氷上のデブ

思いついた、試した、いつまで続くか分からない。

君はガナッシュ、俺はチョコ

 一体誰のチョコなんだ?
 一体誰の、チョコなんだ?
 一体誰のチョコ、なんだ!

 同じフレーズがリフレインしている。歌いこそしていないが、うるさくて何も考えられない。
 継国巌勝は大きくため息をついた。
 朝食の席、炊き立てのご飯も今朝は口の中でもたついてもたついて、味噌汁をミックスしないと飲み込めない。
 向かいの席に座っていた不死川実弥が身を乗り出してきた。
 あかつき荘の朝は、だいたい皆朝食の時間が揃う。実弥の隣には冨岡義勇が、巌勝の斜め横には伊黒小芭内が着席し、朝食をとっている。
 実弥は一度台所を見た。ダイニングに背を向け調理台の前に立つ縁壱は、コーヒーを沸かす準備をしている。
「おい、なんだァ、ミチさんよ」
「なんだって、なんだ」
「なんだじゃねェぞォ、部屋ァ、出てきてからずっとため息じゃねーかァ」
 小芭内が聞き耳を立てているのが、巌勝には分かった。
「そういう日もあるだろ。仕事の事とか」
「テメェ、俺をなめんなァ」
 実弥が言うと、なぜか義勇が小さく吹き出した。たいていの人間とは違う所に笑いのツボがあるらしい事は、あかつき荘の仲間たち皆周知のことだ。スルーする。
「ミチは仕事がどうのってため息なんざついた事ねェだろォ」テーブルの中央まで、実弥の顔が迫る。
「あのなぁ……」巌勝は振り向いて、台所を見た。コーヒー豆をこぼしたらしい縁壱は、調理台やその下の床をミニ箒で掃いている。
「なんだよ。言えよ。悩みならァ、俺が解決してやるぞォ」
「悩みってほどじゃないよ」
「まぁ、サラリーマンなら朝はため息つきたくなるだろう。元気はつらつニコニコ笑いながら朝飯を食っていたら、躁病を疑いたくなる」小芭内が言った。
 助け船だった。巌勝は軽く唇をかみしめて、小芭内を見た。彼は、目を少し見開いてみせる。
「まぁ、俺も悩みは尽きねェからなァ」実弥が茶碗の中に箸を突き立てるようにして、白ご飯をすくって口に入れた。

 昨夜リビングでくつろいでいる時、縁壱がバレンタインのチョコレートを買いにデパートへ行くのにつきあってくれと、巌勝に言ってきた。
 他のものなら、「デートだ!」と、二つ返事で承諾しただろう。
 いや、承諾はした。直ぐに承諾したのだが、解せなかった。毎年コンビニであかつき荘メンバーのチョコレートを、自分のものも含めて買ってくる縁壱が、なぜ今年はデパートへ行くと言うのか。
 本命のチョコなのか。
 これが巌勝の中で、喉に刺さって取れない魚の小骨のようになっている。
 そもそも、巌勝はバレンタインデーが嫌いだった。惨めな思いをするからではない。彼はモテる方だった。
 バレンタインデーにはいつも、複雑な気持ちになる。
 巌勝は、縁壱の事が「大大大大大好き」だった。世界一好きだった。双子だから。かわいい弟だから。
 しかし、高校一年生の時、自分の縁壱への「好き」に、ネオンピンクの筋が入っている事に気付いてしまった。
 恋愛感情。
 その筋を、人はそう呼ぶ。
 自分自身の気持ちに疑いを持つことはなかったが、縁壱が相手では少し難しい。そもそも兄弟、しかも双子だ。更に恋愛というと、普通の人間がプラトニックの先に求めるものを想像してしまう。幼少時に性的虐待を受けていた縁壱を相手に、それを考える事はつらかった。そして、つらいことが、またつらかった。
 巌勝のネオンピンクはまるまってからまって、アフロヘアのようになってしまっているのにバレンタインだと浮かれている奴らを見ると飛び蹴りをかましてやりたくなった。縁壱を除いて。
 ひた隠しにしてきたネオンピンクではあるが、小芭内にはすぐにバレてしまった。それ以来、このピンクのアフロは二人の秘密である。

