っていく。
「やっぱ、カッコよくないとダメだわ無惨様」鳴女はぼーっと縁壱の背中を見送りながら呟いた。無惨は目を細めて部下を睨む。
 庭では巌勝がサイステ庭師の方へ歩み寄っていた。
「お前……縁壱の髪を切ったな?」
「は? 切ってねぇよ! ふざけんな! 切るってのは首をちょんと――」サイステ庭師は最後まで言う事ができなかった。巌勝が最後の一歩でジャンプし、庭師の胸に飛び蹴りをかましたのだ。がうっと息を吐きながら庭師は倒れた。
「み、みっくん? 久々に会ったけど、なんかちょっと、細マッチョになっちゃったよね」童磨が所々声を裏返しながら言う。しかし彼は両手に石を持っていた。ソフトボール大の石である。
「危ないぞ!」実弥が叫んだ。童磨の投げた石は一つは巌勝に、もう一つは炭治郎に向かって飛んだ。かなりの速度だったが、炭治郎はよけ、石は大窓のガラスを割った。巌勝は肩に石を受けてしまう。若女将が駆け寄って石を拾い
「何すんのよ! まだ中学生だよ!」童磨に向かって投げた。童磨はよけきれず、石は背中にめりこんでからぼとっと地面に落ちた。童磨の方へ這って移動していたサイステ庭師がその石を拾う。
「めちゃめちゃ再利用してんなその石」天元が大笑いする。そこへ庭師の投げた石が飛んでくるが、それはいとも簡単によけられる。再利用せずとも庭作りに使う小ぶりの石はまだ童磨の足元にたくさんあった。童磨はそれを次々と投げ、ほとんどが大窓に当たってガラスを割った。
「この旅館はつぶすんだよね? 若女将、そうだろ?」
「違います! 申し訳ないけどそれはやめたの! ちょっと! もう石はやめて!」叫びながら、一つ石を額に受け、若女将はその場にうずくまった。額の皮膚が切れ、血が出ている。中で見ていた女将が飛び出してきて、若女将の肩を抱いた。
「この悪魔!」童磨に叫ぶ。
「悪魔ねぇ、心外だなぁ。あんたの娘がここをつぶしたいって言って――」
 再び巌勝の蹴りが炸裂した。童磨はよけようとしたが、巌勝のかかとが彼の上腕を強く打った。
「みっくん、もう許さないからね!」
「許してくれなんて一度も頼んでないし」
 そこから炭治郎、巌勝、妖精たち入り乱れての乱闘となった。女将と若女将は無惨たちのいる庭石の後ろに移動した。サイステ庭師は石の山の脇に置いてあった鍬とスコップに気付いてそれらを取り、自分は鍬を持ち、童磨にスコップを渡した。
「気を付けろ! 俺たちは当たったら終わりだぞ」義勇が叫んだ。
「おや、君は冨岡義勇じゃないか」童磨が義勇の存在に気付く。「一度会いたかったよ!」
 実弥がさっと義勇の横へ行き、手を横に伸ばして義勇を守るような体勢を取る。
「俺は君が大嫌いでね、冨岡義勇」童磨はにやにやしている。「本当に叩き潰してやりたいよ、このスコップで。なんで君なんかがいいんだろう、しのぶちゃんは」
「胡蝶?」義勇は目を丸くした。「胡蝶が好きなのは俺ではない」
 実弥は目をむいて義勇を見た。また始まったぞ。
「ここへきてしらばっくれるのやめてくれるかなぁ。俺はちゃんと調査してるんだから、しのぶちゃんの事はあれからもずっとね」
「お前は間違っている。胡蝶が誰を好きだったのかは知らないが、今頃はもう完全に不死川を好きになっているはずだ」
「はぁ!?」実弥が素っ頓狂な声を上げた。何を言い出すかと思えば冨岡ァ!「一体どういう事だァ冨岡ァ」実弥は義勇から少し離れ、その顔を目を細めて見た。
「俺はお前のカッコいい写真をなるだけ撮って、胡蝶に送っているんだ。お前のカッコいいエピソードもちゃんとメッセージで報告している。胡蝶の頭の中は今頃カッコいい不死川であふれかえっているだろう」
「な、何の為にそんな気が狂ったような事をしたんだ」
「お前の為だ。こないだ湯屋で言っただろう」
「んな事もうとっくに忘れたわァ! 何してくれてんだァこのドあほう!」実弥は義勇の胸倉をつかんだ。
「おいおい、やめろ」小芭内が二人を引き離そうとする。そこへサイステ庭師が鍬をバットのように立てて持って走ってき、ダンダンとステップを踏むように止まってからぶんと振った。小芭内は飛び退り、義勇は実弥を下へ突き飛ばした。庭師が野球の打者のように振った鍬の柄が、義勇の脇腹を捕らえる。嫌な音がした。
「冨岡ッ!」実弥が叫ぶと同時に、義勇の体は遠く飛ばされ、あっという間に見えなくなっていた。
 一瞬、庭は静かになった。遠くからサイレンの音が近づいてくるのが聞こえる。女将が警察を呼んだのだ。
 サイステ庭師は思いの外まともに妖精を打ち飛ばしたので自分でも驚いていたが、軽トラックに乗り込んだ童磨に呼ばれ、我に返った。
「逃げる気かお前ら!」炭治郎が叫び、サイステ庭師を捕らえようとしたが、庭師は身をよじって逃れる。童磨が軽トラックをバックさせてきたので轢かれそうになり、炭治郎は飛び退いた。そのまま彼らは軽トラックに乗り、去ってしまった。
「と……みおか……」実弥は童磨たちの事は何も見ていなかった。縁壱や天元も、庭をあちこち見ている。小芭内は庭の外に続く林の縁を飛び回って義勇を探していた。実弥も義勇を探そうと飛び回ったが、体にうまく力が入らず、結局庭石の傍の無惨たちの所へ降り、座り込んだ。無惨も鳴女も、かける言葉を見付けられなかった。

