氷上のデブ

思いついた、試した、いつまで続くか分からない。

さよなら銀河

 俺の母親は、あそこにはいない。
 自転車を止め、伊黒小芭内は空を見上げた。少しかすんでいるが、ぽつぽつと星が見える。
 夜だから、田舎の道はたいてい真っ暗だ。しかし今、小芭内が通っている道は幅の狭い川を挟んで交通量の多い車道があるため、車のヘッドライトと街灯のおこぼれにあずかり、わずかに明るい。「交通量の多い車道」といっても田舎の事だから、朝夕の通勤時間帯だけ田んぼの中の交差点に向かって車列ができる程度のものだ。夜の七時にもなれば、車も時折通るだけになるし、九時を過ぎれば交差点の信号も点滅信号に変わる。
 俺の母親は、あそこにはいない。星になっていないから。あの人は生きている。
 すぐそこの交差点で信号が赤に変わり、車が五台溜まった。小芭内の姿は前から、後ろから柔らかく照らされる。
 もしかしたら死んでいるかもしれない。が、俺は生きていると思う。九十九パーセント生きていると思う。生み落としてすぐ俺を捨てようと決断したその「生きる能力の高さ」があるのだ。そう簡単に死ぬ女ではないはずだ。
 小芭内は、生まれてすぐ養護施設の玄関に置き去りにされていた。彼が小学三年生の時に上の子から聞かされた話では、何も着せられず、何にもくるまれず、へその緒もついたままだったという。
 それまで両親が貧乏になりすぎたから自分を手放したのだと勝手に思い込んでいた小芭内は、相当なショックを受けたが何も言わなかった。先生にも、上の子にも、唯一の親友不死川実弥にも。実弥には、聞かされた事を淡々と話しただけだ。
 俺は平気だ。まったく平気だ。あの時、あの話を聞いて分かったから。
 信号が変わって車が動き出した。すぐにすべての車が通過し終え、車道を照らすのはぽつぽつと立つ街灯と信号の光だけになり、小芭内のいる道は殆ど真っ暗になってしまった。
 俺はここにいるが、それは殆ど殻みたいなものだ。俺の本体はあの星のところにある。星の群れの中に隠れている。それを見付けない限り、俺は完全な俺にはなれない。だからなんら悲しい事もない。心も半分しかないから何一つ不都合な事はない。
 空を見上げたままの小芭内の耳に、じゃりじゃりと土を踏む音が聞こえてきた。一緒にあかつき寮へ向かっていた同級の継国縁壱が、小芭内が止まっているのに気付き、少し先から自転車を押して引き返してきたのだ。
「いぐちー、力尽きた?」
 小芭内はかぶりを振る。小芭内のニックネームの一つである「イグッティ」を、噛まずに言う事がなかなかできず、縁壱は勝手に「いぐちー」というニックネームを作ってしまった。
「力尽きるなどあり得ない。そこのコンビニへ行っただけだぞ」小芭内は縁壱の顔を見る。暗さに慣れた目にはぼんやりと表情が見える。感情の読み取れぬ顔をしている事が多い縁壱だが、今はにんまりと笑っていた。
 二人は寮の最寄りのコンビニエンスストアまで飲み物や菓子を買いに行き、今は帰途についている。寮では寮生たちは、大きな風呂で二班に分かれて入浴するが、今日は小芭内と縁壱が同じ先行の班であり、後から実弥と、縁壱の双子の兄巌勝が入浴している。その間に買い出しに行って来ようと縁壱が言い出したのだ。
 高校へ入るまで実弥以外の人間と殆ど心を通わせる事がなかった小芭内だが、春から急に、そういう相手が実弥を入れて三人に増えた。おそるおそる付き合い始め、それから楽しい生活を送れていると思っていたが、ひと月経とうという今、彼は急に不安になっていた。
 本当に信用していていいのだろうか?
 実弥はともかく、継国兄弟に対してそう思う事がある。彼らが信用ならない人間だから不安になるのではない。
 あんなに純粋に生きている双子に、俺は信用されてよい人間ではない。俺は、主要パーツを宇宙のどこかへ置き去りにしているできそこないの人間だ。それに気付いた時、あの双子はどうするのだろう。
 一度心を通わせた人間が自分を見捨て、離れていく事が小芭内には怖くてならなかった。
「俺はしばらくこの土手で星を見てから帰る。よりちは先に帰っててくれ」小芭内は言った。
「ダメだと思う! 危ないと思う!」縁壱は驚いて少し大きな声になる。
「大丈夫だ。寮、すぐそこだぞ」
「距離の問題じゃないよ。川の草ぼーぼーなってるとことか、山とか、鬼が出るって注意されたじゃん」小芭内の腕をつかむ。
 縁壱の言う「鬼」とは、読者諸君のよく知る『鬼滅の刃』に出てくる鬼とは少し違う。本作に出てくる鬼は、薬品会社が不法投棄した廃棄物から出た化学物質を摂取した動物が変化してしまったものである。動物や人を食うので危険視されている。寮の裏山を越えたところにある、山を削って作られた平地に廃棄物が埋められたらしく、この裏山を中心に、夜に鬼が出ると、寮では注意を呼びかけているのだ。
「星見るなら寮の屋上でもいいと思う。いぐちーのこだわりがあるなら分からないけど。でもここはダメだと思う。鬼は首を落とさないと死なないから、鬼狩りじゃないと駆除できないってプリントに書いてあったよ」
 小芭内はふっと息をもらして笑った。その鬼狩りの姿を、彼は一度も見た事がない。縁壱だってそうだろう。しかし、
「分かった。よりちがそこまで言うなら一緒に帰ってやってもいい」と言った。
「屋上で星を見る?」縁壱は、小芭内が自転車をこぎ出すのを待ち、見届けてから自分もこぎ出す。
「星はもういい。寒いから部屋で暖まろう」未舗装の道を走り、振動で声を震わせながら自転車をこぐ。縁壱が後ろで調子っぱずれな歌を歌いだす。調子っぱずれだが、自作の歌なのでもしかするとそういうメロディなのかもしれないなどと考えて、小芭内はまた笑みをもらした。

