氷上のデブ

思いついた、試した、いつまで続くか分からない。

数えても数えても、悲しみは余るけど

 縁壱の湯のみが割れた。

 寮のいつもの五人でおやつを食べた後、マグカップやグラスを洗っていた縁壱が、湯のみの上にマグカップを落としてしまったのだ。
 世界に一つしかない、兄弟揃いの湯のみだった。
 小学五年生の頃、叔母が通う陶芸教室へ連れて行ってもらった時に二人で作ったものだが、作ったといっても、先生が作った湯のみに絵を描いて焼いてもらうだけだ。それでも兄弟は目を輝かせた。巌勝は自分の名前をでかでかと書き、縁壱は彼が「宇宙くらげ」と呼ぶ謎の生物の絵を描いた。彼は巌勝が名前を書いたのを見て、自分も名前を書くと言って、「宇宙くらげ」の横にのびのびとした字で「宇宙くらげ」と書いた。てっきり「縁壱」と書くのかと思っていた巌勝は一瞬困惑したが、次には声を上げて笑った。なぜ笑うのかと、縁壱は不思議そうな顔をしていた。その時、巌勝は弟が大好きだと思ったものだ。
 見た目は全く揃いではないが、作った日、場所、ベースになる湯のみは同じだから、二人にとってそれは揃いの湯のみだった。
 その片方が割れてしまった。
「わぁ! 兄上、俺の湯のみが割れたよ!」
 縁壱の声に、巌勝はキッチンに駆け込んだ。どこか子どもじみたところのある縁壱が、泣き出すのではないかと思ったのだ。
 しかし、縁壱はいつもと変わらぬ顔で
「マグカップ、上に落としちゃった。冨岡先輩のマグカップ、チョー強い。ズガーン」と言った。
「そうか」巌勝は、割れた湯のみをつまむ縁壱を見て、かけらを入れる袋を流しの横の棚に取りに行った。
 もうそんなにショックを受ける事はないんだ。
 世界に一つの湯のみを、二人ともとても大切にしてきた。縁壱は昔から父に嫌われ、疎まれていた。そのため、他の家の双子によくみられるような「いつも一緒」の兄弟ではいられなかった。しかし、やはり双子なのだ、巌勝は弟を大好きだったので、一緒に何かできるととてもうれしかったし、その思い出や記念の品を宝物にしてきた。
 縁壱は、そうでもなかったのかもしれない。
 ふと、巌勝は過去にも同じように思った事があったと思い出した。

 八歳の時だった。
 突然父が巌勝に、縁壱は叔母さんのところで預かってもらう事にしたと告げた。頭に雷が落ちたかと思うような衝撃があった。なぜなのかと何度問うても、嫌だ嫌だと何度言っても、父が巌勝の言葉を真剣に聞くことはなかった。叔母さんの家もうちと同じようにお金はあるから縁壱も不自由しないよなどと言い、隣に座る巌勝を抱き寄せたが、巌勝は父の手を振りほどいて縁壱の部屋へ走って行った。
 縁壱の部屋には叔母がいた。前の年に母が亡くなって以来、よく来て遊んでくれる叔母が、巌勝も大好きだったが、この時はその姿を見て激怒した。
「叔母さんがくれって言ったの? 叔母さんが縁壱を連れて行くの? 何で縁壱だけ連れて行くの? 縁壱が行くなら俺も行く!」言っている間に、涙がぼろぼろとこぼれた。
 彼を抱きしめる叔母の腕から見えた縁壱は、何を考えているのか全く分からない、人形のような顔をして巌勝を見ていた。
「お父様は大変だから、どうしても、二人ともみられないんだって」叔母は言った。
「違う、父さんは縁壱が嫌いなんだ! そんなバカみたいな理由で捨てるんだ!」巌勝は叔母の腕を逃れ、自分の部屋へ入り、布団をかぶって泣いた。
 一時間も泣いていただろうか。縁壱がやってきてドアを開け、
「兄上、さようなら」と言った。
 巌勝は驚いて飛び起きた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま縁壱を見ると、またあの人形のような顔をして立っていた。リュックを背負い、手に叔母の作ってくれた「宇宙くらげ」のぬいぐるみを持っていた。
「さ、さようなら?」
「さようなら」
「本当に行くの? 縁壱、本当に行くの?」
「叔母さんのところで暮らす。さようなら」
 縁壱はしばらく巌勝の顔を見ていたが、やがて踵を返し、廊下を駆け、階段を降りて行った。
 巌勝が呆然としていると、庭で叔母の声がした。窓から見ると、縁壱の手を引いた叔母が、門の外にとまるタクシーに近付いて行くところだった。縁壱は、巌勝の部屋の窓を見上げた。また、二人は少しの間見つめ合った。巌勝は再び泣き出した。悲しくて仕方なかったが、縁壱は無表情のままで目をそらし、タクシーに乗った。
 自分だけが悲しいんだ。
 離れ離れになることよりも、その時はそれが一番悲しかった。
 いつも、縁壱の愛情より、俺の愛情の方が大きい。

