氷上のデブ

思いついた、試した、いつまで続くか分からない。

玉座の兄ちゃん

 一匹狼でこの学校の頂点に立つと、不死川実弥は決心していた。学校の頂点といえば、何か。片目を薄くつぶって少し考える。
 王か。この掃き溜め高校の王。
 掃き溜め高校だから、ガラの悪い奴らばかり集まっている。一年生から三年生まで、喧嘩が大好きな、拳をふるう機会を探してきょろきょろしているような奴ばかり。そんな学校で頂点に立つのだ。
 一匹狼でというところが、実弥にとっては重要だった。
 きっかけは単純だ。そういう映画を観た、それだけの事だ。主人公はたった一人で、襲いかかってきた他校のヤバい奴らを一掃する。そうして自分の通う高校の頂点に立ち、その地域の頂点に立つ。そして、愛する女と一緒になるのだ。しびれた。それだけの理由で、実弥は実生活で一匹狼で周りを蹴散らし、女を手に入れるという計画を実行しようと思い立ったのだ。同じ養護施設育ちの親友、伊黒小芭内にその話をすると鼻で嗤われたが気にしない。決めた事を必ず実行する。それが不死川実弥なのだ。

 彼はこの春、施設を出て学校の寮に入った。
 高校一年生。
 学校の門を入ったところに植えられている桜の大木は、入学式を待たずに花を咲かせ、散らした。半分土に還ったような花びらが、舗装された通路の端、土の部分に汚く積もっている。

 入学式から数日後、通常の授業に入っている学校の廊下で、伊黒小芭内と継国巌勝は話をしていた。
 二人は同じ一年五組、寮生でもある。入学式の後教室に入ってすぐ、小芭内は巌勝を「数少ないまともな人間」と認識した。人付き合いを得意としない彼は、興奮した幼稚園児たちを解き放ったかのような大騒ぎの教室で、静かに本を読みながら巌勝の様子をうかがっていた。彼はずっとスマートフォンで誰かとメッセージのやり取りをしていたが、二日目に、幼稚園児のような生徒たちの中に異質な生徒を見付けたようで、小芭内に話しかけてきた。巌勝は素直で真面目な性格で、小芭内はほっとして話をする事ができ、彼らはすぐに打ち解けた。
 二人とも、それぞれ巌勝は双子の弟、小芭内は親友である実弥がこの高校へ来ることを心配してレベルを落としてここへ入学している。小芭内は巌勝がここへ来るまで通っていた私立の学校の名前を聞いて驚いた。「金持ちの行くところ」と言われている学校だったのだ。本人に対してあまり詮索はしなかったが、後でインターネットで調べてみれば、巌勝の父は大会社を経営していて、家は昔からの金持ちであるようだった。更に巌勝は、中学の時の成績はトップクラスで全国模試の成績も小芭内より随分上だった。小芭内も上の方であるから、相当勉強ができる事になる。