 

「ちょ、実弥サン、王になるのはもうやめたの? どうでもいいんですか?」
 巌勝に声をかけられるが、実弥はスマートフォンから目を離さない。指は忙しく動き、メッセージを入力している。SNSで女子高生とやりとりをしているのだ。
 実弥と巌勝は、一年生四人組と寮長の二年生冨岡義勇が「継国部屋」と呼ぶ双子の部屋にいる。入浴を終えて、巌勝のベッドに並んで座り、二人ともスマートフォンをいじっていた。巌勝はSNSではなく、今日撮った縁壱の写真をオンラインストレージに移動させて整理している。
 実弥の真剣な表情を見て巌勝は更に声をかけた。
「なんだそれ、その表情は十分王様っぽいけどね、実弥、女さえ作ればこっちのものみたいな態度はどうなんだろう。絶対気持ち入ってないよね?」
「うっせェなァ! 弟に惚れてるよりよっぽどマトモだろォがァ!」
「『惚れてる』とはなんだ! 単なる兄弟愛だろ、気持ち悪い事言うな!」
「弟のために教師の前歯を全部折るとか普通じゃねェだろ」
「普通じゃないのはあの男だろう。俺はいたって普通だ」
「なァ、この女の質問の意味が全く分かんねェ。ミチ、近親相姦発言は謝るからよォ、俺の代わりにいい返事してくんねェかァ?」
「意思疎通できない女と付き合うとか無理だろバカ」
「『バカ』とはなんだァ!」
「なぁ」巌勝は少し改まった様子で実弥の顔を見た。「小芭内から聞いたんだけど、実弥、中学の時は女に目もくれなかったって。二人とも『草食系男子』なんだって――」
「それは小芭内の主観であって、俺は常に肉を欲していたァ」
 いかにも嘘っぽい。巌勝は小さくため息をついた。
「それよりこの女と明日会うんだよ! こいつ近く住んでてなァ、会いに来るつってんだよ、返事してくれよミチぃ、お前中学ん時モテ男だったんだろ?」
「知るか。だいたい女の子、男子寮に来させるなよお前――あっ!」巌勝は寮の自転車置き場の物音を聞きつけ、がらりと窓を開けて身を乗り出した。「縁壱! 寒かったろ! 小芭内も! 早く上がっておいで!」
 実弥は目の前に突き出された巌勝の尻をべしっと叩いた。

 