 朝食の後、小芭内と少し話す時間が取れたが、やはり朝は忙しく、巌勝はもやもやを抱えたまま出勤した。
 後いくつ寝るとバレンタインデーだ。
 少しもうれしくない。
 会社では、持ち前の切り替えの早さで仕事モードになり、一日無難に過ごした。残業は一時間。巌勝にしては少ない方だ。
 会社を出てから電車に乗り、最寄りの駅からはバス。バスを降りて、あかつき荘へ向かって歩いていると、後ろから実弥が自転車でやってきた。彼は自転車を降り、押しながら隣を歩き始めた。実弥は近くの工場で働いている。彼にしては遅い帰りだ。
「あ、そう言えば実弥、今朝悩みあるって言ってたじゃん」
 他人の悩みを聞いて気を紛らそう作戦である。
「あー、それなァ。悩みって言ったら小せェかもしれねェけどォ」
 実弥の悩みも、バレンタインにまつわるものだった。
 なんでも、デートをする事になっているのだが、義勇に「梅を見に行こう」と言われたらしい。
「梅……梅林か」
「知らねェよォ。俺、疎いからなァ。でも、俺と梅を見に行くってどうなんだァ。楽しいのかよ」
「うーん」巌勝は駄菓子屋の前で立ち止まった。自動販売機に歩み寄る。「冨岡先輩は梅が好きなんだろう、多分。お前にも好きになってもらいたいのかもしれない」缶コーヒーを二本買って、ひとつは実弥に渡す。
「そぉかァ? 俺と梅ェ? てか、先輩、梅なんか好きなんかァ?」
「冨岡先輩って、ちょっと不思議じゃん。いつもそんな感じじゃね? 常にベクトルがズレてる感じ」
 実弥に言ってから、巌勝は縁壱にも不思議なところがある事を思い出す。悩んでいるはずなのに、思わず笑みがこぼれてしまった。

 

 デパートへ来てみれば、きらめく店内の装飾、音楽や店内放送とは別のところから電波のように自分に到達するざわめきにのまれ、巌勝は「デート気分」にひたりきってしまっていた。
 コートを腕に掛けた女性客が数人、ショーケースからショーケースへと、欲しいものを求めて移動する。郵便配達のようだ。
 縁壱に袖をつかまれ、我にかえった。問うような表情で彼を見る。
「地下、行こう」
「菓子売り場だな」
 二人でエスカレーターに乗って、駅の改札から続く入口のある二階から、地下一階まで下りる。
「混んでるね」縁壱が困ったように笑った。この笑みには、兄に対する「つきあわせてごめんね」がにじみ出ていて、巌勝は微笑みながら
「大丈夫だ、俺は平気だ」と言った。