 そんな境遇でこの掃き溜め高校へ入学してきたのだ。弟のために。
 弟の出身中学は公立の中学で、中学の頃、噂を聞いたこともあり、素行の良い生徒ではないと思っていたのだが、巌勝の話を聞いているとこの弟はどうも、小芭内が思っていたような素行の悪さがある訳ではないようだ。
 とはいえ、小芭内も親友のために図体のデカい幼稚園児が通う学校へ来ているのだから、巌勝になんと思われているか知れたものではない。
「えっ、絶縁状突き付けてきたの?」
 巌勝が少し身をかがめて小芭内の顔を見た。
「いや、絶縁状とまではいかないが」
 巌勝は身長が百八十五センチ程あり、小芭内は百六十二センチだ。かがんでもらうと首が楽だが、かがまれているところを第三者に見られるのは少し恥ずかしい。
「ひとりにしておいてほしいらしい」小芭内は巌勝の肩をそっと突いて、体を起こさせた。
「ひとりでどうするんだろ。実弥さん、何企んでるんだろ」
「『さん』つけるなよ、気持ち悪い」
「あんまり仲良くないから呼び捨てしづらい」
「そんな事気にする奴ではない。とにかく実弥は俺たちとつるまずに喧嘩、喧嘩で頂点に上りつめたいらしい」
「何の頂点?」ポケットからスマートフォンを出しながら巌勝は訊いた。
「この学校の。というか、結局一番強い奴になるって事だろうな」小芭内は巌勝が見て微笑んでいるスマートフォンの画面を覗き込んだ。話をしている自分たちの写真が表示されている。二組の廊下を見ると、にっこり笑う巌勝の弟がいた。わざとか偶然か、他の生徒にぶつかられてよろめいている。巌勝が小さく舌打ちをした。
「あいつは中学の時には徒党を組んで喧嘩三昧をやっていたがな」小芭内は巌勝に目を戻した。
「それが孤高の王者に?」
「なりたいらしい。そもそもあいつ、施設でも下の子たちに慕われまくって『兄ちゃん、兄ちゃん』と呼ばれていたのだ」小芭内は学ランの両のポケットに手を突っ込んだ。「それが不死川実弥というものだった。兄貴肌などというのは、守る者がいてこそだと思うがな。今更一匹狼など」
「それ、分かるよ。俺も弟を守るってはっきり決めた時からこう、背筋が伸びたっていうか……」
 小芭内はにやりと笑った。こいつは間違いなく重度のブラコンだ。
「なに?」巌勝は目を丸くした。
「いや、なんでもない。それより実弥だ。あいつ、一匹狼で王者になった上、女も手に入れるなどとほざいているのだ」
「うわぁ」自分のブラコンを棚に上げ、巌勝はくしゃみの直前のような顔をした。
 そうしていると、化学教師が太鼓腹をリズミカルに揺らしながら廊下を歩いてきた。彼らの授業を担当するのだ。小芭内と巌勝はさっと教室に入ったが、他の者はほとんど休み時間と同じまま、騒いだりものを食べたりスマートフォンをいじったりし続けていた。

