氷上のデブ

思いついた、試した、いつまで続くか分からない。

ベンチのふたり

 実弥は不安だった。
 お互いの気持ちを知ってから半年。学年は違えど同じ寮で暮らしているから、生活の上での距離は近いと思う。リビングで、食堂で、すべての共有スペースで、一緒になればいつも隣に彼がいる。初めて会ってしばらくは、腹が立つほど不愛想だった彼もよく笑うようになった。
 一年二組、不死川実弥。
 二年五組、冨岡義勇。寮長。
 だからなんだっていうんだ、事の本質はそこじゃない。リビングのソファに座る実弥は頭をふるふると振った。手にしているマグカップも一緒に揺れて、中のココアがこぼれそうになる。
「あ、あ、あ」言いながら継国縁壱が向かいのソファに座った。彼が手にしているカップにはスープが入っている。粉末を溶いて作るタイプのスープだ。こんな遅い時刻に厨房には誰もいない。
「みっちーはどうした、みっちーは」実弥は縁壱の双子の兄、巌勝の事を普段は「ミチ」と呼んでいるが、なんとなくおかしな呼び方をしてみた。案の定、縁壱は「誰の事ですか」という顔をしている。
「兄上はどうした!」
「ああ、兄上。えと、いぐちーと廊下歩いてたからもうすぐ来ると思う」縁壱は言った。伊黒小芭内のニックネームの一つである「イグッティ」をかまずに言えたためしがない。
 ふんと鼻を鳴らしてココアを口に含み、実弥はしばらく口中で甘さを味わった。同学年の寮生は四人だけ。実弥、小芭内、継国兄弟。こんな掃き溜め高校の寮に入っているのだ、それぞれに「事情」満載のコースを通ってこのあかつき寮に辿り着いている。仲良くなってからの彼らは、実弥の心を温めて柔らかくしてくれる仲間だ。今も湿っぽい気持ちになっていたところを、縁壱の顔を見て救われた。しかし。
 しかし、冨岡義勇。
 実弥は一目ぼれだったと思う。義勇に訊いたことはないから、彼も同じだったのかどうかは分からない。分からないが、お互い好き合っているのだと知ってからは、それはどうでもよかった。それくらい実弥は浮かれていた。しばらくは。
 半年経ってみると、少し自信を失う事が増えてきた。義勇は実弥への気持ちをはっきり言葉にした事がないのだ。実弥が好きだと言うと、うれしそうに笑ってただ受け入れる。その時には実弥もそれで心が満たされるのだが……。
「今まで気にしてなかった事が急に気になり出すってあるかァ? よりち」ひとり言のような実弥の問いに縁壱はすぐには答えず、カップの縁をぺろりと舐めた。
「よりちィ」実弥が縁壱を見る目に力をこめる。
「うん、あんまり痛くなかったのに急に痛くなる打ち身とかあるね。逆も」
「ま、まぁなァ」実弥は目を閉じて頭を傾けた。訊く相手ミスったな。
「俺は実弥に訊きたいけど――」縁壱はカップをテーブルの上に置く。「さっきいぐっちーが兄上に甘えろって言ってたんだけどそれ、どういう意味か分かる?」
「うーん……」実弥は腕組みをする。「前後が分かんねぇとはっきり言えねぇな。小芭内がミチに、小芭内に対して甘えろつったのか?」縁壱はかぶりを振る。後頭部の高い位置で結っても腰まである長い髪と、花札のようなピアスを初めて見た時は実弥も「どうしたんだこいつは」と思ったが、そのスタイルにも今はもう慣れたし「これがよりち」という感覚さえある。
「いぐっちが、兄上にアドバイスしてる感じ」
「へー……あ、分かった――」実弥は腕をほどいて膝の上に肘をついた。鮮やかな赤い痣のある縁壱の顔が近づく。痣は顔の左側、額から頬にかけてある。いつ見ても芸術的な痣だなと実弥は思うが、これのせいでチビの頃はいじめられもしたんだろうと少し心が痛む事もある。「ミチはお前の世話ばっか焼いてんだろォ」
「えっ」縁壱が背筋をぴょんと伸ばした。自覚ねぇのかよと、実弥は苦笑いする。
「だからなんつーか、そりゃミチが好きでやってる事でもあるし愛情なんだろけど、やりすぎっとォ、アレよ、あのォ――」
「すとれす」実弥が縁壱の気持ちを慮って言いよどんだところを、縁壱がすらりと言ってのける。
「それよ、ストレスも溜まるだろ、好きでやってる事でもな?」縁壱は頷く。「だから小芭内はたまには逆に、ミチはよりちに甘えたらいいつったんだよ」
「なるほど」
 この弟の世話焼いてりゃァ、そりゃストレスもたまるわ。実弥は思う。しかし、巌勝にすれば、素直すぎるほどに素直な弟があっちこっちでやらかしてしまう事を未然に防ごうと走り回るその原動力はやっぱり愛情なんだろうとも思う。
 だけどミチよォ、ちぃと甘やかしすぎじゃねぇの?
 思ってから実弥ははっとした。
 甘やかす。甘える。甘えてほしい。
 それだ。甘えてほしい。よりちみてェになってもらってもそりゃ面倒だがな、冨岡先輩、君はもっと俺に甘えるべきなんじゃァねぇの? 実弥は再び腕組みをする。俺たちの間には、なんかこう、壁みてぇなものがある、そんな気がします、先輩。
 縁壱はカップをテーブルに、実弥をソファに置き去りにして廊下を走って行った。兄のストレスを解消するとんちんかんな方法を思い付いたに違いない。