「ここは結構お高いぞ」
 洋菓子売り場のショーケースの前で、巌勝は弟の耳に口を寄せて小声で言った。
「うん、お高いね」言いながらも、縁壱はうれしそうな顔でケースの中を見ている。並べられた「お高い」チョコレートは、どれも菓子というよりアクセサリーのようだった。
 縁壱の横顔を見ていて、巌勝は胃が締め付けられるような感じを覚えた。胃が、横隔膜が、肺が痛い。
 マジで、本命のチョコを選びにきたのか? 震える手を、コートのポケットに突っ込む。社会人になって初めての大きな仕事で客先に出向いた時でさえ、これほど手が震えはしなかった。息を吸うと、前歯の下に下唇が入り込んでぶるぶると振動する。唇をぎゅっと結んだ。
「兄上だったら、どれをもらうと一番うれしい?」縁壱が巌勝の顔を見た。真顔になっている。感情が読み取れないが、巌勝は彼の小鼻がぷっとふくらんでいるのを見逃さなかった。縁壱は興奮しているのだ。
「さぁ」巌勝は顔をそらせる。そもそも、先程からショーケースの中など一秒も見ていない。
「兄上?」
「なぜ俺に訊く」不機嫌を隠せない。
 縁壱も黙ってしまい、二人でショーケースの手前の床を数秒見つめた。
「だいたい縁壱、こんなものを四つも買うほど、金、余ってんのか」巌勝は鎌をかけた。あぶら汗がこめかみに浮かぶ。四つなのか、別枠の一つなのか。
「四つも買わないよ」縁壱はぱっと顔を上げ、巌勝を見た。珍しく眉根を寄せている。たまに見る、この縁壱の怒り顔も巌勝は大好きだった。
 しかし今はかわいいなどと思っている余裕はない。
 四つも買わない。それなら……。
「そんなに意地悪する事ないと思う」縁壱の顔は少し悲しそうに曇った。「参考意見を聞きたくて兄上についてきてもらったのに。こんなにお高いのに、おかしなものを買ってしまったら、相当悲しいからね」
 再びショーケースを見ながら縁壱は続ける。
「俺だって、俺がちょっと普通の感じじゃない時がわりと結構多々あるって分かってるんだから」
「あー、いや、そんな事はないよ縁壱。お前はとてもいい子だ」
「兄上も変わってるね。でも、チョコレートは適切に選べると思うんだ」
 「適切に選べる」ね……。巌勝は床に寝転がりたい衝動にかられたが、なんとか気持ちを立て直してショーケースの中へ視線を移した。
「ホントに兄さんの食べたいと思うものでいいのか?」
「うん、それがいい、間違いない」縁壱は再び笑顔になる。
 今夜は小芭内と酒を飲もう。

 

 デパートから帰った夕方、巌勝は実弥から梅見の話を聞いた。
 精神的に半死半生だったが、またもや「人の悩みを聞いて自分の悩みをごまかす」作戦である。
 なんと実弥は、下見をしてきたらしい。
「梅園なんてあったっけ、この辺」縁壱が淹れてくれたコーヒーを飲みながら巌勝は訊いた。縁壱は台所で夕食の支度をしている。今日はデパートで買った総菜に、後はスープとチャーハンを作るらしい。
「この辺てか、長浜ァ。盆梅展行ってきたァ」
「長浜?」とんきょうな声になってしまう。長浜は、あかつき荘のある地域からは電車でも一時間以上かかる。
「で、分かったのか――」周りを見回して義勇の姿がない事を確認する。「冨岡先輩の真意は」
「んー、や、分かんねェ」
 実弥の答えに、巌勝はコーヒーを吹き出しそうになった。
「カッコいい梅がやたらあっただけだァ」
「あのな、実弥、今更だけどさ、冨岡先輩が十四日にその盆梅展に行こうつったらどうすんだよ。初めて来ましたみたいな真似できんのか?」
 実弥は目を見開いて巌勝の顔を見たまま、十秒は黙っていた。

 