 一年二組でも、五組と同じようにきちんと席に着いているものは少数だった。
 実弥はわざとだらしなく椅子の背にもたれ、ずりおちそうな座り方をしていた。ガムを噛みながら、視線は左横の列の少し前に座る継国縁壱の背中を捉えている。
 頭頂近くで結っても腰の辺りまで届く長い髪は、染めているのかいないのか、赤っぽい。光が当たると燃えるような赤に映り、あちこちはねるくせ毛はまるで絵に描かれた炎のようだった。
 その炎と同じような赤い痣が、縁壱の顔にはあった。左側の額から目の下にかけて。実弥はこの痣を、芸術的だと思ったし、また、かっこいいとも思った。彼と話をしたことはないが、その兄と話をした時に痣の事を言うとものすごい目付きで睨まれたので、痣のせいで小さい頃からいじめられたのかもしれないと察しを付けている。
 この兄は「ブラコンである」と小芭内が言っていたが、実弥もそれは感じている。
 寮に入った一年生は実弥、小芭内、そして継国兄弟の四人だけで、兄弟であるから双子は別の部屋に割り当てられていた。つまり、実弥と縁壱、小芭内と巌勝がそれぞれ同室だった。しかし巌勝はどうしても弟と同じ部屋でなければならないのだと、分かるような分からないような、いや、全く分からない理由で手を合わせて部屋を替わってくれとこっそり実弥に頼んできたのだ。その割に、弟の事を詳しく尋ねようとすると鋭い目つきで睨んで口を封じる。実弥は一発二発殴ってやってもよいとその時思ったのだが、自分より背も高く、弟の事となると妙な圧力をかけてくる上、タカのような鋭い目つきで実弥の目を射ってくる巌勝が、もしかすると自分より強い可能性もあると思い、しばらく様子を見る事にした。小芭内に言わせると「普通のブラコン」らしいが、実弥にはとても普通には見えなかった。
 実弥がガムをもう一つ口の中へ放り込んだ時、縁壱が振り向いた。花札のようなピアスが揺れる。おしゃれのために着けているとはあまり思えぬデザインのピアスだ。しかし縁壱は私服の時にはいつも和装であるので、彼なりのおしゃれなのかもしれないと実弥は思っている。何もかも変わっている。
 しかしその目は兄が向けてくる鋭い目付きとは全く逆で、ハンモックの揺れのように、彼の見ているところだけ時間がゆっくり流れるのではないかと思わせるように、おっとりとしていた。
 ばっちり目が合ったので、実弥は両眉をくいっと上げて、目を大きく見開いてみせた。「なんだ文句あんのか」とでも言うように。
 縁壱は無表情のまま、前に向き直った。
 いい度胸じゃねぇかァ。シカトかよォ。
 大して腹を立てている訳でもないのに、実弥は頭の中で毒づいた。
 実弥が縁壱の事を気にかけているのは、彼の外見が変わっているからではなかった。
 彼が玉座に着くために倒さねばならない生徒の一人だと思っていたからだ。
 実弥は中学に入った頃までは、喧嘩にあけくれるような生徒ではなかった。ごく普通というと少し違うのかもしれないが、多少拳にものを言わせるタイプの少年ではあったが、それも小芭内や年下の施設の子たちを守るためというところが大いにあった。
 中学一年生の時の担任が、非常に威圧的な態度を取る教師で、実弥は彼に猛烈に反発した。しかし、まだ小学校を終えて間もない子供だから、力でねじ伏せられ、そのやり方によって傷ついた実弥は暫く学校を休んだ。そしてその間に同じ学校の上級生たちの「チーム」に誘われ、そこで喧嘩三昧の日々を送る道へ進んでしまったのだ。
 そんな風に実弥に大きな影響を与えた「クソ教師」は、翌年異動した。そして、その異動先の学校で、一人の生徒に半殺しの目に遭わされたという噂がその地域に広がった。
 継国縁壱。
 入学式の三日前、寮の部屋割りの表の中にその名前を見付け、実弥は震えた。もちろん、武者震いである。一年生だったとはいえ、コバエのように自分を叩き潰したあの教師を半殺しにしたという継国縁壱。これを放置したまま王にはなれない。手なずけて側近にするなど問題外だ。実弥は一匹狼の王になるのだから。群れている奴など、本物の女は見向きもしない。
 いまのシカトで決まりだ。今日やる。今日、俺はあいつをクリアする。