 翌朝は学校が休みの日で、小芭内は外から聞こえてくる人の声で目を覚ました。「相棒」鏑丸をケースに入れてから洗面所まで行って歯磨きや洗顔をし、部屋に戻って身支度を整え、食堂まで行く。いつも通り、部屋を出る時のマスクも着けている。朝食の時刻をとうに過ぎているため、食堂には三人の二年生がそれぞれスマートフォンを見ながら話をしている以外、誰もいなかった。時刻に遅れた寮生の食事はラップをかけられ、厨房との仕切りになっているカウンターの上に置かれている。普段から小食である小芭内はあまり食べる気にならなかったが、寮生の食事を担当しているおばさんたちの顔を思い浮かべると放置する訳にもいかず、自分のトレイを取った。話をしている二年生とできるだけ離れた席に着き、食べ始める。
 外から聞こえる声が縁壱のものである事は目が覚めてすぐに分かっていた。どうやら前庭の草むしりをしているようだ。話をしている相手は恐らく寮長であろうと、小芭内は見当を付けた。
 廊下にドアが閉まる音が響き、話し声が聞こえてきた。近付いてくる。
「あー、小芭内ィ、やっと起きたかァ、死んでるかと思って心配してたぞォ」
 食堂に入ってきた実弥が小芭内の隣に腰を下ろす。
「何言ってんだか。自分の心配ばっかしてたくせに」一緒にやってきた巌勝は向かい側に座った。小芭内はちらりと巌勝を見る。隣の実弥を見るには顔を横に向けねばならず、面倒だったので無視した。不機嫌そうな表情とは裏腹に、小芭内は彼らがやってきた事を喜んでいた。食べきれなそうな朝食をどうしたものかと思っていたからだ。皆と同じタイミングで食事をとれると、たいてい仲間が残したものを食べてくれる。実弥は付き合いも長いので、そろそろ満腹になったようだと察するのが上手い。今も勝手に卵焼きの残ったものをつまんで口に放り込んでいる。
「小芭内、実弥が女を呼んだよ、この寮に」巌勝が身を乗り出す。彼の前に、小芭内はそっと茎わかめの入った小鉢を置いた。
「えっ、小芭内これ好物じゃなかったっけ? 茎わかめ」
「ミチィ、まだまだ甘いなァ、小芭内の好物はとろろ昆布だァ」
 何が甘いんだか。小芭内はくすっと笑った。巌勝はカウンターの上に立ててある箸を取ってきて、茎わかめを食べる。
 その時、外で女の子の声がした。
「来たぞ実弥」巌勝が言い、まだ少し残っている小芭内の朝食をそのままにして、三人で玄関の方へ移動した。下駄箱の影からガラスの玄関ドアを通して外を覗く。
 門の前に女子高生が立っていた。精いっぱいおしゃれをしている。しゃがんで草むしりをしていた義勇と縁壱が立ち上がって彼女の方を見ていた。義勇は相変わらず中学時代の体操服を着ていた。ジャージの上下に、これまた中学の時の学校指定のヤッケ。縁壱の方はいつもの和服である。たすき掛けをし、袴と長着の裾を、袴の紐に挟み込んでいる。むき出しになった膝下が寒そうだが、本人はそう寒さを感じていないようだ。
 縁壱の長い髪と痣、服装、そして背の高さに少したじろいだ女子高生だったが、すぐに
「あの、不死川君はいますか」と言った。が、言い終わるまでに、彼女の目が義勇の顔に吸い寄せられてそこから離れられなくなるのを、縁壱と、玄関ドアの向こうの三人は見た。
 義勇は、こんな田舎、しかも掃き溜め高校の男子寮にいる事が信じられないような美しい容姿をしている。長く濃いまつ毛に縁どられた切れ長の大きな目、その瞳は深く青く、魔法の水をたたえた井戸の水面のようだった。ボーンチャイナのような肌の美しさを際立たせる黒髪は、襟足が短めに切られているが、くせがあり、あちこち跳ねて二度見級の美しい顔に愛嬌を添えている。
「あー、あらー」小さな声で縁壱が言った。昨夜巌勝から、実弥が付き合うかもしれない女子高生が訪ねてくることを聞いていたのだ。
「不死川なら――」義勇が言いかけると、
「いえっ、あのっ、あのっ、お名前聞かせてもらっていいですかっ!」女子高生は声を上ずらせて言い、一歩前へ出た。
 義勇は黙っている。面食らっているのかもしれないが、表情は変えなかった。
「あの、あたし、あの、産屋敷学園の一年生なんですけどっ――」女子高生は自己紹介を始めた。
 縁壱は、下駄箱の後ろから仲間の三人が前庭を覗いている事を知っていたようで、そちらを振り向いた。にんまり笑っている。実弥が舌打ちをする間に、袴紐に挟んだ裾を外しながら下駄箱の所まで跳ねるように走った。
「すごいね!」三人にくっつくようにして下駄箱の後ろに隠れながら縁壱は言った。「初めてみたね! あんなに鮮やかに好きなる様、本当にあるんだね!」
「あるかもしれないがあの女はアホだぞ」小芭内が言い放つ。
「実弥に会いにきたはずなのにね」
「うっせェよりち、あんな女、こっちから願い下げだァ! だから女は嫌いなんだァ!」実弥が吼え、巌勝が「耳元で唸るな」と文句を言った。
 一方義勇は律義に女子高生の長ったらしい自己紹介を聞いていたが、ふと彼女の足に巻かれた包帯に目を落とした。血がにじんでいる。
「怪我をしたのか? まだ出血しているんじゃないのか」しゃがんで足を見る。青く内出血している部分が包帯からはみ出している。義勇は女子高生を見上げ、
「どうしたのだ」と訊いた。
 彼女は義勇の気持ちが自分に向いていると思い込み、盛大に赤面しながら何かに噛まれたのだと話した。昨夜、川沿いを自転車で走っていた時、何かにぶつかったと思ったのだが、家に帰ってみると噛まれたような傷になっていたと言う。
 義勇は立ち上がり、タクシーを呼ぶからすぐに病院へ行こう、休日診てくれる所で知っている診療所があるからと言った。

 