 二日後。
 義勇が風邪を引き、熱を出した。
 これ、きた、イベントきた! 実弥は自室で小躍りしていた。同室の小芭内が困惑しながらそれを見ている。自分が伝えた「冨岡先輩発熱情報」が実弥にとってそんなにうれしい事だとは思いもしなかったのだ。ペット禁止の規則を無視して持ち込んでいる鏑丸と名付けた蛇を肩に乗せ、
「何がうれしい」と眉根を寄せた。
「うれしい訳ねぇだろォ、先輩が熱……」思わずにやりとしてしまい、実弥は顔をそむけた。そのまま部屋を出る。
「大丈夫か?」小芭内は呟いた。

 部屋を出、廊下を数歩歩いて、実弥は突然立ち止まった。
「待てよ」
 すぐに義勇の部屋に行くつもりだった。あかつき寮では三年生から個室を与えられる事になっているが、寮生の数が少ない事もあり、寮長をしている義勇は個室にいる。だから、実弥は義勇の部屋に乗り込んでかいがいしく世話を焼きまくり、存分に甘えさせよう、甘える義勇を堪能しようと思っていた。「硬派」な俺がなんと情けないと思いつつも、舞い上がっていた
 しかし彼は、もしウザがられたら? という疑問と正面衝突してしまった。冨岡先輩はいつもクールだ。実弥達が知っている「実はおっとりおとぼけキャラ」であるという事実を本人は自覚していないし、進んでそれを出そうともしていない。熱を出して苦しんでいるところへ凶悪な面構えの後輩が乗り込んできて「ママでちゅよ」みたいに世話を焼き始めたら、それはもう胸やけを通り越して胃の内容物が逆流してしまうのではないか。そうなっては、今ある壁の厚みが増すのでは?
 実弥が疑問との正面衝突により立ち往生していると、その事故現場を継国兄弟が通りかかった。
「実弥、銅像みたい」縁壱が言い、巌勝が彼の腕を叩いた。
「実弥、ダビデ像みたい」縁壱は言い直すが、巌勝は弟を自分の後ろに押しやって隠した。
「どうした実弥、顔色が悪いぞ」巌勝が言う。
「あ?」実弥はぼんやり彼らの顔を見た。縁壱の「ダビデ像」発言は幸い耳に入らなかったらしい。
「冨岡先輩熱出したって……って、知ってるよな」言って巌勝は、付き合ってるんだからもちろんだという風に頷いた。「今縁壱と見舞いに行ったんだが、ちょっと早かった。見舞いに行くには熱が高すぎた」
「えっ、行ったのかァ?」実弥が一歩下がり、双子は頷いた。
「かなりつらそうだったから、見舞客が行く段階じゃなくて、実弥が行く段階だと思った」巌勝が言い、実弥は彼の顔を見た。こいつ、すげぇ、さすが「兄上」だ。気持ちは少し前のめりになったが、
「でもよォ、俺もなんか、あんま、出しゃばる感じ、なんてか、ウザがられるかもしんねぇしよォ」実弥はうつむく。巌勝には、ダダ漏れになっている実弥の「行きたい」という気持ちが湯舟に溜まっていく様子が見えた。直ぐにも入浴できそうだ。巌勝の後ろにいた縁壱が、兄の肩に手をかけてひょいと顔を出し、
「俺、つらそうだったから早く熱下がるように、保冷剤を大量にパジャマの中に入れてきた」
 実弥と巌勝が目をむいた。
「ほんと、大量だからじき熱も下がると思う」縁壱はにっこり笑う。巌勝は縁壱の顔を見、実弥は廊下を走り出した。
「縁壱、お前……分かってんのか分かってないのか……」巌勝は弟の肩をぽんぽんと叩き、大笑いした。