 

 昼休み、体育館裏。
 そこの空き地は舗装されており、かつては三人制バスケットボール用のコートがあった。かなり前にプールが移転した際、その跡地にテニスコートと共にそのコートも新しく作られ、今は体育館裏は少ししめっぽくひとけのない場所として生徒たちに知られている。今もゴールは存在しているが、木製のバックボードは朽ちて、一層目の板の端がはがれて丸まってきている。
 この死神のようなバスケットゴールにジャッジを任せるように、掃き溜め高校の血に飢えた生徒たちはここでよく一対一の喧嘩をする。一対一で始まって一対一で決着が付くことはまずないのであるが。
 今日の主役は不死川実弥だった。実弥が「タイマン」の相手に選んだ継国縁壱は、全く状況を理解しておらず、ここまで実弥が引っ張り、背中を小突いて連れてこなければならなかった。今も、少し距離をとって実弥の正面に立ち、周りをきょろきょろと見回している。
「分かってねェみてぇだなァ、継国ィ。お前は今日はァ、俺を倒すまで帰れねェぞぉ!」実弥が声を張って告げた。縁壱は心情の読めぬ顔で実弥を見た。少し首を傾げている。強そうなオーラは皆無だし、ただ背が高いだけで腕っぷしが強そうな雰囲気も全く無い。
 本当にこいつがあのクソ教師を半殺しにしたんかァ。実弥は少し不安になったが、決めた事はやり切る。もし間違いであれば後で笑って謝ればいい。それはそれで見せ所だ。王になる男はそれぐらい度量が大きくなければならない。
 すでに五、六人、生徒が見物に来ている。一年生と、少し離れた所に二年生も来ている。
 これは気合を入れていかねばならない。最初のマッチだ。これから何十、いや、何百と重ねていくであろう戦いの始めの一戦だ。華々しく勝たねばならない。実弥は縁壱をじっと見ている。相変わらずきょとんとしたような、しかしどうにも感情の伝わらない顔をしている。
 あの噂、ガセじゃねェのか? 下手したらこいつ、ハエも殺せねェタイプなんじゃねェの? 思いながら地面を蹴った。
 実弥は中学で喧嘩暮らしを始めてから殆ど負けた記憶がない。すばしこく、力強い。一対一で相手の攻撃をまともに食らう事などほぼ無い。
 背後でギャラリーが口笛を吹くのが聞こえた。実弥はコートの端でターンして止まる。縁壱は、始めに実弥が立っていた位置にいた。同じ顔で立っている。
 俺ェ、かわされたァ? それも今まで滅多にない事だった。
 実弥は再び地面を蹴り、間合いを詰めた。連続攻撃で様子を見る。
 縁壱は風を切って素早く繰り出される突きも蹴りも、全て紙一重でよけた。よけながら、
「本当に? 本当に俺、帰れないの? しにゃずがわきゃん倒さないと帰れないの?」と小さな声で実弥の名前を噛みながら訊いてきた。実弥は少し下がって距離を取り、攻撃を止めた。
 なんだこいつ。
 実弥は少し恐怖を感じていた。縁壱が実弥の攻撃を「紙一重」でかわしたのは、なにも精いっぱいぎりぎりでかわしたのではないと分かっていたからだ。やる気がないから「紙一重」になっている。そういうよけ方だった。
「おーい! 何やってんだ不死川! こんなヘタレ、瞬殺しろよー!」
 ギャラリーから声が飛んだ。そして
「バカ! 何やってんだ縁壱!」間髪入れず飛んできた声は、継国巌勝のものだった。見れば小芭内も一緒に駆け付けている。
「兄上!」縁壱が叫んだ。「兄上」という呼び方に、ギャラリーは嗤う。実弥はなぜかその嘲笑に苛立った。
「俺、しにゃじゅぎゃぎゃ……」縁壱は実弥を指さす。「この人倒さないと帰れないって言われたんだけど!」
 巌勝は眉根を寄せつつ、ぽかんと口を開けた。小芭内が千枚通しのような視線を実弥に向けていた。実弥は思わず目をそらす。
「おい、邪魔すんなよ木偶」ギャラリーの二年生の一人が巌勝を小突いた。
「弟なんです」
「じゃあちゃんとしつけろよ! 全然試合になってねぇじゃんかよ!」
「試合って……」
「兄上! 帰りたい!」縁壱がまた叫んだ。
「おい、それは俺を倒してからだァ!」実弥もまた叫んだ。クリアしなければならないクエストがぐずぐずになって消えてしまいそうな事に焦りを感じていた。あのクソジジイを半殺しにした奴なら絶対倒しておかねばならない。すっと音もなくステップを踏み、縁壱の胸倉を片手でつかんだ。近付いた時、実弥を見る彼の表情が全く変わらなかった事が頭に引っかかったまま利き手を素早くテイクバック……したと思った時には遠心力を感じ、直後、視界が空でいっぱいになった。
 実弥はどさっとコートに落ちた。
 殴る間もなくぶん投げられ、無様に地面に背中を付けている。視界の端に死神が映っていた。しかし、ギャラリーで口笛が鳴り、歓声が起こるより前に、実弥ははね起きた。
 これはヤベぇ。こんな事今まで一度もなかったァ。ランクが違うみてぇなこんな投げられ方ァ……覚えがねェ。

 