「実弥、大丈夫なのかお前」
 見るからに意気消沈している実弥に、小芭内が言った。
 四人は「継国部屋」にいる。実弥は巌勝のベッドに寝そべり、巌勝はデスクの椅子に座り、小芭内と縁壱は縁壱のベッドの上でお互い寄りかかってくつろいでいた。
 実弥について、小芭内には入寮直後から感じている事があった。それが確かなものなのかどうか半信半疑であったので口には出さず、継国兄弟にも言わずにいたのだが、今は確かだと思えた。
「大丈夫だ小芭内ィ。あんな女、もうどうでもいい」実弥が片手をひらひらさせる。
「女がどうでもいい事はここの全員が分かっていると思うがな、俺が言いたいのはそういう事じゃない」
 継国兄弟が少し驚いた顔をして小芭内を見た。
「あの女にモミ岡をかっさらわれたんじゃないかって事でお前が落ち込んでいるのが気がかりなんだ俺は」
「ほう」縁壱が声を上げた。実弥は歯を食いしばっている。
「大丈夫だよ実弥、冨岡先輩はあの人の傷にしか興味ない感じだった」
「そういう問題じゃない、縁壱」と巌勝。「好きな人がどうでもいい女とタクシーに乗って病院へ連れて行ってもらって怪我を診てもらってっていう、この一連の世話を焼かれる様がさ、もう、なんてか、嫉妬、そう、嫉妬嫉妬嫉妬なんだよ。な、実弥」
「やかましいぃぃぃぃぃいい! 勝手に嫉妬とか……嫉妬とかァ……言うなァ……」実弥の言葉は大きくデクレッシェンドがかかり、最後は聞き取れないほどだった。
「やはりお前、ボビ岡の事好きなんだな」小芭内が言った。
 実弥は黙っている。縁壱は目をまん丸にして、すぅ……と静かに長く息を吸った。
「入寮して、寮長の挨拶であいつを初めて見たその時、お前さっきの女みたいになっていたからな。俺はまさかと思って今まで黙っていたが、今日はっきりした」
「実弥」巌勝が椅子の背を爪で何度か叩いた。「それならなんで訳わかんない女子高生とお近づきになったりとか、付き合おうとか、てか、『本物の女』を手に入れるだとか言ってたんだ? そもそも女とか必要ないんじゃん、本命いるなら」
「うっるっせェええ!」実弥は跳ね起きた。ベッドの上で胡坐をかくが、すぐに正座になって首を突き出し、皆を見回した。
「お前らなぁ! お前ら、男から告白された事あるかァ!」
 小芭内も巌勝も黙っている。が、縁壱は
「あるよ!」と言った。巌勝が目をむいて縁壱を見た。
「あるっていつ、いつだ!」
「兄上、落ち着いて」縁壱は巌勝の方へ掌を下へ向けて手を出し、三度押し下げた。「中学二年の時だよ」
 実弥はぽかんと口を開けていたが、少し低い声で
「それでどうしたんだ、よりち」と訊いた。
「どうっていうか、そんな事初めてっていうかそれは男だからじゃなくて、そういう事を言われるのが初めてだから……」
「だから?」
「走って逃げた」
 縁壱以外の全員が目をむいた。
「でも! それはずっと結構反省していたから卒業式の時に謝ったよ!」
「よりち」小芭内はため息をついた。「それはまた、忘れかけた苦い思い出をよみがえらせるだけだったんじゃないか」
 縁壱はしばらく小芭内の顔を見ていたが、ぱっと実弥の方を見て、
「だけど実弥、他の人の事は俺、分からない、でも、好きって言われてもただ困っただけだよ。それは女の人に言われた時も同じだよ」と言った。
「縁壱、お前、女にも好きって言われた事があるのか」巌勝は椅子から立ち上がっていた。小芭内は天井を見上げる。どうしようもない兄だ。
「兄上、俺の話は関係ないと思う。実弥の話だから」
 巌勝は不機嫌な顔のまま椅子に座った。
「よりちィ。よりちが言いたい事は分かる」実弥はうつむいてシーツのしわを見つめた。「ありがたいとも思う。でもなァ」顔を上げる。
「でも、俺はァ、俺は男を好きになるような人間ではないんだァ。そんな事、一度もなかった。そもそも誰か好きになった事もなかったァ。だからこれは気の迷いなんだ」
「実弥には、実弥が何者か分かってるって事?」
 縁壱がした質問に、小芭内はどきりとした。縁壱たちに自分が何者か知られる前に、宇宙にパーツを拾いに行かねばならない事を思い出したのだ。頭を振って、その思いを振り払う。
 実弥はまたシーツのしわを見つめていた。縁壱は続ける。
「自分が何者って、大人だってあんまり知らないんじゃないかな。だって、前にうずてん先生が言っていた。自分の正体は死ぬ時に見るんだって」
 実弥は口を尖らせる。
「実弥の正体なんて今は結構どうでもいいよ! そんなの気にして冨岡先輩を他の誰かに取られたら、俺は実弥が勿体ない」
 縁壱が言うと、実弥はばっと顔を上げ、
「よりちィ!」と叫びながらジャンプしてベッドを移り、縁壱に抱き付いた。「俺はァ……混乱してるんだァ! もう無理矢理女作るのはやめるけどよォ、分かんねェんだ、分かるけど分かんねェんだ」
 巌勝が縁壱から実弥を引きはがしながら、
「まぁ、自然にしてたらその内分かるんじゃないの?」と面倒くさそうに言う。
「『王』だの『本物の女』だの言っているから混乱するんだろう馬鹿者」小芭内が実弥を睨む。そうしながら彼は、なぜか実弥がうらやましかった。実弥だけではない。縁壱の事も巌勝の事も羨ましかった。自分だけ少し離れた所に浮いているような感覚があったのだ。
 完全な俺にしなくては。早くパーツを手に入れなければ。