 昼になった。皆ロビーにいるが、黙り込んでいる。
 あの後旅館の従業員たちも出てきて皆で庭、裏の林と探し回ったが、義勇を見付ける事はできなかった。天元が何度もスマートフォンに電話を掛けたが呼び出し音が鳴るだけで繋がらず、やがてそれも鳴らなくなった。電池が切れたか、電波の届かない所へ行ってしまったか。
 天元が「スマホが死んだ」と言ってからも、実弥は何度か電話を掛けた。「おかけになった電話は……」そのアナウンスを何度もぼんやりきいている。
「しばらく休むがよいよ」縁壱が実弥の手をそっと両手で包んでから、そっと彼の手からスマートフォンを抜き取った。電話を掛け、アナウンスを聞くたびに、義勇が鍬の柄に衝突する瞬間を思い出していた実弥は、そのリズムから抜け出して初めて、その瞬間からだいぶ時間が経ってしまった事に気付いた。縁壱の顔を見ると、彼は実弥の肩に手を置いて少し首を傾げた。
「縁壱さん……冨岡はもう……もう……」
「鬼舞辻やんまに襲われた時にも私たちは彼を見付けただろう?」縁壱は、実弥の目に溜まった涙があふれだす前に、彼の頭をそっと自分の肩に抱き寄せた。
「泣いてる場合じゃねぇんだ! 泣いてる場合じゃねぇのに!」
「少しくらい構わない。満水のだむを気にしていてはうまく考えもまとまらないだろう」
「あいつはボケだが運はいい。絶対どこかにひっかかってるんだろう」小芭内が実弥の背中をぽんぽんと叩きながら言った。「しかし怪我してるだろうから早く見つけないといかんな」
「俺は……俺はあいつに言わなきゃなんねぇ事があるんだ、死ぬまでに、言わなきゃ――」
「死にません!」炭治郎が叫んだ。「義勇さんが死んでたまりますか! 何言ってるんですか不死川さん! あなたはそんな弱っちぃ人じゃないはずです!」いつもにましてきらきらしている瞳の輝きは、はつらつとした心からくる輝きではなく、涙があふれそうになっているための輝きだった。ぐぅと喉をならして、炭治郎は涙を堪えた。
「義勇さんはサイコロステーキなんかにやられません」
「しかしあれだけ探したのに一体どこへ消えたのだ」無惨が言った。縁壱は少し表情を引き締めて考えている。その肩に、実弥はまだ顔を付けていたが、そっと離れて座り直した。本当に、泣いている場合ではない。
「動物がなんて不吉な事考えちゃいましたけど――」若女将がコーヒーテーブルに置かれた冷茶を入れたピッチャーを持ち上げ、炭治郎たちのグラスに茶を注ぐ。「うちは庭に猫が来ないようにしているので、庭の外に飛んでなければそれはないかなって思います」
「動物かぁ」巌勝は腕組みをし、眉根を寄せる。
「動物の匂いはしませんでした」炭治郎がきっぱりと言った。犬並みに鼻の利く彼の言葉に、一同安心した。「古い匂いしかなかった。でも、義勇さんの匂いもしなかったんですよね」
「ってことは……」天元は一度言葉を切り、少し考えた。
「庭にも林にも着地しなかったのだな」縁壱が言葉を継いだ。「木や垣根に引っかかる事もなかった。炭治郎君の鼻はそう言っている」炭治郎はゆっくり頷く。
「ああああ!」突然実弥が叫んだ。皆少し飛び上がった。
「泣きやんだかと思えば何だ」小芭内が胸を拳で押さえながら実弥を見る。
「軽トラだァ! 軽トラ、童磨が乗って逃げた軽トラだ!」実弥は両手を振り回した。腕が二、三度小芭内の頭を打つ。小芭内は座る位置を変えた。
「軽トラの荷台に落ちた! そうですね!?」鳴女が叫ぶように言う。
「それしかねぇ。それしか考えられねぇ」沈み切っていた実弥の表情が明るくなっている。
「軽トラがどこにいるかってのは、分かるか?」天元が若女将に訊いた。