「これは兄さんが捨てておくから」
 湯のみのかけらを入れた袋を、巌勝は持ち上げた。
「ありがとう」
「湯のみ、どうする?」
「湯のみはいらない。もう、いらない」縁壱は食器棚を見て「あの辺の誰のでもないコップ使う」と言った。
「そうか」
 巌勝が流しを見ると、ひとりぼっちになった自分の湯のみがまだ洗剤の泡にまみれたまま立っていた。
「手を怪我しなかったか?」縁壱に尋ねる。
「うん、大丈夫!」縁壱は頷き、うれしそうに笑った。
 そういう顔を見ると、どうしても弟への愛情がどどっとせり上がってくる。それをどんと押し下げて、
「兄さんちょっと、出かけてくるよ」と言った。
「どこ?」
「まぁ、適当というか、ふらっと」
「ふうん」
 自分も行くと言い出すかと思ったが、そうでもなく、縁壱は共有スペースであるリビングのソファへ行って、小芭内の隣へ座った。
「よりち、行かないのか? 『ふらっと』出かけるなんて怪しいぞ」小芭内が言う。縁壱はかぶりを振って、別にいいと言った。
 肩透かしを食らう形になったが、巌勝は出かける事にした。
 「兄上」じゃない時間が、俺には必要だ。
 自転車に乗って出かける。「爆速チャリ」で三十分もあれば日本一大きな湖のほとりへ出られるが、一人でどデカい湖と対面するのに気後れし、途中のショッピングセンターで時間をつぶす事にした。
 自転車をとめて、建物の中に入る。大きな書店があるので、そこで立ち読みでもするかと思いながらも通り過ぎ、そのまま通路を歩いていると、「継国君」と名前を呼ばれた。
 立ち止まって振り返ると、同じ年頃の女の子が立っていた。友達らしき子と連れ立っている。久しぶりだの、元気だっただの矢継ぎ早に話しかけてくる。巌勝は、それが中学まで同じ学校に通っていた子だと思い出した。

 巌勝は私立の学校へ通っていた。金持ちが通う学校だというふうに巷では言われている。確かに巌勝含め、生徒たちはほとんどが裕福な家の子どもたちだった。幼稚園から大学まである学校だったが、巌勝は勉強ができたので、高校までそこへ行って、大学は外の大学を受験する予定だった。
 一方縁壱は幼稚園まで巌勝と同じだったが、小学校から公立の学校へ通っていた。
 縁壱は幼稚園に入った時から、顔に独特の痣がある事からいじめられた。人より力が強かったため、いじめられたのに相手に怪我をさせる事がたびたびあり、その度、病弱な母ではなく、父が先方へ謝りに行った。大会社を経営する立場の父にはそれが耐え難かったらしく、縁壱を疎むきっかけになったのかもしれないと、今の巌勝は想像している。
 問題の多かった縁壱はそのまま小学校へ上がる事が出来ず、公立の学校へ進んだ。そこでも幼稚園と同じ事が繰り返され、父はよく秘書に「貧乏人どもに頭を下げるのがどれだけの屈辱か」などと愚痴っていた。
 母が亡くなり、母への執着から母の形見であるピアスを外さなくなり、髪を伸ばし、常に和服を着るようになった縁壱は、父にとって「我慢ならない子ども」となってしまった。
 そうして、高校へ上がる時に寮のあるこの「掃き溜め高校」へぶち込まれたのだ。
 巌勝は迷いなく……いや、三日程考えに考えて、それからきっぱりと自分も縁壱と同じ高校へ行く事に決めた。父とは相当揉めたが、叔母が間に入ってくれ、大学は今まで目標にしてきたところへ必ず行くという事で今に至っている。
 こんな荒れた学校へ縁壱一人入り込んで、どんな事になるのか。想像しただけで泣いてしまいそうだ。巌勝はそう思った。自ら悪い事などした事がないような縁壱ばかり、大人の都合でひどい目に合わせやしない。巌勝は弟への愛情にあふれていた。
 けど……。