 義勇の部屋のドアを突き破らんばかりに勢いよく開け、実弥は中へ飛び込んだ。たたらを踏んでベッドまで到達する。義勇がとろんとした目で実弥を見上げる。
「ああ、不死川」かすれた声で言った。
「先輩ッ、ほ、保冷材は!?」実弥が叫ぶように尋ねる。義勇が黙っているので布団をはぎとる。「保冷剤! ンな大量に入れたら腹壊すし、汗でくっついてアレだろォ!」パジャマのボタンを外すのがもどかしく、そのまま裾からめくりあげた。
「あ?」パジャマの中には義勇の体しかない。義勇が実弥の手を払いのけ、パジャマの裾を下ろした。
 しまった、よりち、嘘か! よりちのくせに嘘か! 縁壱が冗談でも嘘をつくなどと思いもしなかった実弥は「やられた」と天井を仰いだ。そして、おそるおそる義勇を見る。壁の方を向いている。
「冨岡先輩……すんません……なんか、ちょっとした誤解あってェ」
「どんな誤解があって、突然人の部屋に乱入して服をはぎ取ろうという事になるんだ」義勇は向こうを向いたままだったが、声に潤いがあり、実弥には彼が笑っている事が分かった。実弥はうれしかった。ほっとした事と相まって、少し目が潤む。
「先輩」実弥が呼ぶと、義勇は「うん?」と言いながら寝返りを打ち、実弥を見た。熱のためだが、彼の瞳も潤んでいる。サファイアのような青が揺れて、洞窟で発見された水たまりのようだ。探検家になって、その奥深くへ潜ってみたいと実弥は思った。
「俺ァ、先輩にもっと甘えてほしいんだァ」実弥が言うと、義勇は不思議そうな顔になる。「俺は年下だけどォ、それは学年が下ってだけだろォ? 生まれた年は一緒じゃねぇか」
「確かにそうだな」義勇は微笑んだ。「でも二月と十一月じゃだいぶ差があるぞ」
「それは認めるけど……いや、そういう事じゃァなくて……とにかくもっと甘えてほしいんだァ」実弥は自分の方が甘えるような目つきになってしまっている事を自覚しながら、訴える事をやめられなかった。「もっと、先輩、俺に弱いとこォ、見せてほしい」
 義勇は仰向けになって天井を見た。しばらく黙る。義勇がそうして作るつもりのない間を作る事に実弥は慣れているが、少し不安になる。
「不死川」義勇は顔だけ動かして実弥の顔を見た。「俺は十分弱いぞ」実弥は黙っている。「俺が弱虫だという事を、お前は分かっていると思っていた」
「それとこれとは違うし、先輩は弱虫じゃぁねェ」
「いいや、俺は弱虫だ」
 数秒、二人とも黙る。エアコンの音が突然大きくなったように実弥には思えた。
「不死川」義勇が左手を伸ばした。何? と実弥が少し顔を寄せると、そのまま彼のうなじまで手を伸ばして絡め、ぐっと引き寄せた。うなじに触れる手がとても熱い。驚いて目を見開いた実弥の唇に、義勇の唇がぶつかってきた。
 ゴチッ。
 痛かったし、口の中に血の味が広がったが、実弥はそのまま動かずにいた。義勇もじっとしている。義勇が自分からキスをしてきた事は、今まで一度もなかった。とはいえ、これをキスと呼べるのか。固く閉じた唇を押し付け合ったまま、血まで流している。しかしその血の味が、真っ赤な流れを、脈打つハートを連想させ、義勇が自分を好きでいるという事をはっきりと実弥に分からせた。口をつけたままもごもごと、「ごめん」と言う。義勇は手を離し、顔を離して笑った。
「俺こそ……本当に、ダメだな、不死川はどうやって上手くこれを――」
 実弥はいつものように、そっと彼に口づけた。驚いて見開いた目を、義勇はゆっくり閉じる。実弥もまた目を閉じて、唇から、絡ませた舌から頬へ広がる熱い波を、脳内へ、体中へ打ち寄せて砕ける愛情を存分に感じていた。
 実弥が義勇の額に手を当て、前髪を後ろへやる。薄く目を開け、いつもは前髪に隠れている額を見ると、愛おしさがこみ上げてくる。と、義勇が実弥の肩に手を当てて向こうへ押しやった。顔を離す。いつまで経っても上手く息の出来ない義勇は、
「すまない」と言った。「練習、しようにもよく分からない、息」
「鼻づまりじゃァしょうがねぇ」笑ってから、実弥は枕の横に顔を伏せ、
「先輩、風邪治ったらどこ行こうかァ」と呟く。
 義勇は答えず、実弥の白く柔らかい髪に長い指を差し入れ、猫をあやすように軽くふわふわと動かした。