 山の中のつづら折りの道を、ブインブインと原動機付き自転車、いわゆる「原チャリ」が走っている。たすき掛けをした若女将が着物のまま運転している。その前かごに置かれた籐かごに、妖精たちは乗っていた。軽トラックを奪われ、宿の送迎バスでは大きすぎて入れない道があるため、若女将の「原チャリ」で「現場」へ向かう事にしたのだ。
 「現場」とは何か。
 旅館では、やってきた警察にいきさつを話した。大窓をめちゃめちゃにした上、若女将を騙し、怪我をさせた詐欺師と庭師が軽トラックに乗って逃げたと。警察が探した所、山の中で、林業の為に使われる細い道のカーブを曲がり切れずに谷に落ちてしまった軽トラックが発見された。童磨とサイコロステーキ庭師は怪我を負ったが救急車で運ばれ、命に別状はないという。
 義勇はまだ見つかっていないし、その捜索を警察に任せる訳にはいかないので、若女将の「原チャリ」で現場へ向かっているのだ。
「京都へ出ようとしたんだね、多分」鳴女が言った。「土地勘ないから道間違ったんだよ」
「とことん間抜けだァ。ご丁寧に谷底へ落ちるとはな」実弥はすっかり落ち着きを取り戻し、いつもの不死川実弥になっている。頼れる男、不死川実弥。必ずや義勇を見つけ出し、この腕にしっかりと抱いて離さない、鍬の柄など二度と当てさせやしない。
「貧乏ゆすりはよせ、不死川」無惨が言った。
「うるせぇ。お前、飛べねぇんだから炭治郎たちと待っとけつっただろ」
「私だって役に立てる」
 と、がたがたの道に入り、籐かごの中のものは皆大きく跳ねた。天元と縁壱がかごの端を片手でつかみ、大きく跳ねてしまったものをつかんで籐かごの中へ戻した。妖精は飛べるが、かごの外へ出てしまうと「原チャリ」に追いつけない場合もある。
「できれば炭治郎君も来てほしかったな」縁壱が言った。実弥は頷く。現場は広いだろう。匂いを感じられればそれだけ早く見付けられる。しかし「原チャリ」一台しかない状況で、人間である炭治郎を連れてくるのは無理な事だった。
 若女将は三叉路で一番細い道に入った。あまり車が通らない道らしく、路面に小さな枝や葉が落ちている。アスファルトがひび割れたり掘れたりしている所も直されておらず、原動機付き自転車は少しスピードを緩め、がたがた揺れながら進んだ。道の向かって左側は谷になっており、ガードレールはあるが、ある程度スピードの出ている車が当たれば突き破って落ちてしまうだろう。
 しばらく進むと現場に着いた。
 急カーブで、離合できるほどに道幅が広くなってはいるが、細い道だ。ガードレールがひしゃげている場所がある。ここに童磨の運転する軽トラックはぶつかり、転落したのだ。
 「原チャリ」が完全に止まるより前に、妖精たちは籐かごを飛び出していた。自分も役に立つと意気込んでいた無惨はここへきて飛べない自分にできる事は何もないと気付いた。このままでは自分はただのお荷物だ。無惨が飛び回るばら組のものや天元、鳴女を見ていると、
「私の背に乗るがいい」と縁壱が無惨に背を向けてしゃがんだ。
「そ、そんな事できる訳が――」
「鬼舞辻無惨、お前なりの探し方は思い描いていたのであろう? どちらを向いて、どの高さで飛べばよいか指示してくれれば、私はそのように飛ぶ。さぁ早く。冨岡君は怪我をしているのだ」
 無惨は縁壱に負ぶわれて飛ぶ事にした。
「皆は中腹を探しているから、私は底の方を見てみたい」
「相分かった。早く飛ぶぞ」縁壱が飛び上がり、無惨は彼の両肩をぎゅっとつかんだ。友の肩は厚かった。