 その夜。
 夕食までは部屋にこもって仕事をしていた小芭内が、巌勝のやけ酒につきあってくれた。
「飲みすぎんなよ」まず、釘を刺す。
「大丈夫、大丈夫、もう後ちょっとだしな」巌勝は軽くなった焼酎の瓶を持ち上げる。ほろ酔いだ。
「はぁ」瓶をコーヒーテーブルの上にそっと置き、首をもったまま瓶にもたれるようにうなだれる。
「なんだなんだ、いつもの『縁壱ィィィィ』はどうした」言って、小芭内はペットボトルのジャスミンティーを一口飲む。
「グッバイ、縁壱」
「はぁ?」目をむく。最狂ブラコン継国巌勝のせりふとは思えない。
「もう終わりだ」瓶をつかんだまま、顔を上げる。正面の大窓にかかった分厚いカーテンを見つめるが、焦点ははっきりとは合っていない。「バレンタインという事は、おおむね相手は男だ」
「まぁ、そうだろうが、そうとも言えない。ボーダレスな時代だからな」
「なんかしらん、女にとられるよりつらい」
 巌勝の放った言葉に打たれたかのように、小芭内は動きを止めた。
「お前な、お前も男ぞ?」ゆっくりと、小芭内は言った。
 巌勝はぼんやり小芭内の顔を見る。
「お前に贈るためのチョコかもしれんだろう」
「俺にくれるチョコを俺に選ばせるか? 普通、こっそり買いに行くだろう」
「普通はな。『普通』、はな。でも、よりちだぞ?」巌勝の背中をバンと叩く。「十分あり得る」
 巌勝の目に光が戻ってきた。
「小芭内、お前、ホントに賢者だな」
 お前らがアホなだけだろう……。小芭内は数秒目を閉じ、また開けて巌勝を見た。
「行け、兄上チャン。確かめろ。怖がっているなど、継国巌勝らしくないぞ」
 巌勝は突然立ち上がり、めまいがしたのかまた一度ソファに座り、それから立って、小走りで廊下を去っていった。焼酎の瓶を持ったままである事を指摘したかったが、小芭内は間に合わなかった。