 

 その夜、小芭内と実弥は田んぼに挟まれた暗い道を歩いていた。道は丁字の交差点から一直線に五百メートルほど伸びて橋まで続いていた。交差点を過ぎると橋に突き当たるまで二つしか街灯はない。
 道の中ほどにある小さな工場の壁際に自動販売機があり、その明かりが、十五メートルほど前を歩く寮長の姿を浮かび上がらせた。
 寮長冨岡義勇は、今夜は中学時代の体操服は着ていない。
「歩くの速ェなァ」実弥がぼそっと言葉を落とした。足音を立てないように早足でついていく。義勇や実弥より十センチ以上背の低い小芭内は殆ど走っている。
 入浴後すぐ自室の窓から空を眺めていた小芭内は、義勇が外へ出て行くのを目撃した。自転車置き場を回り込んで外壁のフェンスを軽く飛び越え、外へ出て行ったのだ。午後八時過ぎの事だった。
 そのこっそり出て行く様もさることながら、服装も小芭内の注意を引いた。
 黒ずくめ。中学時代の青ジャージ姿を見慣れている小芭内は驚いたし、なぜ出かけるのか理由をあれこれ想像してしまった。コンビニエンスストアに行くのに学校ジャージはダメかと思うにしても、黒ずくめは少し義勇のイメージとは違うなと思ったので、彼は実弥に話してみた。
 実弥はすぐ尾行すると立ち上がった。
「もしかして今夜俺たちは寮長のとんでもない裏の顔を知る事になるかもしれんぞ」少し息をはずませながら小芭内が小さな声で言う。
「恐ろしい事言うなァ」
 丁字路の街灯の下を通った時、二人は義勇が着ているのは黒のつなぎである事を確認した。そして自動販売機の明かりに照らされた時には、二人が木刀だと思っていた、義勇がウエストバッグのストラップに挿して携えている物が模造刀であると確認できた。無論、二人がそう思ったというだけであるが。
 義勇のつなぎの背中に染め抜かれた白い「滅」という字を見ながら、実弥と小芭内はついていく。人っ子一人いない真っすぐな道であるから、二人とも、義勇は気付いているかもしれないと思っていた。無口で細かい事を言わないし、たまに茶目っ気を見せる事もある寮長なので、目的地に着いた時に笑いながら「ずっと気付いていたぞ」と言うかもしれない。
 橋のたもとまで来ると、義勇は付け根の所から河原へ降りた。
「あっちから行こう」実弥は義勇が降りたのと逆の土手を降りる。小芭内も続いた。
「どこ行った?」
 二人は義勇を見失った。河原はあまりに暗い。橋とその付近には街灯があるが、土手に生える木や茂み、河原の低さで光があまり届かない。橋の下から離れるとすぐに真っ暗になっている。街灯の光が少し目に入る分、光が届かぬ場所は真っ暗に見えるのだ。
「まずいな、まったく見えねェ」実弥が目を細める。
「今日はここまでか。一体どこへ行くつもりだったんだボビ岡」
 小芭内が言った時、背後の茂みが音を立てた。
 明らかに動物の立てた音だった。
 二人は一瞬、硬直した。そいつの鼻息が聞こえる。長く吐き、短く何度も吸う。
 俺たちの匂いを嗅いでいる。小芭内はぞっとした。後頭部の髪が逆立つのを感じる。
 実弥はスマートフォンを取り出し、背面のLEDライトを点灯させた。音のした方へ明かりを向ける。動物なら明かりを嫌がるかと思っての事だったが、明りに照らされたそいつを見た二人は、反射的に逃げ出した。
 鬼だった。多分、である。二人は鬼を見た事がない。しかし、見た事もない形、長く伸びた牙、ぎらりと光る目、体中にあるこぶは、そいつが鬼であると二人に即断させるのに十分な材料だった。風向きが変わるとぞっとするような生臭さが鼻孔に侵入してくる。
 小芭内は昨夜縁壱が鬼について言っていた事を思い出していた。
 鬼にでくわすなんて、選ばれしアンラッキーな輩だと思っていたが、今俺がそういう人間になっているのか。
 河原は砂が細かく地面が柔らかい。足を取られてスピードも出ない。
 ヤバすぎる。
「実弥! あんま暗い方逃げない方がいい!」小芭内は叫んだ。浅い川をジャンプして渡る。少し前で実弥もそうしていた。もしかすると鬼は水が怖いかもしれない。
 しかしそういう事もなく、鬼は水音を立てながら川を渡り、二人に向かってきた。
「くっそォなんだァ! 来るなウンコ!」叫びながら実弥は石を投げたが、大きすぎて上手くコントロールできず、石は鬼の後足に当たって地面に落ちた。鬼はギャアともグワァともつかぬ声を上げる。同じような声が別の所からして、小芭内は目を見開いた。暗くて見えないが、他にも鬼がいる。
「痛ってェ! 爪が取れたかもしんねェ!」実弥が手を振る。「血が出たァ」
 鬼が実弥の方へ向かうのが見える。暗さに目が慣れてきたのだ。少し離れた街灯の明かりと月明りがあるため、鬼の数も二体であると分かった。小芭内は野球のボール大の石を三個ほど見付けて拾い、鬼の頭に狙いをつけ、投げる。必死だった。鬼に飛びかかられて茂みに倒れ込んだ実弥は、そこで折れた木の枝を見付け、鬼たちをめった打ちにしている。噛みつかれながらも絶対に下がらず、枝を振り回し、蹴りを繰り出し、戦っていた。枝で打たれて方向を変える鬼の前へ回って
「どこ見てんだ相手は俺だ!」と叫ぶ。
 小芭内は、実弥が小芭内を守ろうとしているのだと気付いた。
「馬鹿か実弥! 分散させろ! 俺も戦える!」
「大丈夫だ! もう終わりだ! 首に棒をぶっさしてやった!」
 実弥は二体の鬼を倒した。鬼たちは悪臭を放ちながら、砂の上に横たわっている。
「まじか、実弥すごいな」小芭内が、駆け寄ってきた実弥の腕を触ると、長袖のスウェットが鬼によって引き裂かれ、肌に直接手が触れた。ぬるっとする。出血しているようだった。
「なぁ、ボビ岡先輩、大丈夫なんだろうか」小芭内が義勇が消えた方向を見て言った。実弥もそちらを見る。
「一人で歩いて行ったよな。もし鬼に囲まれてたら……小芭内ィ、お前、帰れェ。俺は先輩を見に行く。あっち、探してみる」