 それから数日後の昼下がり、
「すまねェ、小芭内、うつるから別の部屋で寝泊まりしてくれェ」力のない声で実弥が言った。彼は今、風邪を引いて発熱している。
「お前が移動しろ!」小芭内は眉根を寄せる。「行く当てがあるだろう、しばらくあの個室で寝てろ、感染源の看護を受けるがいい」
 小芭内が言ったところで、ドアがノックされる。ぶつぶつ言いながらドアを開けると、思った通り感染源が立っていた。
「すまない、伊黒、俺がうつし――」
「感染経路の話は聞きたくないね。早く連れていってもらいたい」容赦ない小芭内の物言いに苦笑いしながら、義勇は実弥に肩を貸してやり、自分の部屋へ連れて行った。
「本当に悪かった、俺が考えなしだった」廊下をゆっくり歩きながら義勇が言った。
「平気だァ。風邪なんざすぐ治らぁ」ふらつきながらも実弥はうれしい気持ちでいっぱいだった。この風邪は、あのガッチンコキスが幻ではなかった証拠なのだ。
「この間は俺に甘えろなどと言っていたが、今日からしばらくはお前が甘える番だぞ」義勇の声にもうれしそうな色が付いている事に実弥は気付く。
「俺はァ、いつも……いつも先輩に甘えてばかりだァ」
「そんな事はない。むしろ逆だ。俺はお前の先輩なのに、いつもなんでも……」言いよどんで言葉を切り、義勇は自室のドアを開ける。「なんでも、お前が俺を引っ張っていく。せめて風邪が治るまでは俺にいつものお前の役目をさせてくれ」
 実弥はにやにやしながら義勇のベッドに倒れ込んだ。
「何をにやにやしているんだ、気持ちの悪い奴だな」義勇が布団を掛ける。
「同じ方向向いてりゃ、そりゃ見えねェよなァ」実弥が呟くと、義勇は眉を上げて彼の顔を見た。
「何でもねェよ。先輩、プリン食いてェ」
「よし来た、取って来てやるからじっと寝ていろ」義勇はにっこり笑い、足早に部屋を出て行く。閉められたドアを見つめたままの実弥の顔からにやにや笑いが引くまでに、十五秒ほどかかった。

 

次作:数えても数えても、悲しみは余るけど 

二次創作INDEX【小説】