「兄上! どうしたの?」
 縁壱は、ベッドに入って部屋の電気を消そうとしていたところだった。
 突然部屋に駆け込んできて、ベッドの横から布団をまくって潜り込んできた兄を見て、楽しそうに笑う。少し横へ寄った。巌勝はベッドの中に収まり、焼酎の一升瓶を赤子のように抱いている。それを見て、縁壱は更に笑う。
「なんで? なんで瓶連れてんの? 兄上、楽しいね!」一度起き上がっていたのを、また布団に入り、巌勝の隣で横になる。
「今日、楽しかったな、チョコ買いに行って」巌勝は言った。瓶は、彼が触れていないところはひんやりとしている。
「んー、そうね、そうだね。でも俺、ちょっと悪い事したかなって思う、兄上に」
 一瞬、沈黙がベッドを包む。
 巌勝は瓶をベッドわきの床に置きながら、
「なんで?」と訊いた。
「ちょっと、つらそうだったから。なんか、あんまり楽しそうじゃなかった。つきあわせてしまって悪かったかなって思う。兄上、デパートあんま好きじゃなかったかもしれないのに」
「デパートは好きでも嫌いでもない。でもちょっと、気分が悪くなったんだ」
「ごめん」
「寂しすぎて」
「えっ?」
「寂しすぎて気分、悪くなった」
 縁壱は横向きになって、巌勝を見た。彼は仰向けで天井を睨んでいる。
「寂しいって、なんで?」
「縁壱が、今日買ったチョコを誰かに贈る。そうすると、縁壱なんて、絶対に好かれるから、めでたくカップルが成立する。そうなると兄さんはもう、用済みだ」
 少し黙った後、縁壱は急に笑い出した。巌勝は驚いて縁壱を見る。
「兄上! 兄上! そんな事ある訳ないよ!」
 巌勝は少しむっとして
「縁壱はすぐにそう言う。自分なんか好かれる訳がないなんて、本気か? お前がどれだけかわい……いや、いい奴か、お前分かってないんだ」布団の中で縁壱の手首をつかんだ。
「兄上ぇ、そうじゃないよ。俺の事じゃなくてチョコの事だよ」
「えっ」
「あのチョコ……」縁壱は巌勝の手をはずし、起き上がってヘッドボードの端に置いてあった小さな手提げの紙袋を手に取った。
「これはさ、兄上にあげたいんだよ」
 巌勝は完全に言葉を失う。
「やや! カップル成立とかいって、兄上そんな事言ったけど、そういうんじゃないよ! 安心して!」
 あ、安心? 俺は喜んでいいのか悲しむべきなのか……。巌勝も起き上がる。
「俺、よく『変だね』って言われるから、自信なくて。兄上に訊いたらそれは正解な訳じゃん。だから、ホントは一人で買いたかったけど――」
 巌勝は、最後まで聞くのももどかしく弟の言葉を遮るように彼をぎゅっと抱きしめた。二人の胸にグシャという音のような感触を伝えながら、紙袋がつぶれる。中の箱は硬い。その箱を胸に沈めようとするかのように、巌勝が更に力を込めて抱きしめると、縁壱も兄の背中に腕を回した。
 縁壱が自分の背中で、パジャマを握りしめている。
 巌勝は大きく息を吸った。縁壱が口の中で「兄上」と言った。直ぐに壊れる泡のような声だった。懐かしかった。高校の頃、夜に悪夢を見て泣きながら起き出した縁壱をなだめると、よくこうやって巌勝にしがみついて寝巻の背中を握りしめていた。
 今でも落ち着くのかな。巌勝は首を傾けて、縁壱のふわふわした髪に鼻先をつけた。
「一番感謝あるし、大好きだから、今年こそみんなと違うの、あげたかった」口元が巌勝の肩に押し付けられ、縁壱の声は中途半端にミュートがかかったトランペットの音のようだった。しかしそれは巌勝の胸にとても響いた。
「兄さん、悩み過ぎて死ぬとこだったぞ」ハグを解き、少し離して縁壱の顔を見る。
 そして、縁壱が返事をする前にキスをした。
 ぎゅっと目を閉じ、ずっとずっと憧れてきた縁壱の、小さくふっくらした唇を頭に描きながら、自分の唇でまたそれを感じた。
 モテる男であり続けた巌勝だったが、縁壱一筋できたために恋愛経験は皆無だった。見聞きするだけで何も分からぬまま、とにかく衝動に突き動かされた舌が閉じられた縁壱の前歯をつるっと滑る。
 はっとした。
 マズい。顔を離す。
 縁壱は、こぼれ落ちそうなほど目を大きく開けて巌勝を見ている。
 縁壱……ずっとそんな目をしていたのか。していたんだろうな。俺の必死の顔も見ていたんだろうな。
 焼酎の酔いを追い越しざまに引き連れた火の小人が、頬や頭でぼっと炎を吹いた。
「ごめん」火加減とは逆に、小さな声で巌勝は謝罪した。
「あのチョコ、今食べようか」縁壱は言った。「当日はチロルあげるからさ」
 巌勝が見ると、よれた紙袋を持った縁壱はにこっと笑った。
 縁壱が紙袋から包みを取り出し、リボンやシールを取り去って包み紙を開けるのを、巌勝は黙って見ていた。少し、泣きたい気分だった。十年近く想いを秘めてきたのに何をやっているんだ俺は。
 縁壱が箱のふたを開けた。チョコレートたちは、店で見た時よりしっとり落ち着いた感じに見える。
 二人で食べる高価なチョコは、とてもおいしかった。こんな時には味がしないのではないかと巌勝は思ったが、縁壱のベッドに二人並んで食べていると、濃厚なチョコレートの味が、感情のすべてを包んだ。甘く甘く、そして香ばしく、優しい世界に、巌勝は思わず口角を上げ、二度、三度軽く頷いた。
「兄上ぇ」縁壱が二つ食べ終えてから
「チューしてもいいけどさ、さすがに口にチューはやめてね?」と言った。
 巌勝は肩を落とす。しかし、
「時々にして?」と縁壱に言われると、びくっと背筋を伸ばして彼を見た。縁壱は少し八の字眉になって微笑んでいる。
「ごめん、大丈夫。縁壱の嫌がる事は絶対しないよ」
「一回なら嫌じゃないよ」
「えっ?」
「年一回なら、嫌じゃない」
「あー、ありがとう。っていうか……いや、ホントごめん、俺、酔ってたから。大丈夫だよ」
 年一回って縁壱、それ、今年の分もう終わってるじゃないか。
 そう思うと、笑いがこみ上げてきてしまい、巌勝は布団にもぐって大いに笑った。布団の上から縁壱が軽く叩いてくる。
 彼らはそのまま二人一緒に朝まで眠る事にした。
 縁壱は絶対自分のそばにいてくれる。巌勝は感じていた。
 そして、俺が縁壱のそばを離れないのを許してくれる。
 ゆっくりゆっくり、ずっと一緒にさいごまで。死ぬ時までに一度だけ言えたらいい。