 一日存分にだらだら過ごした生徒たちは、放課後になると驚くほど素早く帰ってしまった。
 がらんとした教室で、実弥は机につっぷしている。悶々としていた。
 実弥は縁壱に負けた。無様に負けた。一発も殴れず、殴られず、負けた。
 こんなのは喧嘩にもならない。
 それなのに負けた。
 悔しい訳でもなく、恥ずかしい訳でもない、なんとも言えない感情が背中からしみこんできて後ろから心を抱いている。
 入学してしばらくは、実弥と小芭内、継国兄弟は一緒にバスに乗り寮まで帰っていたが、一匹狼作戦を始めてから実弥は時間をずらして一人で帰っている。今のような気分では、作戦がなくとも彼らと一緒に帰りたくはない。
 縁壱は少し教室に残っていた。カバンの肩ひもをいじいじと触り、実弥に声を掛けようとしているようだった。実弥はわざと目を合わせないようにした。巌勝と小芭内が縁壱の様子を見にきたが、売店に寄るから先に言ってくれと彼は言っていた。それから、当番でもないのに黒板の掃除をして帰った。実弥はちらちらと寄越す縁壱の視線に耐え切れず、黒板掃除が始まった時からずっと机につっぷして寝たふりをしていた。
 縁壱は恐ろしい体力の持ち主だった。そして信じられないほどの俊敏さを持っていた。その事だけでも、もし縁壱が激怒するきっかけがあってそうなっていれば、実弥は半殺しにされていたかもしれない。あの中学教師のように。
 縁壱を殴ろうとして一度も殴れず、ずっとよけられ続け、やっと手が届いたと思えば投げられ、倒され、それだけで実弥は力を使い果たし、昼休みが終わるころには立てなくなっていた。
 ギャラリーはブーイングの暴風をひとしきり吹かせ、教室へ戻って行った。
 駆け寄ってきた小芭内は心底心配している顔をしていた。実弥は泣きそうになったが堪えた。そして立てなくなった実弥を、縁壱がおぶって保健室へ運んだ。ずっと、ひとつも呼吸を乱さず表情を変えず、実弥の攻撃をよけ続けた縁壱。
 恥ずかしかったが、恥ずかしくなかった。おぶって運ばれた事は恥ずかしかったが、負けた事は恥ずかしくなかった。それくらいの違いを実弥は感じていた。
 実弥は大きなため息をついた。もう足が筋肉痛になってきている。
 こんな事では女なんか……。女かァ……。実弥は二つ目のため息をつく。
 あんなに「これだ!」と思わせたあの映画のDVDジャケットの写真が、実弥の頭の中ですっかり色あせていた。
 落ち着け俺ェ。頭をふるふると二、三度振る。とにかく腹に何か入れるんだ。
 実弥は売店に向かった。後十五分は開いているだろう。
 ひとけのない廊下を歩き、階段へ向かったところで、足を止めて壁から突き出た柱の陰に身を隠した。筋肉痛の足が悲鳴を上げ、呻きそうになるが、堪える。
 柱からそっと片目を出すように覗くと、階段を過ぎた廊下の隅に立っている縁壱が見えた。すぐそばに化学の教師がいる。いつも太鼓腹を揺らしてふうふういいながら歩いている教師だ。二年生にいたずらをされる事が多く、それをみた一年生も同じように彼にいたずらをしかけている。先日はこの教師の車の屋根に誰か飛び降りてへこませたようだ。
 近ェ。実弥は思った。教師が縁壱に詰め寄っているように見える。しかし、声を荒げて何か言う様子はなく、彼は何か囁いているように見える。
 なんか……おかしいなァ。実弥は縁壱がカバンを抱きしめているのをじっと見た。教師と自分の間の盾にしているように見える。少し視線を下げると、教師の太鼓腹が縁壱の腰の辺りに押し付けられていた。今実弥が隠れているような柱のでっぱりを背にして、縁壱は逃げる事ができずにいる。
 何か言いながら、化学教師が柱に片手を突いた。
 壁ドン!? 実弥は息をのんだ。教師はますます体を密着させようとして肘を曲げ、更につま先立ちになって耳元でまた何か言っている。