 元同級生の話は上の空で、適当に相槌を打っていた巌勝は、彼女の話の小さな切れ目に「じゃあ、また」を突っ込んで手を振り、再び歩き出した。
 子供服を売っている店の前を通り過ぎる。
 思えば、赤ちゃんの頃の写真でしか自分たちが揃いの服を着ているのを見たことがない。
 病弱な母は家から殆ど出る事がなく、いつも自室にいた。そこで縁壱と気に入りの時代劇の映画を観ては時代劇ごっこをして遊んでいた。巌勝もよく母の部屋に行って遊んだが、彼はごっこ遊びには興味がなく、ゲームをしていた。それでも母と縁壱と一緒の部屋にいると楽しかった。時々、セリフだけでごっこ遊びに参加する事もあった。
 物思いにふけりながら巌勝はぶらぶら歩き、アイスクリーム屋の前にある小さな休憩スペースに腰を下ろした。店で注文したアイスクリームを受け取るカップルがいたので、彼らに座る場所を譲る事にして、巌勝は少し離れたドラッグストアの前のベンチに移動する。
 ここに座ってアイスクリームを食べた事がある。小芭内も一緒だった。勿論、縁壱も。
 ふと、隣のベンチに座る子どもが泣いている事に巌勝は気付いた。
 姉弟のようで、泣いているのは弟の方、まだ四つくらいか。姉の方は、ぐっと険しい顔をして通路を行きかう人々を見ている。彼女は六つくらいだろうか。
「迷子になったの? ママとはぐれちゃった?」巌勝は声を掛けた。
 姉の方が、表情を変えぬまま巌勝を見てかぶりを振った。
「パパ」
「ああ、パパと来たんだ。パパ、呼んでもらおうか、あそこの――」すぐそばにあるインフォメーションセンターを指す。「お姉さんが、パパを呼び出してくれるよ。俺、頼んであげるよ」
 姉は弟の手を引いたまま立ち上がり、巌勝の手の中に自分の手を滑り込ませてきた。よく見ると、姉は泣いていないが目には涙が溜まっている。
 相当不安だろうに、弟が泣いているから、必死でこらえてるんだな。
 迷子の姉弟をインフォメーションセンターの係員に託してから、また巌勝は歩き出した。
 あの子、えらいな。
 思ってから巌勝ははっとした。
 えらいだなんて。あんなに小さな子が泣くのを我慢するのが、えらいだなんて。えらいけど、賞賛されるべき事なのか?
 巌勝の思いはまた過去へと流れていく。