 一方実弥は義勇の名を呼びながら、木の間を飛び回っていた。軽トラックがぶつかったために樹皮のめくれた木、折れた枝がぶら下がっている木、塗料が付着している木。
「頼む! 冨岡ぁ! 聞こえていたら返事をしてくれぇ!」
 離れたところでも、天元や小芭内が呼びかける声がする。
「冨岡ぁ! 冨お――」実弥の前にぬっと義勇が現れた。「ぎゃぁああああああああ!」
「何だ、幽霊でも見たような反応だな」
「ば……馬鹿……お前、そうさ、幽霊でも見たかと……死んだんじゃないかと……馬鹿野郎ォ!」実弥は義勇を抱きしめた。もう、人が見てようがなんだろうが構うものか。「冨岡! 俺は……俺は……」
「不死川、ちょっと、痛いんだが」義勇が顔をしかめながら言った。実弥は慌てて腕をほどく。そうだ、鍬の柄による打撲があるのだ。
「さほど大したことはないんだが、したたかに打ったからちょっと」
「す、すまん」謝ってから、皆に義勇が見付かった事を大声で知らせる。
 そうして、皆とりあえず原動機付自転車の前かごにある籐かごに落ち着いた。若女将は旅館に電話して、義勇が見付かった事を知らせている。
「やっぱ軽トラの荷台に落下してたのか」天元が尋ねる。
「打たれた瞬間はまだ意識があったが、荷台に落ちた時に気を失ったらしい」義勇は言葉を切って、谷とは逆の山の方を見上げた。空は相変わらず青く、晴れている。「次に、衝撃で目が覚めた。軽トラがガードレールに衝突した時だ。俺はすぐに飛んで、奴らが落ちていくのを見ていた。驚いたよ。すぐに警察が来た」
「追われてたんだァ」と実弥。
「そうか。俺は皆に知らせようと、写真を撮ろうとしたんだが、その時にスマホを落としてしまった、川に」
「相変わらず愚図だな」無惨が苦笑いする。彼も義勇が無事だった事は嬉しいのだ。
 下手に動くとダメだと思い、現場にとどまったと話す義勇を、実弥はじっと見ていた。無口な義勇が、皆に状況を知らせるためにたくさんの言葉を話している。一生懸命、話している。その姿が本当に愛おしかった。
「皆が来てくれると信じていたし、本当に来てくれて嬉しかった」義勇は言い、にっこり笑った。
 その時実弥は悟った。
 冨岡の笑顔が見たい。それだけが自分の望みなのだと。
 好きだから、大好きだから、お前も俺を見てくれ! そういうのは、恋だ。しかし実弥の気持ちは今はそうではなかった。なくすかもしれなかった冨岡義勇というものを、とにかく死ぬまでなくしたくない。ただそばにいたい。ずっとずっと、愛していたい。彼を乗せて走っていたい。四コーナーを回って最後の直線に入っても、ゴールの向こうにすぐまたゲートがある。
 俺は馬だ。冨岡義勇って騎手を乗せて、千レースでも走っていたい。死ぬまで現役で走り続ける。飼葉桶にぶっこむのは俺の気持ちだけで十分なのだ。
 実弥はふんと鼻から息を吐いた。義勇が実弥の顔を見る。いつもの無表情に戻っていた。彼の髪についた木の皮のくずを、実弥はつまんで取り、かごの外へ捨てた。若女将が「原チャリ」のエンジンをかけた。義勇は自分の髪に手をやる。
「もう何も付いてねぇよ」実弥は笑った。義勇もつられるように笑う。とても欲しかったお菓子を、ようやく買ってもらった子供のような顔だった。
 告白するなんて、俺も短絡的な事を考えたもんだな。冨岡がノーと言ったらすんなり「そうですかィ」と別の誰かを探すのかよ。ありえねぇだろ。俺の気持ちなんか、知りたいと言われた時にいくらでも言ってやらぁ。それまでは……。