 実弥が柱から完全に顔を出し、首を伸ばして見てみると、縁壱は震えていた。はっとして目を落とすと、彼の足はつま先が少し浮いている。靴の中で指先を丸め、力を入れているのだと分かった。
 実弥はそういう足をたくさん見て来た。小さい頃の小芭内もそうだった。ろくに人と話すことができなかった彼は、そうやってぎゅっと足に力をいれて黙り込み、そのバネがはじけた時には「ブチ切れる」という事になり、とんでもない騒ぎが起こったものだった。
 しかし縁壱のバネがはじけることはないだろうという事も、実弥には分かった。縁壱のバネにかかる力は、小芭内のような怒りやストレスではなく、恐怖だ。実弥はそういう子どもたちも何度か見た。彼らは……。
 実弥は柱の影から飛び出した。
「うおぉおおおおいィ! ちゅぎくにじゃねぇかァ!」容赦なく太鼓腹の男を突き飛ばす。彼が片手に持っていたバインダーが廊下に落ちた。実弥はすかさずそれを踏む。背中で縁壱をガードし、化学教師を睨み付けた。ボコボコにしてやりたかったが、今は縁壱の方が大事だ。実弥の背中にも彼の震えが伝わってきている。踏まれたバインダーを放置し、大慌てで去っていく男を、見えなくなるまで実弥は睨み続けた。
 それから振り向くと、縁壱は何も見ていないような、面をかぶったような顔をして震え続けていた。スススススと細かく切れ切れになる息。本人なりにゆっくり息をしようとしているようだが、震えがひどい。
「座れるかァ?」実弥は小さな声で訊きながら、鞄を抱きしめる縁壱の腕をゆっくりゆるめ、それを抜き取って自分の肩に掛けた。そして片手でそっと縁壱の手を握り、もう片方の手で軽く肩を抱くようにした。彼の手の冷たさに、胸の中で三角波がどぶんとつき上がった。
「お兄ちゃん、呼ぶかァ? 昇降口で待ってるだろ?」
 実弥が言うと、縁壱は実弥の方を見た。なかなかうまく焦点が合わないようだったが、ようやく彼の顔を見、かぶりを振った。体の震えはようやく収まり、歩き出そうとする。実弥は手を添え、彼を支えた。
「行けるか? 俺も帰るから一緒に行こうや」教室にカバンを置いたままにしているが、実弥は構わず帰る事に決めた。財布はポケットの中にある。
「しし、し……ずがわ君」実弥に支えられながら縁壱は歩く。「足ふらふら、おんぶしようか?」
 何を言ってるんだァテメェ! 思いつつしかし、実弥はにやりと笑った。
「もうふらふらじゃねェ。俺はめちゃめちゃ回復が早ェんだァ」
「よかった」縁壱は目を細め、口をきゅっと結んだ。それが今作れる精いっぱいの笑顔だと、実弥には分かった。急に泣きそうになった。いい子だと抱きしめてやりたい衝動に駆られていたが、相手の体が自分より大きい事もあってそれは堪えた。
 昇降口までゆっくり歩いて行くと、校舎の壁に背を預けてコンクリートの地面に座っていた小芭内と巌勝が驚いて立ち上がった。実弥と縁壱が寄り添うように歩いてきたからだ。
 近付くにつれ、実弥から巌勝の表情がよく見えるようになる。最大限眉根を寄せ、縁壱の様子をどんな細かい事でもすくい取ろうとじっと見ている。二度程実弥の顔も見た。
 四人揃ったところで、実弥は巌勝を昇降口を挟んで反対側の壁際へ連れていき、自分が見た事を伝えた。
 先程の縁壱の様子が脳裏に焼き付いている。縁壱は「傷付いた子ども」なのだと実弥は思った。彼は施設でそういう子たちの兄のような存在になって、面倒を見てきた。中には性的虐待を受けた子どももいた。縁壱も昔そういう事があったのだろうか。
 実弥の話を聞いた巌勝は、奥歯をぎゅっと噛みしめ、いつもより少しえらのはったような顔になっている。目付きは相当険しい。