 

「先輩ィ。なんで梅なんだァ?」
 翌朝の朝食の席で、実弥が唐突に質問をする。
 巌勝も小芭内も、箸を止めて義勇を見た。今日は手際よくコーヒーメーカーをセットした縁壱が、巌勝の隣に座る。
「梅を見ると、春を感じられる」茶を一杯飲んでから義勇は答えた。
「春……」
「正月、初詣にいくように、二人で春を迎えたかった。それだけだ。つまらなそうなら別の所でもいいぞ。どこか行きたい所があるのか不死川」
「俺は盆梅展に行きてェ」
「えっ、ボンバイエ?」と縁壱。彼の腕を叩きながら巌勝は
「結局梅じゃん」と笑った。「冨岡先輩の梅を見に行く意味、いいすね」
「俺が勝手に思っているだけだから、いいかどうかは分からないが。新しい季節は大切な人と迎えたい」
 表情を変えずに話す義勇の隣で、実弥は顔を真っ赤にしている。
 小芭内が鼻を鳴らした。
 昨日の今日で、巌勝は二人をうらやましく思う。

 玄関を出た時、縁壱が追いかけてきた。
 振り向くと彼は、
「チョコ、いっぱい残ってたけど、夜中目が覚めた時、俺、全部食べちゃった」と言った。
「えっ。あ、あれを全部?」
「なんかすっごくおいしかったし……それになんかちょっと、よく分かんないけど俺、うれしかったから」
「なにが」
「兄上が……」
「チューしたことか」声をひそめる。
「違う違う!」縁壱は慌てて顔の前で手を振る。「そうじゃなくて、なんか、兄上がすっごく優しい事がうれしかったんだ」
 巌勝は黙って縁壱の顔を見た。頬がばら色に染まっている。
「兄さんが優しくて、なんで『お高いチョコ』を食べ尽くすんだ」
「ごめんなさい。調子に乗った」縁壱は足元に目を落とす。
「分かった。罰がある」
「あー、チューでしょ!」縁壱は顔を上げ、からかうような顔でにんまり笑う。
 縁壱の声が大きかったので、巌勝は大いに慌て、彼の口を手でふさいだ。実弥も義勇も既に職場へ出かけていたが、上を見上げると、二階の出窓から小芭内が見ていた。状況を分かっているのかいないのか、すっと親指を立てて見せる。
「罰がチューでいいなんてやっぱり兄上は優しいね」巌勝の手を逃れながら笑い、縁壱は玄関ドアを開ける。閉める前に顔をのぞかせ、
「気を付けてね」と言った。うれしそうな顔をしていた。

 バス停まで三分ほど。巌勝は、縁壱の笑顔の残像を紐のついた風船のようにひきつれて歩く。
 彼には縁壱の気持ちが分からなかった。
 うれしいのか? 始め、やめてと言ったのに。本当はうれしいのか?
 もしかすると……いや、どうだろう。
 空を見上げると、薄い雲がかかり白っぽい水色をしている。
 あの雲を取り払えば、真っ青な空があるのにな。
 バス停には、すでに五人ほどがバスを待っていた。会釈をしながら列の最後尾につく。道の向こう側に建つ民家の庭木を眺めていると、梅の木に目がとまる。すでに半分ほど咲いている。紅い花だった。
 そうだ。今日の帰りまた、あの店によってあのチョコレートを買おう。再び二人並んで食べるのだ。今度は俺のベッドでもいい。リボンはピンクにしてやろう。あればネオンピンクに。そうやって、春を迎えるのだ。
 ついついほころばせてしまった口元をそっと手で押さえた時、カーブを曲がってバスがやってきた。

【完】

二次創作INDEX【小説】