 

 翌朝。
 実弥は隣で寝ている義勇の湿布の匂いで目覚めた。実に「さっぱりした」目覚めであった。目を開けて天井を見ていた義勇に声を掛けると、彼は実弥を見て挨拶を返した。実弥は、新婚で迎えた最初の朝はこんな風に満たされた気持ちがするものかなと思ったが、実際のところ自分は何もしていない事を思い出し、ふふと笑った。義勇が不思議そうな顔で見ている。
「痛むか?」傷の事を聞く。義勇はかぶりを振った。絶対嘘だと実弥は思ったが、よかったと言った。

 ロビーで天元と炭治郎がチェックアウトの手続きをしている間、皆は若女将と話をしていた。
 彼女は心を入れ替えたと言っているが、話し方は相変わらずくだけすぎている。これから女将修行が大変だろうなと皆思った。
「不死川さん、めちゃめちゃ優しくなったねぇ」少し離れた所に座っている実弥と義勇を見ながら民尾が言った。義勇の荷物を持ち、待ち時間があるなら座れと座布団を勧め、かいがいしく世話を焼いている。
「安心しろ、じきに頭をはたいて小言をいい出すだろう」小芭内がにやりと笑う。
「怒鳴るんじゃなくて小言を言うんだ」巌勝が微笑んだ。「俺はあの二人が仲良くしているとちょっとうれしいな」
「そうだよね、みっくんに同意!」
「あそこも仲良くなったようだな」小芭内が顎を動かして指した先には、無惨と縁壱がいた。こちらは、無惨がなにやら毒づいているようだが、前ほど距離を置こうとはしていないようだった。
「あっちは不死川さんだけが変わって、こっちは無惨だけが変わった、そんな感じするな」と巌勝。
「どっちも変わったさ。相方との化学反応で変わるのなら、それが名コンビというものだ」言ってから小芭内は飛び上がった。「チェックアウトが済んだようだ。帰るぞ」

「これって、バチが当たったってやつかな」
 病院の一室でベッドに横たわり、天井を見上げたままサイコロステーキ庭師が言った。ベッド脇の丸椅子に童磨が座っている。彼も入院患者用のパジャマを着ているが、怪我が軽いので今日はもう院内を歩き回れるようになっていた。
「君ってそういう事いうタイプだったの」
「いや、俺たちのやった事が罪だとかそういう訳じゃないすよ。なんか不公平な気がして。あいつ、金も取り戻して旅館上手く立て直して、人生も立て直すんだろうなって思うとムカつくぜ」
「そういう意味の不公平なの? 君は俺に乗っかって妖精一匹かっとばしたんだからまぁ、不公平でもないんじゃない? それを言うなら俺は? 君みたいなの選んだのは俺が悪いかもしれないけど」
「えっ」庭師……元庭師は体を起こそうとして、体中に痛みを感じて呻いた。また天井を見る。
「やっぱ、不公平だぜ。俺はこうして童磨さんにも捨てられるんだ。俺、本当はもっとデキる男すよ? 今回は失敗したかもしれないけど」
「あいつらさえいなければ成功していたよね」
「そうっすよ!」また身を起こそうとして呻き、枕に頭をとすんと落とす。「そうっす、あいつらが悪いっす」
「あのばら組と仲間たちは俺の今後のためにも絶対討伐しておかなきゃならない。そうしてしのぶちゃんを手に入れて、一緒に世界を平たく平たく均すんだ」
「俺、ついていきますよ!」童磨の言っている事の半分程しか理解できていなかったが、サイコロステーキは目を輝かせて彼を見た。
「俺はもっと頭のいい部下が欲しいんだけどなぁ」
「勉強します!」大きな声を出し過ぎて、元庭師はまた小さく呻く。
「勉強、ねぇ」童磨は丸椅子の上で大きく伸びをし、病室の窓から見える山の連なりを眺めた。