 縁壱が泣いた日。
 それを、巌勝はそれまでで一番印象深く覚えている。
 九歳の時だった。
 母の死後、叔母の家に行ってから、しばしば叔母が縁壱を連れて遊びに来た。巌勝は別れ際の事があったので、縁壱と距離を取っていた。
 離れ離れになるのは、俺だって平気なんだと、そう見せつけようとしていたのだ。巌勝が頑張らなくとも、縁壱が巌勝の部屋へ遊びに来ることはなく、彼はいつも母の部屋へ行って映画をみたり、遺された本を読んだりしていた。それが、巌勝にはまたショックだった。自分は縁壱の事などひとつも好きではないと思い込もうと必死になった。
 完全にひとり相撲だったけど。巌勝は苦笑いする。
 あの日も叔母と縁壱が来ていた。しかし巌勝は部屋にこもり、宿題を片付け、更に家庭教師に出された宿題をしていた。
「兄上」
 突然呼びかけられ、巌勝は飛び上がった。音もなく廊下を歩いてき、音もなくドアを開けて、縁壱が部屋の入口に立っていた。
 あまりに驚き、怒りも強情も忘れ、何も言えずにぽかんと縁壱の顔を見る。縁壱はドアを閉めてから巌勝のベッドに座った。自分の足元をじっと見ている。
 母とのごっこ遊びの余韻がいつまでも抜けず、「兄上」「叔母上」と親しい人を呼ぶ縁壱。いつも表情のない人形のような顔をしている縁壱。巌勝ほど、双子の兄弟の事を愛せない縁壱。
 俺に何の用があると言うのだ。
 黙っていると、縁壱は顔を上げて巌勝を見た。
「俺、叔母上の家に帰りたくない」
 巌勝はまた、何も言えなかった。どういう事なのか分からない。
「帰りたく……ない? なぜ?」
「帰りたくない」
 しばらく、「なぜ?」「帰りたくない」のラリーが続いた。
 その内、縁壱が仮面のような顔をくしゃっと崩し、
「叔父さんのお友達が俺のおちんちんをさわるから嫌だ」と言ってわんわん泣き出した。
 巌勝の頭は完全にパニックに陥っていた。
 どういう事だ、叔父さんのお友達って、何だ、誰だ、何で縁壱のおちんちんをさわるんだ……。
「お、叔母さんに言ったか?」ようやく言葉を絞り出す。
「誰かに言ったら叔母上が警察にタイホされるって叔父さんが言うの。だから兄上も秘密にして!」また声を上げ、しゃくりあげながら縁壱は泣く。
 巌勝はどうしていいか分からなかった。分からなかったが、弟を叔母さんの家に、叔父さんのところへ帰すわけにはいかないという事ははっきりしていた。自分だって、叔父さんの友達にそんな事されたら嫌だ。
「おじ、叔父さんが」ベッドに座ったままの縁壱は激しく嗚咽する。「裸んぼの写真撮るのは我慢する。でもっ、おおおお叔父さんのお友達は嫌だ、俺は怖くてたまらない、あのあのあの人は嫌だっ」
 押し殺した悲鳴のような声で言ってから、縁壱は勉強机の前に座ったままの巌勝のところへ走ってきて、彼にしがみついた。
「兄上と一緒がいい、俺はずっと兄上と一緒がいい、そしたらあんな人は来ない!」
 弟を抱きしめて頭を撫でながら、俺がいてもその人は来るかもしれないと、巌勝はぼんやり思った。縁壱の体はとても熱く、その熱と一緒に腕に伝わるものが、懐かしくとても愛おしかった。離してはならないと思った。
 その時、叔母が縁壱の名を呼びながら階段を上がってくるのが聞こえた。
 巌勝はとっさに縁壱を抱いたままクローゼットの前へ行き、扉を開け、二人で中へ隠れた。叔母はドアを開けたが、二人がいないと思い、他の場所を探しに行った。
 巌勝は縁壱を連れて、持ち物を準備する余裕もなく、勝手口から家を飛び出した。
 絶対に、帰さない。絶対に、離れない。

 その時の、自分の手をぎゅっと握りしめてくる縁壱の手の熱を、巌勝は今も鮮明に思い出せる。
 そうだ、悲しい人間が百人いて、百人とも泣くとは限らない。泣かない人間が皆悲しい気持ちを抱えていないなんて言い切れない。
 縁壱がどれだけ長い間、泣きたい気持ちを押し殺してきたのか。それを思うと、巌勝はついよろめきそうになり、エスカレーターの途中で手すりをつかんだ。
 母さんが死んだ時も縁壱はあの人形みたいな顔でじっとしてた。俺がわーわー泣いていたから、我慢してしまったんだと思う。
 俺は……俺は、兄だっていうのに……。
 泣きそうになってふと、巌勝は二人で家出をしたあの時に、街で助けてくれた大学生の顔を思い出した。そのお兄さんは二人に同じように温かいまなざしを向けてくれた。同じように。二人に。
 巌勝は二階にある生活雑貨の店の前に立っていた。
 ここに湯のみっていうか、カップっていうか、そういうの、あるだろな。
 店に入る。
 あのお兄さんが縁壱から詳しく話を聞いてくれた。そして、警察に通報してくれた。叔父さんは逮捕された。叔母さんは自分が気付けなかった事をそれはそれは激しく詫びて、俺も父さんも、彼女が自殺するんじゃないかと心配した。でも叔母さんは離婚して立ち直った。今も俺たちに優しい。そして俺たちはそれがうれしい。縁壱は家に戻ったけど、父さんのせいであんまり幸せそうじゃなかった。
 でも今は……あかつき寮で暮らす今は、それまでの縁壱とは別人のようだ。
 棚に並べられた数々のカップを眺める。マグカップは少し違うと巌勝は思う。前のが湯のみだったから。タンブラーと札に書かれたものを手に取る。色々なものがあるが、なんなのか分からない奇妙な動物の絵が描かれたのを手に取った。
 これは縁壱が好きそうだな。「宇宙くらげ」じゃないけど。思わず笑みがこぼれる。
 色々つらいことがあったけど縁壱、これからは絶対、楽しい事だらけだぞ。
 レジで会計をしていると、ズボンのポケットでスマートフォンが震えた。見ると、小芭内からメッセージが届いている。
 よりちがお前に捨てられたって凹んでいるぞ。
 ああ、小芭内は縁壱の気持ちを察するのが上手いな!
 巌勝は店員から包みを受け取り、店を後にする。
 でも、縁壱を守るのは俺だ。