「馬鹿な事を言うな! 他にもいるかもしれないのに、一人で――」
 二人はまた、鬼の音を聞いた。鼻息、ひきずるような足音、川を渡る水の音、そして強い悪臭。
 振り向くと、鬼は増えていた。先ほど実弥が倒した鬼もまた立ち上がっている。
 なぜ……! そうだ、鬼は首を落とさないと……。小芭内は手が痺れてくるのを感じていた。触らなくとも、氷のように冷たくなっているのは分かる。目視できるだけでも鬼は七体。冷え切っていた頭の中で、急に爆発が起こった。それは実弥も同じだった。
 実弥は先ほどの枝を再び手にし、叫び声を上げて鬼の中へ突っ込んで行く。
 小芭内は何も武器がなかったが、川の中でふらふらしている二体を相手に拳と蹴りで戦った。この二体は酩酊状態の人間のようにふらふらしており、蹴られるとすぐに水の中へ倒れ込む。しかししばらくすると起き上がってきた。何度も。やはり、首を切り落とさないと死なないのだ。
 のろのろ動く鬼と戦う合間に実弥を見ると、彼は五体の鬼に襲われていた。
「やめろ! お前ら! 食うなら俺を食え! そいつは激マズだ!」
 今まで出した事がないような大声で、小芭内は叫んだ。
 実弥が、実弥が、実弥が鬼に食われてしまう、実弥が死んでしまう!
「やめてくれ! 頼むからやめてくれ! マジで俺を食え!」
 その時、目の端にチカチカと白い光が映り、小芭内はぱっと川下を見た。
 ライトだった。
 近付くにつれ、それがヘッドライトであることが分かった。ヘッドライトを着けた人間が走ってきている。
「助けてくれ! 鬼だ! 鬼だ! 助けてくれ! 実弥を助けてくれ!」最後には声が裏返り、喉から血が出ているのではないかという気がしたが、小芭内は叫び続けた。
 ヘッドライトが河原を照らし、倒れた実弥に五体の鬼が群がっているのが見えた。小芭内の言葉は崩れ、ただの絶叫に変わる。
「伊黒! 大丈夫だ俺に任せろ!」
 声に、小芭内ははっと我に返った。ヘッドライトを着けた義勇が河原を走ってきている。自分たちが足を取られ満足に走れなかった河原を、寮長は物凄いスピードで走ってきていた。
「伏せろ! 不死川も立つな! 絶対に立つな!」
 言われるまま河原にうずくまり、肩越しに義勇の方を見る。彼は腰の刀に手をやりながら地面を蹴った。高く飛ばず、地面とほぼ平行に飛ぶ。鳥のようだった。そんな飛び方をする人間を、小芭内は今まで見た事がなかった。
 義勇の腰からきらりと光が飛び出し、それは移動しながら消えたり光ったりを高速で繰り返し、消えた。その間ずっと風が吹いているように、小芭内は感じた。滝の傍に立った時の風を思い出した。水が流れていたのか? 小芭内が思った時、かち、と音がして、その後どさどさと鬼たちが倒れていった。皆、首が落とされていた。義勇が腰にさしていたのは模造刀ではなく、真剣だったのだ。
「もう大丈夫だ」
 義勇が言い、小芭内は膝をついたまま身を起こした。
「不死川、お前、稀血なんだな」義勇は実弥の隣に膝をついてウエストバッグの中からペン型の注射器を取り出した。実弥は呆然と尻をついて座り、義勇を見ている。
「鬼に噛まれているから、血清を打って病院へ行こう」
「先輩ィ」
「うん?」
「死ぬかと思った、俺ェ」
「ああ、危なかったな」義勇は小さく微笑んだ。
 小芭内は立って二人の傍へ行った。義勇がペットボトルの水を使って実弥の傷を洗い、ガーゼのようなタオルで拭きとっている。止血帯を使うほど傷は深くないようだった。実弥が義勇に支えられたまま小芭内を見てふにゃりと笑ったが、小芭内は固い表情のまま突っ立っていた。
「随分果敢に戦ったな、二人とも」手を動かしながら義勇は言った。ウエストバッグのポケットから小さく折りたたまれたヤッケを出し、広げる。それを、「あまり暖かくもないだろうが、ないよりはマシだろう」と言いながら実弥に着せた。
「先輩ィ、俺ェ、しょんべんチビったかもしんねェ」実弥が小さな声で言う。
「仕方ない。あんな事になれば俺でもチビる」義勇はポケットからスマートフォンを出し、タクシーを呼んだ。スマートフォンをしまってから、
「今朝来た女の子も鬼に噛まれていてな。放っておけば鬼化してしまうから病院へ連れて行ったんだ」と、今朝の事を話した。
「鬼に……」実弥は小さな声で繰り返す。
「あの子がこの辺りで噛まれたと言うから狩りに来たんだが――」義勇は実弥と小芭内を交互に見る。「まさかお前たちがついてきていたとはな。探偵の素質があるんじゃないか。それと鬼狩りも」口元を小さくほころばせた。地面に置いたヘッドライトの明かりが浮かび上がらせる義勇の笑顔は少し艶めかしくみえた。
「先輩ィ……鬼狩りなんかァ。さっきめちゃめちゃカッコよかったァ」実弥は相変わらず少し放心状態のままだ。
「そうでもない。鬼狩りはみんなこんなものだ。この辺りの担当は今年から俺一人になってしまったが……まぁ、また育てなくてはならないな」
 言ってから義勇は小芭内をじっと見た。
「伊黒、大丈夫か」
 小芭内ははっとして、平気だと言った。彼はずっと実弥が自分の体を鬼の前に投げ出すようにして小芭内をかばった様子を思い出していた。
 なぜそんな事をしたのだ。
 しかし、「なぜ」と問いながら、もしここに継国兄弟がいたとしたら、彼らも同じようにして自分をかばっただろう事も予想できた。
 そしてもし鬼が俺に集まってきていたら……やっぱり俺も実弥と同じ事をしたんだろう。
「寒いな」
 いつの間にか前に来ていた義勇が、小芭内の肩を少し強くつかんでから手を腕へずらし、軽くこすった。小芭内が義勇の顔を見ると、彼は微笑んでいた。
「俺は全く寒くない」小芭内は一歩下がり、
「腹が減って死にそうだ」空腹など少しも感じていないのに、ぶっきらぼうに言った。