「わぁ、お父さんお母さん仲直りしたんですかぁ!」
 帰りの車の中で、民尾が大きな声を上げた。「お父さんお母さん」とは、巌勝の両親の事である。ハンドルを握る巌勝の母はフンっと鼻から息を吹き出した。けんかなどしていない、多少じゃれあいがエスカレートした感じはあるが、北川家はずっと平穏だと彼女は言い切った。
 調子のよい事を。助手席の巌勝はぎゅっと目を閉じ、一つ深呼吸をした。
 後部席の籐かごの中では、脇腹の痛む義勇を気遣って、皆がスペースを開けて彼を横たわらせていた。
「ここまでしなくとも大丈夫だ」義勇がそういうのは三度目だ。
「カーブも多いから揺れるし、横になっていた方がいいですよ」炭治郎が言う。
「そぉだァ。無理したら肋骨が折れるぞ」実弥は義勇に掛けたタオルケットを、彼の肩まで引き上げた。
「そうすると暑い」義勇に言われ、今度は腰の辺りまで折り返す。
「また胡蝶君が出張ってきますかね」縁壱が少し身を乗り出し、小さな声で実弥に言った。どうも、実弥たち三人の間にあった「何もないのに何かあった」事を気にかけているようだ。
「そうだなァ……まぁ、そうだろうな、診せには行くからなァ」
「そういえば胡蝶の話が途中だったな」義勇が言った。縁壱は「おや」という顔になって義勇を見る。
「いいかァ」実弥は小さくため息をつく。「俺は胡蝶の事を好きなんかじゃねェ。全く違う。なんでお前がそんな勘違いをしたのかききてェくらいだ」
「なんでって――」
「いや、聞きたくねェ。どうでもいい。そんな事は俺にとっちゃどうでもいい事だァ」言って、実弥は義勇ではなく縁壱が頷いているのはなぜだと笑いそうになった。義勇は眉根を寄せている。
「そうすると、俺がしたことはどうなるんだ」
「どうもならねェよ」
「『あら、冨岡さん、また何か勘違いなさっているのね』とか言いながら写真を削除してるんじゃないか」実弥の向かいに座っている小芭内が笑った。やれやれ、だ。
「不死川の写真を捨てるなんて事、できるはずがない」義勇がつぶやいた。実弥はどきっとする。その意味するところは分からないが、実弥の写真を捨てられる人間などひとりもいないという意味だとなんとなく思ってしまったのだ。
「私もそう思うよ」縁壱が言った。「冨岡君、私は胡蝶君が好いているのは君だと思う。だから胡蝶君は大量の不死川君の写真を君から送られて、たいそう面食らったであろうな」縁壱は微笑んだ。そして、実弥の顔を見た。え、なんだ、なんだよ縁壱さん。
「そんな……」義勇がもそもそと動いて人差し指で鼻の下をこすった。「そんな風に言われても俺は、困る。好かれるのはあまり居心地がいいものではないな」
 実弥は「ああ」と思った。この件に関して、縁壱さんが決着を付けてくれたんだなと悟った。小芭内や縁壱は自分にとって調教師みたいなものかと、頷きながら笑みをもらす。
「まぁいいじゃねぇか。好きになるもんは仕方ねェ。止められるもんでもねェ。お前も誰か好きなら、止められたくねェだろォが」
「そうかもしれないな」
「俺は止められたくねぇ」
「不死川は、止められても止まりそうにないな」義勇が言うと、縁壱と小芭内が笑った。つられるようにして義勇も笑う。実弥はにやりとした。
 そりゃァそうよ。俺は難しい馬なんだ!