 あかつき寮へ帰ってカップを渡すと、思った通りに縁壱は大喜びした。
「兄上! 好き!」巌勝をハグする。さすがに少し気恥ずかしい。
 家を出て父と離れて暮らすようになって、縁壱は素直に感情を表すようになった。そうすると周りが困るだろうと思うと、またあの人形の顔をしているので、巌勝はすぐに縁壱が何か無理をしている時には気付けるようになった。それを、春に出会ってすぐにやってのける小芭内はすごいと思うし、自分は子どもなんだなとも思う。
「あれ? 二つ買ってきた」縁壱が包みの中にもう一つカップがある事に気付く。色違いの同じ柄のカップだ。
「ミチのだろう」小芭内が言う。
「兄上、なんで? 兄上の、割れてないよ。もしかして、やっぱりお揃いじゃないと嫌なの?」
「うるさいな。そういう訳じゃないけどせっかくだから」巌勝は少し顔を赤くする。小芭内がふんっと鼻を鳴らした。縁壱はにんまり笑い、
「兄上の兄上を守るコップだ!」と言いながら、カップを巌勝の股間にかぶせた。
「やめなさい縁壱」手を押し戻す。
 縁壱はかつてあんな事があったのに、よく「兄上の兄上」でふざける。カタルシスなのか、忘れたのか。
 いや、忘れる事などありえない。今でも夜中に、嫌な夢を見たと泣きながら起き出す事があるのだ。何の夢なのか詳しく聞いた事はないが、巌勝はあの時の怖い思いを彷彿させるものだろうと思っている。
 縁壱はカップを目を細めて見つめている。心に傷を負い、しぼみ切る事のないパラシュートを引きずったまま前に進み続ける弟を、今度は自分の方から抱きしめてやりたい気持ちに、巌勝はなっていた。
 彼の視線を感じたか、縁壱は顔を上げた。
「兄上――」言いかけて、つるりとカップを取り落としてしまう。
「あ! バカ!」巌勝が飛び込んでキャッチしようとするが、カップはその手に当たって跳ね、結局小芭内が読んでいた本を放り出して床との衝突から救った。
 巌勝は大きく息をつき、縁壱は「よかったぁ」と言って胸の前でぎゅっと手を組んだ。
「貴様ら、どうしようもない兄弟だな! つ! ぎ! く! に!」
 小芭内の言葉に、二人とも声を出して笑う。
「楽しそうじゃん、なんかいい事あったか?」縁壱の担任、宇髄がやってきて、向かいのソファに腰を下ろした。テーブルに保冷バッグを置く。「神がシューアイスを買ってきてやったぞ」
 寮生には家に居場所がなかったり、そもそも家がなかったりする子が多く、宇髄は自分のクラス以外の生徒たちの事も気にかけ、こまめに様子を見にくる。そして彼は、巌勝たちが家出をしたあの日に助けてくれた大学生でもあった。あの時、教師になる事を決めたのだと言う。まさか兄弟に職場で再会するとは思いもしなかったろう。
 縁壱はさっと宇髄の横に座り、カップを見せて、話をしている。宇髄は笑って縁壱の頭にそっと手を置いた。
 あの時もあんな風に俺たちの頭に手を置いたな。巌勝は思った。あの頃、百四十センチに満たなかった俺たちの身長も今は百八十センチを超えた。
 小芭内が、再び手にした本で巌勝の腕をぽんとひとつ叩いた。彼を見ると、何も言わずに本を開き、読みかけのページを探している。
 巌勝は自分のカップを手にとって、奇妙な動物の絵をながめた。
 何度見ても、何の絵か分からなかった。

 

次作:玉座の兄ちゃん

前作:ベンチのふたり 

二次創作INDEX【小説】