 車の中は暖かく、実弥もようやく茫然自失の状態から抜け出していた。
 義勇は「タクシーを呼んだ」と言ったが、やってきた車は白いナンバーがついており、どうみても「普通の」車だった。運転している男性も、制服を着ているわけではなく、義勇と短く言葉を交わす様子からすると知り合いのようだった。
 小芭内は後部座席で窓の外をじっと見ていた。実弥と義勇が「稀血」について話をしているのが聞こえる。聞こえながら、自分の視界が一人乗りの小さな宇宙船の窓越しに見えるもののような感じがしていた。強く目をつぶると、突然今日の河原での出来事が濁流のように瞼の裏に流れ込んできた。そして昼の事、朝の事、昨日の事、そして今週、先週、先月、入学した頃と、あっという間に記憶が脳内を決壊寸前のダムのようにしてしまった。
 びっくりして、小芭内は目を開ける。急に現実の音として実弥の声が耳に入ってきた。前を見ると、ヘッドレストからはみ出て見える義勇のはねた毛先。頬に粒が転がる感触がして、小芭内は自分が泣いている事を知った。
「なぜ……」声が震える。小さな声だったが聞きつけた実弥が小芭内を見た。
「小芭内? お前、どうしたんだァ」
 小芭内の大きな目からぼろぼろと涙はこぼれつづけた。前のヘッドレストを見つめ続ける彼の、飴色の瞳を持つ右目が実弥の側にあり、対向車のヘッドライトを受けてガラス玉のように光った。
「小芭内ィ」実弥は小芭内の細い肩にそっと手を載せた。小芭内は前を向いたまま、
「なぜなんだっ! 考えてもみろ!」と叫び、少し咳込んだ。ただ涙を流していたのが、今はむせび泣いている。
 助手席に座っていた義勇は、少し後ろへ首を捻った。
「ぼぼぼぼボビ岡先輩は優しい」小芭内は嗚咽の合間に声を絞り出し、
「実弥もずっと……じゅっどどもだちでっ」少し前屈みになり、助手席の背もたれに頭を付ける。
「そうだ、ずっと友達だァ」実弥は小芭内の背中を優しくさすりながら、落ち着けとは言わなかった。小芭内がこんなふうに言葉にして感情を吐き出すのは、十年一緒に過ごしてきて初めての事だったからだ。
「つっ……継国っ……ら、も、めちゃめちゃいいひゃっ……」
「確かにいい奴らだァ」
 小芭内は必死で話をしようとしていた。自分の中の歯車が、今までずっと眠っていた大きな歯車がゆっくり動き出しているような気がしていたのだ。これを止めてはダメだ。いや、止めたくない。
 喉へ落ちる涙と鼻水をのみ込む。「俺の周りには三人もいい奴がいる」
 小芭内の背中をずっとさすりながら実弥は頷く。
「モミ岡先輩も。四人だ。四人もいい人がいて……」また涙川の堤防が切れる。助手席から義勇がきれいなガーゼを差し出し、受け取った実弥はそれを小芭内に渡した。
「うずてん先生もいい人だ。煉獄先生も。俺の世界は……世界は……針先で開けた穴みたいに小さい。その中で四人と二人。だから……よよ世の中にはっ……いっぱいいい人間がいるはずだっ」鼻を啜り上げ、ガーゼで涙を拭く。拭いても拭いても涙はぽろぽろこぼれだしてきた。「そんな中でなぜ俺の母親は生んだ子をすぐに捨てるような人間だったんだ」
 実弥は目に涙をにじませながら体を小芭内の方へ向け、腕を回して彼をぎゅっと抱きしめた。
「そんなふうに俺は捨てられて、でもっ、もしかしたら、今になってっ……その辺の普通の子どものっ……や、や、やさしいおかーさんの中に俺の母親もいるがもじれない」
「小芭内ィ」実弥は小芭内の髪をなでながら、頭頂にそっと顎を載せた。目ににじんでいた涙は、今は二筋の跡を残して頬を流れていた。小芭内は実弥の鎖骨の下辺りに額を押し付ける。そのままくぐもった声で
「そう思うとマジで死にたい。でもお前らがいどぅがらもう死ねないっ」と言った。
 実弥は泣き笑いの顔で親友の頭をなで続ける。
 運転手はいつの間にか車を路肩に停車させていた。病院はすぐそこだ。
 義勇はグローブボックスから出したティシューを使ってちゅんと鼻をかんでから、車を出してくれと言って、軽く頭を下げた。