 夜、鬼舞辻無惨の家で、鳴女はパソコンを見ていた。ダイニングテーブルに載せたパソコンの画面には、若女将のブログが映し出されている。
「とりあえず、気合だけは十分だね」鳴女は言った。
 無惨の反応がないので振り向くと、上司はソファに寝そべってスマートフォンを見ている。SNSでばら組のサイトを見ているか、それとも――。
「あ、もしかして無惨様、縁壱さんの個人アカウントとか、アドレスとか教えてもらったとかあります?」
「何だ、『とかとか』とか」
「『とかとかとか』になってますよ」
「うるさい。私は今文章を考えているのだ。邪魔をするな」無惨はスマートフォンを見つめたままだ。鳴女はそっと椅子を立ち、ソファの後ろへ行って、背もたれに肘を乗せた。無惨はさっと画面を伏せて隠す。
「見るな、人のメールを」
「あ、メールですか」
「いや、メールではない」
「では……SNS。コメントとかリプライとか」
「やかましいと言っている」
「でも文面で悩んでらっしゃるんでしょう?」
「いいのだ、継国など、うんこでも送っておけばいいのだ」
「あ、やっぱり縁壱さん」
 無惨は目を閉じた。
「無惨様、もううんこは卒業しどきですよ。縁壱さんも何か送ってくれたんでしょう? ばら組の投稿じゃないんですから」
「分かっている。分かっているから悩んでいるのだ。送られた写真を見ても一体何を言っていいのか分からんのだ」無惨は縁壱から送られた写真をしぶしぶ見せた。
「これは……伊黒さんですね?」縁壱から送られてきたのはコーンポタージュスープと思しきものをすすっている伊黒小芭内の写真だった。
「なぜ俺に伊黒の写真を送ってくるのだ」
「自撮りの仕方知らないんじゃないですか?」
「まさか」無惨はもう一度小芭内の写った写真を見た。
「あっ」
「何です」
「こいつ……」無惨は笑い出した。珍しい事なので、鳴女は驚いたが、どうしたのですと重ねて訊いた。
「これを見ろ、鳴女」無惨は写真を拡大して見せた。小芭内の後ろにある鏡にスマートフォンを小芭内に向ける縁壱が映っている。鏡の中の縁壱はピースをしていた。
「粋な事をなさいますね縁壱さんは」
「これ、粋なのか鳴女」いいながら、無惨はコメントを打ち込んだ。
 見つけたぞ継国。

 

 温泉旅行から帰って数日が経った。
 実弥と義勇は、今日も湯屋へ朝風呂に来ている。
「温泉もいいけど、こういう毎日の銭湯通いもいいもんだ」実弥が冷えた麦茶をごくごくと飲む。二人は湯屋の休憩所に落ち着き、朝食を注文し、待っている。
「近いからな」
「ん、そうだなァ、お前よく怪我すっから、近くねェとダメだァ」
「怪我はこの先する予定はない」
「怪我を予定する人間がいるかってんだ」
 厨房のおばさんがラーメンを運んできて、二人の前に置いた。二人は小さく礼を言う。ラーメンの湯気が立ち上っている。実弥は出汁の香りをすうっと吸い込んだ。
 そういえば、始まりは湯屋で冨岡がいい匂いさせてた事だったかな。実弥は軽く首を傾げた。
 義勇は麺をすすって食べてから、
「朝からラーメンを食えるというのは健康な証拠だな」と言った。
「確かに」
 それから義勇は食べる事に専念し始めた。こうなると彼は喋らなくなる。それはそれでいいと、実弥は思った。自分も食べる事に集中する。
 喉が渇くと厄介だからとスープを残し、散蓮華の切り欠き部分を鉢に引っ掛けて、実弥は一息ついた。義勇を見ると、彼もスープを残している。紙ナプキンで口を拭う義勇を見ながら実弥は、
「結局めぐりめぐってこの日常だァ」と呟いた。義勇は実弥を見る。
「何でもねェよ、こっちの事だ」
「なんだ、口に出されると気になるんだが」
「日常のありがたみが身に染みてるってだけだァ」
 何も言わず二、三度頷く義勇に、実弥は
「なァ」声を掛けた。「俺、好きなんだ」
 義勇は眉をくいっと上げる。
「チュッパチャプス」
「えっ?」
「俺、チュッパチャプスも好きなんだ」
 義勇は暫く黙っていた。
「おはぎ、他甘い和菓子、そしてちゅ……ちゅぱ……」
「チュッパチャプス」
「それだ。棒付きキャンディーだろ?」
「そうよ」
「それも好き、と」義勇はまた何度か頷く。「覚えたぞ」
「俺の好物覚える必要あんのかよ」
「喜ぶ顔が見たいからな。ついでがあれば買おうと思う」
 実弥は熱くなった耳を、曲げた右手の中指と人差しで挟んだ。
「『他、甘い和菓子』の内容もまた時々教えてやらァ」
「今教えろ、メモるから」
「いや、少しずつ教える」実弥は手を伸ばして、向かいに座る義勇の肩をぽんぽんと叩いた。少し不服そうな顔をする義勇であったが、実弥の顔は晴れやかだ。
 彼の頭の中ではまた、ファンファーレが鳴り響いていた。

【完】

 

前作:かれんなオトコマエ

二次創作INDEX【小説】