「あのな、継国……お兄ちゃん、俺ァ施設育ちで色んな子どもを見てきたからなんとなく、なんつーかァ……何かあったんだろーなみてェな事は分かるんだけど――」
「あった。なんかあった。何もない人生を送ってる人間なんかいないだろ? だから放っておいてくれ」巌勝は早口で言った。視線を少しずらして縁壱を見る。彼は小芭内と話をしている。随分落ち着いたようだ。
「ごめん」急にうつむき謝罪した巌勝の語尾が震えた。実弥は彼の背中の真ん中をばんばんと叩いた。巌勝は少し咳込む。
「詮索しようとかそんなんじゃァねーんだよォ。単なるお節介だァ、悪かった!」
 言ってから実弥も縁壱を少し眺めた。そして、
「これは俺にも関係あるから聞くんだけどなァ……あの、中学の時になァ、縁壱クンが先公を半殺しにしたってェの、マジな話かァ?」と訊いた。
「ああ、あれか」巌勝は運動場を見渡し、それから教員の駐車場を見る。体育館の壁際に、あの化学教師の赤い車があった。屋根がへこんだままだ。「『半殺し』はちょっと尾ひれ付いてるよね。あの先生は、縁壱の髪を切ろうとして鋏を持って追い回したんだ」
「おぉっとォ。それはそれは」あの教師がいかにもやりそうな事だと実弥は苦笑いした。
「あの長い髪には縁壱なりの理由がある。大切な髪なんだ。だから縁壱は髪を――」巌勝は目を細める。「守ろうとして……」
 言葉が途中でフェードアウトしたので、実弥は巌勝の視線を追った。
 校舎と体育館をつなぐ廊下を例の化学教師が歩いている。何事もなかったかのように。黒いデイパックを背負い、片手に靴を持っている。渡り廊下の途中で靴を下に置いた。
「あぁあああああああああっ、あいつかぁああああああああ!」
 巌勝が突然叫び、走り出した。声に飛び上がった実弥だったが、すぐに後を追った。速い。お兄ちゃんも身体能力高ェんかァー!
 巌勝は途中、駐車場のスペースを囲うように置かれたカラーコーンを一つ取り、抱えて走る。
 自分の車へ向かって歩いていた教師は、二人の生徒が走ってくるのを見て足を止めた。二人が誰であるか分かった途端、持っていた上履きのサンダルを放り出し、走って逃げだす。しかし俊足の実弥と、怒りのためか彼を上回る速さで走る巌勝から逃げ切れるものではない。巌勝の投げた赤と白の縞模様のカラーコーンが化学教師の尻に命中し、彼は足をもつれさせて転びそうになった。体勢を立て直したところへ巌勝の飛び蹴りが炸裂する。教師のデイパックが地面に落ちた。
 普段なら飛び蹴りをかますのは実弥の役どころだが、巌勝の中の「怒り火山」のすさまじい噴火ぶりに、彼は足を止めてしまった。巌勝が教師に馬乗りになって殴り始めてはっとして、再び走り出した。
 実弥が巌勝を教師から引き離しにかかった頃には彼の拳は血にまみれていた。実弥が羽交い絞めにしてもまた殴ろうとする巌勝だったが、駆け付けてきた縁壱の「兄上!」という叫び声を聞いてようやく我に返った。顔を巡らせて縁壱を見付けると、実弥に引っ張られるまま黙って化学教師の上を退き、そのまま縁壱の所へ歩いて行った。弟をぎゅっと抱きしめる。実際に泣いている訳ではないが、実弥には泣いている巌勝が見えた。そっと二人の肩に手を置いてからぽんぽんと叩く。
「おい」
 声に振り向くと、三人分の鞄を持った小芭内が立っていた。
「野球部のジャーマネが先生を呼びに行ったようだぞ」下がり眉で目をくりくりさせる。「どうする、ずらかるなら今が最終のタイミングだぞ」
「ずらかろう」実弥は即答した。当たり前だ。呻き声を上げる化学教師の太鼓腹に一発蹴りを入れてから、すたすた歩きだす。
「俺も帰りたい」続く縁壱。血の汚れに構わず、巌勝の手をしっかり握って、引っ張るようにして一緒に進む。
「鞄引き取れよ継国兄弟!」小芭内も小走りで後に続いた。