 

 翌日。
 その日も休日だったので、一年生の四人は昼前になると「継国部屋」に溜まっていた。話題はやはり、昨夜の鬼だ。実弥が事細かに「鬼狩り冨岡義勇」のカッコよさを語る。
「なァ小芭内、先輩が走ってきた時、どんなふうだったんだァ」実弥は小芭内に話を振る。今日は無口な彼の、気持ちをほぐそうとしての事だったが、義勇が到着したところが実弥には見えなかったので、知りたくもあった。
「さあな。暗かったからな」とだけ、小芭内は言った。
「俺ェ、あんとき『伏せろ』って言われたけど仰向けで転がっててよォ、よく見えたんだァ」
 継国兄弟は長くなりがちな実弥の話をおとなしく聞いている。縁壱は無表情であったが、小鼻がぷっとふくらんでいた。実弥の話に興奮しているのだ。それを見て、巌勝は微笑む。小芭内はつい、つられて自分も微笑んでいる事に気付く。
「俺はよォ、あの先輩がばっと飛んでぴやぴゃぴゃーっと鬼を斬ったのを見て、先輩に惚れてしまったんだァ」
 実弥の言葉に三人が同時に「えっ?」と言った。
 数秒、しじまが部屋を満たす。
「あー、うん」実弥が顔を赤くしながら咳ばらいをする。「ちょっと、嘘だったなァ、テメェらに嘘つけねェわなァ、うん、初めて見た時から好きだったァ」
 突然、小芭内が声を上げて笑い出した。珍しい事で、皆驚いて彼を見た。
 その時、ドアがノックされ、話題の主、義勇が顔を出した。
「元気そうだな。自分たちの部屋にいなかったから、少し心配したが」義勇は言った。
「たいていここにいるよ、心配、優しいね」縁壱がにっこり笑った。
 実弥が真っ赤な顔になっているので、小芭内と巌勝はなかなか笑いを収める事ができずにいる。実弥が足で軽く小芭内を蹴った。
「先輩が来たから麻雀やろう!」縁壱が立ち上がる。
「麻雀というのは四人でやるものじゃないのか継国」
「あー、そうだったね。そしたら大富豪かな」縁壱は忙しく動き回り、ベッドに座っていた実弥達に、床に置いたこたつの周りに座るよう指示する。そして義勇の肩をつかんで持ち運ぶように移動させ、実弥の隣に座らせた。それを見てまた巌勝が笑う。義勇はきょとんとしていた。
 まだ口角に笑いの張力を残したまま、こたつに座った小芭内は首を巡らせ窓から空を見た。なんとなく見た空だったが、昼の白い月と目が合ってしまう。
 今、星どもはなりをひそめているが、夜になって奴らを見上げても、俺はただの星を見るだけだろう。
 小芭内は皆の方へ向き直る。そして、縁壱から受け取ったカードをシャッフルし始めた。

 

次作:はじめてのクリスマス

前作:玉座の兄ちゃん 

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