 

 夜、寮のリビングのソファで、実弥はカップラーメンを食べていた。寮で出される夕食もしっかり食べたが、今日は妙に空腹を感じて買いためているインスタント食品の中から選んで作ったのだ。作るという程のものでもないが。同室の小芭内は、勝手に持ち込んだ「相棒」の蛇鏑丸の餌を補給すると言って、夜の裏山へ虫を取りに行った。大して取れずに帰ってくるだろう。
 夕食の後、実弥たちの担任の宇髄天元と、小芭内たちの担任の煉獄杏寿郎がやって来た。巌勝が宇髄に電話をしたため、話を聞きに来たらしい。二人の教師と継国兄弟は、寮監の部屋で話しをしていた。
「なぁんでミチさんは煉獄じゃなくてうずてんにかけたんだァ?」実弥はひとりごちる。
「どうやら昔馴染みらしいぞ」
 声に振り向くと、やはり手ぶらの小芭内がいた。
「昔馴染み」
「ああ。子どもの頃にも助けられたからと、ミチが言っていた」部屋の外に出る時には必ず着けているマスクが少しずれ、小芭内はそれをつまんでひっぱり上げた。
「ふーん、まぁ、色々あるわなァ、金持ちの御曹司だってなァ」何があったのか、何となく分かる気がした。小芭内は巌勝から双子の過去の話をある程度聞いているようだったが、実弥は深追いはしなかった。
 縁壱のバネを思い出す。恐怖で縮み切ったバネは、実弥が通りかからねば折れてしまっただろう。バネを失った者の心はつぶれてしまう。偶然とはいえ、実弥はあの時売店へ向かってよかったと思った。
 黙ってうなずきながら空になったカップに箸を突っ込み、テーブルに置く。勢いをつけて、カコンと音を立てた。
 そこへキャスターペールを引いた寮長が通りかかった。
「匂いの元はここか」テーブルの上のカップを見て言った。彼は冨岡義勇、二年生である。
 声を掛けられ、実弥は一瞬ぴっと背筋を伸ばしたが、小芭内の大きな目がじっと見ている事に気付き、姿勢を崩して背もたれにもたれて足を逆V字にして伸ばした。
「夕食では、ご飯は何度もお代わりできるぞ。一年生も遠慮することはない」仮面をかぶっているかのように感情の動きの現れない顔で、義勇は言った。こんなところにいてはダメだろう、お前はテレビの向こう側にいるべき人間ではないのかという程整った美しい顔をしている。
「あー、はァ、はいィ、三杯程頂きましたァ」
「そうか。まぁ、直ぐに腹が減るというのも分かるが」
「モミ岡先輩、ゴミ箱持って前に立たれると臭いんだが」小芭内が言い、実弥は目をむいて彼を見た。
「ああ、すまない。カップ麺とごみの匂いが混ざってしまうと最悪だな」義勇は少し目を細め、笑った。そして、キャスターペールを引いて裏の出入り口へ向かって去って行った。
 実弥と小芭内は、しばらくその後ろ姿を見送っていた。義勇の着ているのは中学の時の体操服らしく、背中にゼッケンが付いている。
「冨岡先輩、毎回ごみ当番やってね?」実弥がぼそっと言った。
「割り当てても誰もやらないからな」
「俺はやるぞ? 多分、ミチさんとその弟もやるんじゃね? はなっから期待されてねェんじゃねェか?」
「好きなのかもしれないぞ、あのゴミ箱をゴロゴロ引っ張って歩くのが。ペットだと思ってるのかもしれない」
「小芭内、お前なァ――」
「一匹狼はもうやめたのか」
 小芭内の視線をよけるように実弥は立ち上がった。カップを持って台所へ行き、水でざっと洗う。小芭内が、実弥を追いかけて背後に立ち
「やめたのか」と繰り返した。
「あー! うるせェなァ。やめたよやめた! それどころか俺はァ、学校行ってる間クラスではァ、よりいっちゃんの事は俺に任せろと……任せろとォ、まぁ、ミチさんに言ってやろうとさえ思ってるんだァ」
 鼻からフンと息を吹き出し、小芭内が笑った。
「なんだァ」
「いや、それでいいだろう、始めからそれでいいだろう不死川実弥」
「まぁなァ。お前は分かってたんだろうよォ」
「何年一緒にいると思う」
「これからはァ――」カップをつぶして燃やせないゴミと書かれたゴミ箱に捨てる。「テメェらの面倒をみつつ頂点を目指すんだァ」
「まだ頂点を目指すのか」小芭内は目を丸くした。
「王でないとなァ、本物の女を手に入れる事は難しいんだァ」
「王になる方が難しいと思うがな」腕組みをする。「それより実弥、お前ヤケに女にこだわるな」
「うるせェな、俺には重要な事なんだァ」
「うちは事実上男子校だが?」
 小芭内が言うと、実弥は眼球が乾き切ってしまうんじゃないかという程大きく目を見開いて宙を見つめた。
 閉め方が緩い蛇口から、ぽったんぽったんと水滴が流しに落ちる。小芭内は実弥の横から手を伸ばし、レバーを叩くようにして水栓を閉めた。

 

次作:さよなら銀河 

前作:数えても数えても、悲しみは余るけど

二次創作INDEX【小説】